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    【歴史】広島誕生B「西国街道が繋がった時」

    更新 : 2022/3/9 9:55

    皆様こんにちは。

    艱難辛苦の果に、10年の歳月をかけてようやく完成した広島城。
    しかし、完成の翌年に勃発した関ヶ原の戦いに敗れた城主・毛利輝元は、勝者の徳川家康により、領土を削られて広島を追われます。

    当時、京都から九州を結ぶのは瀬戸内海の海運が主流でした。対して陸路の街道「西国街道」は山の中。
    広島は河口の中洲や沼地が多く、これを避ける為に、海側の海田町(安芸郡海田町)から五日市(広島市佐伯区)の間は、山側の大町(広島市安佐南区)辺りまで迂回していたのです。

    輝元に代わって広島城主となったのは、家康の味方・福島正則。
    彼は、山側を通っていた西国街道を、一気に南の広島城下に引入れました。
    これにより江戸時代になると、広島城下は街道を介した物流の拠点として大いに栄えます。

    しかし、最近では最初から広島には西国街道が整備されていたとする見解もあります。

    前回のブログで、「豊臣秀吉が大軍で広島に来た」と紹介しました。
    更に徳川家康も、側近の残した記録で同年に広島に来た事が記されています。
    当時、家康の側にいた侍医が書き残した「慶長年中卜斎記」。
    そこには徳川の他、上杉景勝と前田利家も同時に広島入りしたとあります。
    更に、翌日の先発で上杉と前田が揉めているのを、家康が仲裁して収めたと書かれてあります。

    豊臣本隊。それに徳川、上杉、前田連合軍。少なくとも3万はいます。これらの大軍を迎え入れる事が可能な位、既に広島は街道と街が整備されていたと考えられます。
    また、広島城の築城当時から「猿猴橋」や「京橋」等、広島市内を流れる川に、橋が掛けられていたという記録もあります。(諸説あります)

    これで毛利輝元が艱難辛苦を覚悟してでも、広島に城と町を創った理由がわかります。
    陸の大動脈である西国街道が広島城下を通る事で物流が街に集まります。それを瀬戸内海の海運と結んで、陸海運の結節点としたのです。
    その慧眼は400年の時を超え、日本有数の大都市・広島が誕生した事が証明しています。

    ただ、大都市になるには更に拡張が必要でした。土地や街の拡張、港湾施設の整備、課題は目白押しです。
    江戸時代の歴代広島藩主も、明治政府の県令も、戦後の市長や県知事も、それぞれが課題の克服に尽力し、広島を発展させていくのです。

    また機会があれば、その辺りのお話をさせていただきます。

    広島築城前の、広島周辺の想像図です。
    豊臣秀吉や徳川家康の大軍を通すには余りにも貧相で、両雄が広島にきた事実から、やはりある程度発展していたのではないかと思います。

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