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塩の湯 笑顔で若返る 新安比温泉 静流閣のお知らせ・ブログ
両親のこと
更新 : 2012/2/13 22:07
身も心もミネラルでミラクルになりたいひでこ女将です。
少し、両親のことでも。(父は7年ほど前がんで亡くなりました)母は江刺・父は花巻の出身です。
釜石の家は、津波であととりの一家が亡くなっておばあさんが1人暮らしをしていた家があり、
そこと母方が遠縁で母が20歳のころ養女にはいり、父が婿養子になったそうです。
(父は予科練にいてもう少しで特攻隊にもいったかもなそうです。
小さな漁師町で、海のことなど何も知らない両親がそれから、海の仕事をはじめました。
本家や親戚はあるとはいえ、血縁関係があるわけではないので、
その辺でも苦労はしたと思います。
しかも5人姉妹。当時は男の子は小学生ともなれば、「けどり(櫂とり)」といって、
学校を休んで、ウニやあわび漁にでかけ、立派な家業についていました。
うちは女の子ばっかりなので、そういうこともできず、暮らしも大変だったと思いますが、
そんな苦労を感じたことはありません。教育熱心ということもありませんが、
核家族なせいか、学校の行事には両親とも必ず来ていました。
一番の思い出は、「花見の陣屋」といって5月の子供の日に、お寺の近くの高台の広場のようなところで、女の子たちが集まってお花見のような、ことをして楽しんでいたんだと思いますが、
いつも白いフリルのブラウスにひだのスカートをはいておしゃれをし、
必ず海苔巻きやおいなりやお煮付けなどをつくってもらっていました。
そうだ、男の子たちは、そこそこの部落で、陣屋遊びといって、基地つくりをしていたんだ。
父は、クリスマスともなれば杉の木を切ってきて、綿などで飾り、クリスマス会をしたり、
そりやスキーををつくってくれたり、なんかハイカラなところがある人でした。
今思えば40年以上前にいなかの小さな部落で、そんなことをしていた家はそう多くはなかったかもしれません。父と母の思い出といえば、物心ついた小さい頃、枕を並べて私たち
と同じ部屋で寝ていると、寝る前や朝方、母が、「父さん、今日はこうでこうで、こうだからこうしないと・・・」と仕切っていて、それを父が「うん、うん」といって黙ってきいて、
いつもこつこつ働いていたような記憶があります。まぁ、父に怒られたことはないですね。ので、
どこもそうなんだろうと思いきや!嫁いだ家が真逆だったので、それはそれは、大変でした。