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奥道後 壱湯の守のお知らせ・ブログ
俳句の聖地「愛媛・松山」の句碑を紹介!Part3
更新 : 2022/2/5 20:26
今回ご紹介する句碑は「種田山頭火(たねださんとうか)」作の俳句です。
「ずんぶり湯の中の顔と顔笑う」
これは、温泉が大好きだった山頭火が、松山時代を支えてくれた
高橋一洵と一緒にずんぶりと湯に入り、ザザーと湯水があふれる情景が
浮かぶような一句となっております。
湯気ごしに目があえば、思わず笑顔がこぼれる温かさが感じられます。
この句碑は、道後温泉街にある大和屋本店とひめぎんホール東側
俳句の道の2つにあり、大和屋本店句碑の直ぐ側には
道後温泉を引き湯した足湯があります。
道後温泉街には他にも句碑が点在しておりますので、
散策がてら、句碑を探してみてはいかがでしょうか♪
山頭火の俳句
俳句の起源は正岡子規に始まりますが、この時はまだ季語
や字数の制限がなく、子規自身も「十七字にならねば十五字、
十六字、十八字、十九字、乃至、二十二三字一向に差支なし」と
述べています。そこに発句の意味を重要視し、
字数や季語などの決まり事を作ったのが高浜虚子です。
現在主流である五七五の十七字に季語を一つ含めるという形は
虚子が作ったものと考えられています。
その俳句の決まりを一向に気にせず、自由に俳句を詠んだ代表的人物として
出てきたのが山頭火と尾崎放哉です。山頭火は俳句を自由に詠むことを
居場所を定めない自らの境遇と、自然と一体化しているというイメージと
重ね合わせたのではないかと考えられています。
〜種田山頭火〜
1882年12月3日、山口県佐波郡生まれ。
日本の自由律俳句で旅のさなかに数多くの句を残した俳人。
1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して「耕畝(こうほ)」と改名。
各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。
1939年10月1日、種田山頭火は終焉の地を求め、松山を訪れた。
同年12月15日、御幸寺の納屋として使われていた建物に入居。
「一草庵(いっそうあん)」と名付けられた。
〜高橋一洵〜
一洵は明治32年、松山生まれ。
松山高等商業学校(現:松山大学)の元講師・教授。
松山商大(現 松山大学)で教鞭をとり、
古代印度の宗教・社会・政治の研究。
俳人山頭火を敬愛して最期を見守ったと言われている。
昭和27年に再建された一草庵は、種田山頭火が約300日を過ごした場所。放浪の果てに辿り着いたこの地で、新しい俳句を作り続けた。
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