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越後長野温泉 嵐渓荘のお知らせ・ブログ
「嵐渓」の由来【Part.1】
更新 : 2019/6/12 11:25
嵐渓荘の嵐渓とは?
と時々お客様に尋ねられます。
答えは簡単単純で、五十嵐川の渓谷エリアで「嵐渓」です。
三条市には「嵐北(らんぽく)」「嵐南(らんなん)」というエリアもあります。
その嵐渓を冠にした本があります。その名もズバリ「嵐渓史」。
明治時代の書籍で私も以前コピーを頂いて目を通したことがあります。
当時これは読んでみたい!と思ったのですが、
古い言葉や漢詩もたくさん掲載されていて…そっと閉じました(^^;)
今回、その「嵐渓史」が国立国会図書館のデジタルコレクションに収蔵されていると知りました。
がんばって序文を読んでみました。
我が嵐渓の地たる、地勢隆々、リイ(機種依存文字のため表示不可)【りい:まがりくねって続く様子】として東西に開け、秀麗なる四山は畫屏【画屏:美しい風景】の如く斯郷を繞【めぐ:巡】り、蜒蜒縹渺【えんえんひょうびょう:うねうねと長くぼんやりかすかに】たる清江は滾々【こんこん】として其間を流る。沃野平嚝【へいこう:たいらに広く】、累々【るいるい:おびただしい】たる果實【果実】は結び、美田千頃【せんけい:遠く彼方まで】青々たる稲苗は栄ゆ。渓流の潺湲【せんかん:さらさらさと水の流れる様子】と鳥聲【ちょうせい:鳥の声】の呢喃【じなん:鳥が鳴くこと】とは、洋々として相和し、自然の音樂を奏す。光風朗月、春花秋錦、佳ならざるはなく、詞人墨客【ぼっかく:書画を書く風流人】の杖を曳くもの、吟賞飽くことを知らず。宛然【えんぜん:さながら】、一の武陵桃源【世間とかけ離れた平和な別天地】をなす。故に、斯郷は太古時代より、土民の繁殖して、城市聚落をなせしことは、今、各地に散在せる畵甎【がせん:画れんが】土器の類、及、其地名の存するを以て證【しょう:証】すべく、此地の早くより世に知られ、是れが、歴史上の事蹟に富める、亦、偶然にあらざるべし。即ち、我が越の開拓の祖たる、皇子五十日足彦命【いかたらしひこのみこと】の居を営み給ひしを、始とし、高倉以仁王【たかくらもちひとおう】の平氏の難を斯地に避け給へる、或は、北条時ョの行脚し来り、新田義宗の軍勢を率い来れる、或は、鎌倉武士として有名なる小文治吉辰の斯地に生れたる、其他、武士にして、戦敗流離、世を忍び来れるもの等、枚挙に暇あらず…
【Part.2】へ続く──。
「国立国会図書館のデジタルコレクション」は
嵐渓荘公式Blogにリンクを貼っております。
ご興味がありましたらぜひご一読ください!
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