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広島カープ(広島東洋カープ)誕生の物語
更新 : 2022/3/28 19:25
皆様こんにちは♪
春の訪れと共に、今年も野球のシーズンが開幕しました♪
燃える赤ヘル。僕らのカープ。
そうです。
私達、広島市民にとっては、広島カープは誇りであり、希望の星なのです。
(勿論、広島市にも他球団ファンは多数おられます)
広島にプロ野球球団が創設されたのは、終戦間もなくの1950年。
広島市民の期待を受けて始まった最初のシーズン。残念ながら広島カープは最下位でシーズンを終えます。
そして、その年の末。
誕生したばかりカープは既に身売りか、解散かの瀬戸際に立たされたのです。
原因は、ズバリ資金難。
当時は入場料収入がチーム成績による配分制で、最下位の広島に入る金額は僅かで、運営に係わる資金が不足していたのです。
そして年が明けて1951年2月26日。驚愕の出来事が起こります。
広島市警本部の有志が広島総合球場(現県営球場)にパトカーを横付けし、1万5620円をカープに寄付します。
それがきっかけで、続々と支援金を球団に寄せられるように、球場正面入り口に四斗だるが置かれ、その中にお金を寄付したのです。
「たる募金」の始まりです。
募金と球団関係者の奔走の結果、年末までに400万円を集めることに成功しました。
この一件が通称「昭和のたる募金」と呼ばれ、史上最大の集金作戦としてNHKでも取り上げられました。
そして観客数は年々伸びていき、1957年に市民球場(現在の旧市民球場)が建設されると一気に70万人代まで観客動員が増えました
生活が厳しい中で、広島の人がカープに愛着を持って、観戦に行っていたのかがよく分かります。
1967年に「東洋工業」がメインスポンサーとなり、「広島東洋カープ」となります。
実はこの東洋工業は、MAZDA(本社:広島県府中町)の旧社名なのです。
そして1975年。ついに球団創設25年目にして、悲願の初優勝。
実は優勝以外にも、広島カープの歴史を変える、大きな出来事がありました。
1975年シーズン前に、球団初の外国人監督ジョー・ルーツ氏が就任。
これまで今「紺」が基調のユニフォームに、燃える闘志を注入します。
「赤ヘル」の誕生です。
これ以降、赤=カープ=広島の構図が定着します。
ここ数年、感染症や世情の不安定な日々が続いておりますが、野球を楽しめる平和に感謝しつつ、今年も広島カープの活躍を楽しみにしています♪
(他球団ファンの皆様、ごめんなさい)
カープが優勝すると、こうなります(笑)
市内を走る路面バスは、会社関係なく漏れなく優勝おめでとうの横断幕を掲示して走ります。
優勝決定の翌日から1週間くらいの間、このような姿が市内各所で見られました。
(広島バスセンターにて撮影)
こちらはJR電車、227系です。
普段は「普通」「快速」と書かれた列車種別が、カープ坊やになっています♪
カープ坊やは、側面の行き先表示にも登場します。
(JR海田市駅にて撮影)
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