大雲取越 その参
更新 : 2011/4/11 12:30
平成23年4月9日(土) 旧暦三月七日 甲午 先負
古道を歩くと、たびたび見られるのが“丁石”です。
1丁=109m。約100mという歩いてきた距離の目安として、
あるいは残りの距離の目安として大変役立つ物ですが、
すべて残っているわけではございません。
現在同様の目印として、熊野古道中辺路(大雲取越を含む)には、
写真のような番号道標が約500mごとに設置されているようです。
(木製の物もあります)
形は違いますが、熊野古道伊勢路では約100mごとに設置されています。
ところで今日は、
国宝 熊野御幸記(くまのごこうき)の一部を抜粋して
『大雲取越』の難所たる所以をお話したいと思います。
建仁元年(1201年)、歌人として有名な藤原定家が後鳥羽上皇のお供で、
初めて熊野詣でをしたときの記録。それが、熊野御幸記です。
40歳の定家に対して、後鳥羽上皇は22歳で4回目の熊野詣。
定家にとって昇進をかけた特別な旅だったようです。
通常の御幸の順路はといいますと、本宮→新宮→那智→新宮→本宮でした。
しかし、不運というかお気の毒というか、
この4回目の後鳥羽上皇の熊野詣は、
本宮→新宮→那智まではいつも通りだったのですが、
そこから新宮に戻らず『大雲取り』を越えて本宮に向かう順路となったのです。
熊野御幸34回という上皇の中で一番多く熊野に来られた後白河上皇でさえ
一度も越えたことがなかった『大雲取り』を越えたのです。
記録の中で定家は、
松明がなく夜明けを待つ間、雨が急に降ってきた。
晴れるのを待ったが、ますます雨脚が強くなる。
仕方がないから蓑笠をまとい一里ほど進む。
輿の中まで雨が入り海のようになってしまった。
『ええっ、輿に乗って越えたんかい!?』まつ談
一日中かけて険しい道を越える。
心中は夢のようだった。
未だかつてこのようなひどい目に遭った事などない。
雲トリ紫金峯は、手を立てたようだった。・・・
と語っています。
実際に歩いてみてわかるこの言葉。
私が歩いた日は、雨が降らなくて良かった〜。
と心底思ったのでした。
つづく
By まつよ
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