宿番号:374355
筑波山江戸屋のお知らせ・ブログ
筑波山を知ろう☆[vol.6]
更新 : 2010/4/19 18:12
こんにちは!minaです
さて今日は明治終りから大正のお話です。
明治22(1889)年1月に水戸鉄道会社の水戸線が、
明治29(1896)年には日本鉄道会社の海岸線(今の常磐線)の上野―水戸間が、
それぞれ開通し、東京や栃木から筑波山に来るお客様が増えました。
鉄道の便利さを知った筑波の人たちは、
山のふもとにも鉄道を敷こう!!と考えます。
そしてついに大正3(1914)年4月、筑波鉄道株式会社が設立され、
常磐線土浦駅から筑波山の南西をめぐって、
水戸線岩瀬駅までの路線が開通します。
これが関東鉄道、筑波線です
さらにその後、大正11(1922)年には筑波駅(現筑波山口バス停)から
中腹までの自動車道路が開通します。
翌大正12(1923)年の乗合自動車は9代目吉岡茂夫の熱意により、
運行がスタートしたそうです。
このとき現つくば道沿いにあったみやげもの屋や宿屋は、
軒並みつぶれてしまいます。
残ったのは自動車道路の始点と終点のエリアだけ。
そう江戸屋はまさに終点に位置していたために、
生き残れたんです〜〜〜
奇跡に感謝
さて大正のお話に戻ります★
大正14(1925)10月には、筑波山中腹から山頂までケーブルカーが開通し、
ますます気軽に登山が楽しめるようになりました
明治以降は文学作品の舞台としても、筑波山は題材にのぼります。
代表的なのは下妻市出身の詩人、横瀬夜雨(よこせ やう)です。
彼は3歳のときに病気にかかり、背中の骨がまがってしまいます。
この身体の障害からくる心の暗さが、
「夜のように暗く、雨のようにさびしい」と批評されたことから、
ペンネームを「夜雨」に決めたと言います。
また水戸に生まれた日本画の大家、横山大観(たいかん)は、
富士山だけでなく、筑波山の絵も残しています。
下館市出身の板谷嘉七は、のちに筑波山の略称「波山(はざん)」を自分の号にして、
陶芸家として活躍しました。
彼の作品には筑波山の7つに変わる色調が残されているとも伝えられています。
さて次回はいよいよ最後、昭和をお送りいたします。
だいぶはしょりながらでよみにくいところがあったかとは思いますが・・・
今回もご一読いただきまして、ありがとうございました★