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ガラシャ夫人の宮津 その5 晩年
更新 : 2012/12/25 10:56
写真は、ガラシャが宮津時代に座禅修行をした盛林寺です。
さて、ガラシャのうつ病が軽減したことを最も喜んだのは夫の忠興でした。忠興は、キリスト教の弾圧が激しくなると、カスペード師を九州に伴ない、領地のひとつである中津での布教を許し、その地で天寿をまっとうさせました。
ガラシャは、関が原の戦いの際に細川屋敷が西軍の兵士たちに包囲されたときに、胸を小刀で突き、太刀で介錯されて亡くなりました。事件後すぐに細川家ゆかりの寺院から僧侶たちが駆けつけ、焼け跡から多数の遺体を発見しましたが、彼女の遺体を特定することが出来ず、遺体はすべて細川屋敷跡に埋葬して通夜をおこないました。彼女の戒名は秀林院とつけられました。秀は、在家で座禅修行を熱心におこなった人に授けられる称号で、林はガラシャが座禅修行をおこなった宮津の盛林寺からとられました。忠興の凱旋後、カトリックから隣接するキリスト教玉造教会が預かっていたガラシャの遺体の一部が返還されました。これに感激した忠興は玉造教会で盛大なミサをおこないました。ガラシャの死後、彼女の子供たちは廃嫡され、問題の男の子が忠興の後をついで細川本家の当主となりました。昭和40年にテレビ番組「時事放談」の中でガラシャの子孫である細川隆元氏が細川本家は元からガラシャの血を引いていないことを公言され、これから真実が世にあらわれることになりました。皮肉なことに細川本家は8代で絶え、廃嫡されたガラシャの血筋だけが生き残ることになりました。 雅良生