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能舞台のある宿 風姿花伝 大和屋本店のお知らせ・ブログ
熟田津に船乗りせむと月待てば・・・
更新 : 2007/11/11 22:50
あまりにも有名な額田王の歌です。
松山市城北の護国神社境内の北にひときわ大きな石碑があります。
額田王の歌碑と説明の副碑です。あくまでも、この場所に座するのは場所を確定する意味合いではないそうですが。
潮を見、物事の情勢をはかれといった意味合いに感じます。
場所をめぐっては、今もあれこれいろいろな説がございます。
(和気・堀江 古三津・三津浜 松前・吉田浜 高岡・南斉院
姫原付近 御幸寺山麓 松山平野運河説 道後温泉付近
東予市広江港 西条)
歌碑副碑より
熟田津に船乗りせむと月待てば
潮もかなひむ今はこぎ出でな
紀元1321年今から1300余年の昔唐と組んだ新羅が百済をくだして日本に向かうのを憂えられた斉明天皇は、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)その弟君の大海人王子(後の天武天皇)などとともに百済を助けるため筑紫に軍を進められようとされた その途中熟田津の石湯の行宮に泊まらせられて伊予水軍を集結し兵船を整え進発の時を待たれたのである。
時は来た!十五夜の月はまさに出ようとし、潮はみちふくらんで来た。軍を統率する中大兄皇子の傍らに侍する額田王の詩情は高まってくる。天皇をようする大軍船団と月の光と満潮とが融合して豊かにたゆたいその大生命が満ちきった一瞬充実しきった額田王の心気は発せられた。「今は漕ぎ出でな!」渾身の力をこめてしかも優容迫らず清明雄大 緊密なる流動の節奏と磐石の重き格詩をもって歌いあげられたのである。天皇の大号令がこの歌にはこもっている。
古今の絶唱がここに生まれたのである。
この歌は、日本女性の詩歌として世界に誇り得るものでありまた日本の歴史的意義をもつものである。
「今は漕ぎ出でな!」と進発した当時の伊予水軍が、武運つたなく白村江の戦いに敗れ困難に殉じたことをしのぶとき、哀悼の情切なるものがある。しかし潔く山桜のように散った伊予水軍の心気はついに唐新羅をして日本を侵させなかったのである。
この歌碑を仰ぐものよくこの大生命を感受し雄大生命なる気象を養い「いざ!」の充実した心気に生きられんことを
みなさまも、熟田津の碑を訪ねてみられては。
今ははるか 幻の 熟田津へ・・・