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細川ガラシャ〜細川ガラシャと味土野〜
更新 : 2012/4/15 20:34
丹後は細川ガラシャにちなんだ、たくさんのゆかりの地があります。ひと足のばしてガラシャの足跡にふれてみて下さい。
戦国時代の武将、明智光秀の二女として生まれた。幼名を玉という。ガラシャというのは洗礼名である。
天正6年(1578)、織田信長のすすめで宮津城主細川忠興に嫁いだ。忠興、玉ともに16歳であった。忠興は、聡明にして美しい玉を愛し、玉にとっても幸せな生活を送っていたが、長くは続かなかった。天正10年(1582)、父である明智光秀が主君織田信長に反旗を翻し、京都の本能寺で信長を討ち取ってしまうことから玉の人生は狂いを来たしてくる。
明智光秀の謀反は中国攻めの羽柴秀吉に伝わることとなり、武力対決は必死の様相を呈していた。当然、明智光秀は娘婿の細川忠興に援軍の要請を出すことになる。しかし、この義父の要請を忠興は断ってしまう。そのため忠興は、秀吉側に立つ人間として謀反人の娘を傍に置いておくことが出来なくなったのである。
秀吉の命により忠興がガラシャを泣く泣く幽閉したのが弥栄町味土野である。居住地(女城)跡には、「細川忠興夫人隠棲地」の石碑が立っている。男城は、谷を500mほど隔てた台地にあって、警固の武士数十名が詰めていたという。
秀吉が光秀を山崎の戦いで破ったのは周知の通りである。幽閉が解かれてからは、大阪の細川屋敷に住むようになり、そこでキリスト教の洗礼を受けたようである。秀吉の死後、石田三成と徳川家康の対立が決定的になったときに、三成側に人質になるよう脅しを受けたガラシャは、これをきっぱり拒絶。屋敷に火を放ち、家臣に自らを刺すように命じた。キリスト教徒は自害を禁じられていたからであろう。「ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」という辞世の句が残っている。僅か38歳の生涯であった。
味土野の女城の近くには、ガラシャが植えたとされる藤の蔓が大木に巻き付き、今も薄紫のきれいな花を咲かせている。
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