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兵どもが夢の跡が花咲くチューリップで一杯
更新 : 2014/4/3 14:31
「夏草や兵どもが夢の跡」とは松尾芭蕉が平泉を訪れた際に詠んだ句で、杜甫の「国破れて山河あり、城春にして草木深し…云々」という漢詩に着想を得たものと言われていますが、激戦の古戦場とされるところが、今ではのんきな景色を楽しめる地になっていたりすることはよくあります。
さて佐賀の歴史を紐解くと、ターニングポイントとなる合戦がいくつかありますが、その中でもひときわ重要な戦いに「今山の戦い」があります。
北九州に本拠を置き北部九州一帯に領域を広げていた大友氏が、佐賀の覇権を龍造寺氏から奪おうと6万の軍勢を差し向けたのは元亀元年(1570年)3月のこと。
それに対し龍造寺氏が用意できる軍勢はわずか5,000。
それでも龍造寺側の士気は高く、戦いは8月になっても続いていました。
業を煮やした大友宗麟は弟の親貞を総大将として佐賀に送ります。
大友親貞は今山に陣取り、8月20日に総攻撃を決定、それに先立ちその前夜「勝利の前祝いとして」酒宴を設けさせます。
総攻撃に出る大友勢は3万、対する龍造寺勢はわずか3,000。
酒宴を設けたとしてもおかしくない圧倒的な状況でした。
間者からその情報を得た龍造寺の家臣 鍋島直茂はそこを狙って夜襲することを進言します。
龍造寺側では、籠城での徹底抗戦か開城して降伏するかで紛糾していました。
どちらの側から見ても直茂の案は無謀で無駄な試みと見えましたが龍造寺隆信の生母・慶ァ尼が檄を飛ばして夜襲の案が決定します。
直茂は手勢わずか500名を率いて前夜佐賀城を発し今山の大友勢の後方に兵を伏せると、宴会明けの明け方「裏切り者が出たぞ!」との虚報を大友勢の中に流させます。
そこで発生した混乱に乗じて兵を繰り出すと、一直線に本陣に突入し総大将の大友親貞を討ち取り城へと帰ります。
大混乱となった大友勢も散り散りに退却し、佐賀城への総攻撃は回避されました。
大友勢の被害はわずかでした。
しかし、攻勢のタイミングを失った大友勢は、結局攻め切ることが出来ず9月には龍造寺との間に講和を結びます。
この佐賀の歴史の転換点となった今山では、今まさに、色とりどりのたくさんのチューリップが美しさを競い合っています。
地元の老人会「福寿会」の皆さんが丹精込めて育てたもので、その数実に13,000本以上!!
ぜひお近くにお越しの際にはお立ち寄り下さい。
4月中旬まで楽しんで頂けます。
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