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さとけんさんの東京都の旅行記

【両国駅発】東京を歩くその2・前編。両国・浅草橋・日本橋・京橋・銀座・築地、そして浜離宮恩賜庭園。前編は両国駅から日本橋まで【浜松町駅着】

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東京を歩いてきました。両国駅を出発地点として、浅草橋、日本橋、京橋、銀座、築地と歩き、浜離宮恩賜庭園で一休みして、世界貿易センタービルの展望台から東京の黄昏を見物し、浜松町駅にて電車に乗って帰りました。前編は日本橋までを記します。

神奈川ツウ さとけんさん 男性 / 50代

1日目2017年11月12日(日)

JR両国駅

墨田区

「JR両国駅」を   >

日曜日の朝6時49分、人もまばらな両国駅からスタートです。JR両国駅の看板に注目すると、文字が勘亭流の書体で書かれています。

回向院

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両国駅西口から歩いてすぐのところに回向院があります。1657年の明暦大火によって亡くなった身元不明・引き取り手のない方々を葬り弔うために建てられました。

回向院

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旧国技館の案内板です。1833年から回向院で相撲興行が行われていたことから、1909年(明治42年)に回向院の境内に旧国技館が設置されたとのこと。1983年に解体されました。なお、国技館は、旧両国国技館から蔵前国技館、蔵前国技館から現在の両国国技館へと移行してきました。

回向院

墨田区

「回向院」を   >

回向院にお参りします。

回向院

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回向院の案内板です。御本尊は阿弥陀如来。1657年の明暦大火による死者10万8千人を弔うために建立され、1855年の安政大地震の死者2万5千人や無縁佛、天災地変による死者も埋葬され、1923年(大正12年)の関東大震災の死者10万余人の分骨も安置されているとのこと。まさに江戸・東京の慰霊の地ですね。

回向院

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こちらは回向院建立のいわれとなった明暦大火の供養塔の案内板です。振袖火事とも呼ばれますが、振袖の話は作り話ともいわれていて、火事が3回連続した(火元が3か所で1か所が鎮火に近づくと他所で出火する)ことから都市再建を目的とした江戸幕府による放火ではないかという説まであって、私はまさかぁと思いますが、その点は謎とされています。

岩瀬京伝・京山の墓

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こちらは岩瀬京伝のお墓の案内板です。江戸時代の戯作者とあります。この案内板を私なりに解釈すると、江戸時代の大人向けの絵本作家が「江戸生艶気樺焼』(えどうまれ うわきの かばやき)という絵本で一躍有名になったものの、風紀を乱すとうことで、手鎖50日の刑を科されて、以後、作風を少し変え、1816年に57歳で亡くなったということらしいです。

岩瀬京伝・京山の墓

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「岩瀬京伝・京山の墓」を   >

こちらは京伝さんの弟の京山さんのお墓の案内板です。京山さんは1858年にコレラで亡くなっているとのこと、兄の死後40年生きて89歳没とは、江戸時代の方としては長寿ですな。「婦女子を対象とした平易で温雅な作風に様々な教訓を盛り込んだ話を得意とした」(ネット辞典より)とのこと、お兄さんよりも穏やかな絵本を書かれた模様です。

回向院

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おお、そしてこちらは回向院のねこ君、生け垣の中にはお仲間がいるようですが、お仲間の方は出てきません。こちらのまるっこく可愛らしいねこ君は人に慣れている様子で私には警戒心を示しませんが、特に関心も示しませんね。

回向院

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スタスタと歩くねこ君。回向院の本堂は2階建てか3階建てのビルなのですが、その本堂の玄関・自動扉の前で座って扉が開くのを待っておりました。本堂は9時から拝観できるとの情報がありますが、回向院の公式ウェブサイトに特に時間に関する記載がないところをみると、お参りは扉が開いていればできるのかしらんとも思いました。朝7時ごろの訪問でしたので、結局私は本堂での参拝は遠慮しました。

回向院

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そしてこちら、正面の奥の墓石が鼠小僧次郎吉のお墓、その手前の白い石は「お前立ち」と呼ばれる削り取ってよい石です。削り取られて白く丸っこくなっておられます。これは鼠小僧が長年捕まらなかった運の強い人ということで、その運にあやかろうと墓石を削ってお守りにする風習が江戸の昔から盛んであったとのこと。鼠小僧の墓石の左側、屋根付きの石は猫塚であります。

本所松坂町公園(吉良上野介屋敷跡)

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時刻は7時14分、回向院から少し東の本所松坂町公園にやってまいりました。ここは吉良上野介の屋敷跡の一画です。

本所松坂町公園

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公園といっても史蹟公園です。狭い区画にお社や石碑や案内板が建っています。もともとのお屋敷は、この公園の85倍ほどの広さがあったようですね。12月14日には賑わうこの界隈も、本日はとても静かな日曜日の朝を迎えていました。

本所松坂町公園から両国公園へ向かう途中に両国小学校があり、そのフェンス際に船の錨が展示してあります。この錨は日露戦争で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火」のものとのこと。初代の東雲型駆逐艦ですね。

初代・不知火はイギリスで竣工し1900年に日本の軍艦に編入されました。1923年除籍、両国小学校に錨が寄贈されたのは昭和の初年とありますから1926年と思われます。この近くには両国小学校へ通っていた芥川龍之介の文学碑もあります。

勝海舟生誕の地

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時刻は7時22分、両国公園にやってきました。この公園には勝海舟生誕の碑があります。石碑と刀の立てかけられた椅子のモニュメントと案内板があります。個性的な父親を持った勝海舟もその強い個性をもって日本の幕末にイニシアチブを発揮しました。

杉山検校頌徳碑

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両国公園から江島杉山神社にやってきました。この神社は江の島弁財天と杉山和一さんを祀っています。杉山和一さんは目が不自由な方で、鍼治療の一つ、管鍼術を考案された江戸時代人です。その役職から杉山検校(すぎやまけんぎょう)と呼ばれます。写真は杉山検校頌徳碑で、碑文が点字になっています。

杉山検校頌徳碑

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江島杉山神社にお詣りです。なぜ江の島かというと杉山和一は、鍼の修行をしていた時になかなか上達しなかったのでずが、江の島で修行をして石につまづき、管鍼術の発想を得たとのこと、江の島にはその石が「福石」としてあり、杉山検校の墓と伝わる石碑などもあります。

杉山検校頌徳碑

墨田区

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そしてこちらは江の島の岩屋を模した洞窟です。両国の江島杉山神社の境内にあります。

杉山検校頌徳碑

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杉山検校が徳川五代将軍・徳川綱吉から何が欲しいかとたずねられて、「一つで良いから目が欲しい」と答えた結果、本所一つ目と呼ばれていたこの土地を与えられたそうです。江島杉山神社を辞して両国橋方面へ歩きます。

握り寿司発祥の地

墨田区

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こちら、与兵衛鮨発祥の地の案内板が建つ通りです。うっかりすると見過ごしてしまいます。

握り寿司発祥の地

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この付近に江戸握り鮨発祥といわれる与兵衛鮨があって、昭和5年に惜しくも廃業したとあります。酢飯のシャリに旨いネタの握りずし、私も大好きですよ。

伝大高源吾の句碑

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両国橋のたもとに両国児童遊園という空き地があり、ここに赤穂浪士の詠んだ句と伝わる句碑があります。石碑には「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」と彫られており、宝井其角という俳諧師とのやり取りの中で詠まれた歌と伝わります。そのやり取り自体が芝居の創作という説もあります。

伝大高源吾の句碑

墨田区

「伝大高源吾の句碑」を   >

大高源吾の句碑の隣には隅田川の百本杭の説明版があります。これは隅田川の岸辺に杭を打って、岸に当たる水勢を弱めて岸が削り取られるのを防ぐ効果があるようなのですが、この百本杭は両国の隅田川沿いを象徴する言葉にもなったとの説明です。

両国橋

墨田区

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両国橋を渡ります。

両国橋

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両国橋からの隅田川の眺め。雲が少なくなってきました。

JR浅草橋駅

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JR浅草橋駅です。ここから鳥越神社へ向けて歩きます。

JR浅草橋駅

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浅草橋駅のガード下にはお店が沢山並んでいます。

鳥越神社

台東区

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時刻は8時5分、鳥越神社にやってきました。

鳥越神社

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鳥越神社の境内には銀杏の残り香が漂います。どんと焼きや例大祭の際にはとても賑わうようですが、本日は実に静かな境内です。

旧蓬莱園のイチョウ

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鳥越神社から浅草橋駅方向へ南下して、柳北公園にやってきました。このあたり一帯には関東大震災まで、蓬莱園と呼ばれる大名屋敷の庭園があったそうです。広さは2600坪とのこと、旧安田庭園の広さが4235坪(14000u)ということで、旧安田庭園の6割ほどの広さの庭園があったわけです。今はその面影はほとんど残っていなくて、天然記念物の大イチョウが残っているとのことなのですが、この柳北公園のイチョウのどれがそれなのか、私が訪ねた時にはわかりませんでした。家に帰ってよく調べると、どうやらこの公園の隣の忍岡高等学校グラウンド東北隅に大イチョウはあるようです。この後は神田川を渡って西へ向かい、柳森神社へお詣りしましょう。

柳森神社

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時刻は8時28分、柳森神社にやってきました。柳森神社の境内は周りの道路から少し低いところにあります。鳥居をくぐると階段で下ります。

柳森神社

千代田区

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鳥居の横に建つのはこれは狸だそうです。大きく膨らんでいるのはお腹、お腹でございます。手前の像よりも奥の(左の)狸の方が一目で狸とわかります。

柳森神社

千代田区

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おお、いかにも狸さんでございます。そしてこれは恥ずかしながら、この旅行記を書いている今、気が付いたのですが、この鳥居とその両脇の狸、これは鳥居に向かって正面の福寿神のお社とセットなのですね。つまり柳森神社の参道と福寿神祠の参道がクロスしていたわけでございます。

柳森神社

千代田区

「柳森神社」を   >

おぉ、ねこがいる。このねこ君、実に物静かでございます。まるで置物のようです。隣の座布団はまるで私に座ってくれといわんばかりでございますな。ところがこのねこ君、しきりに後ろを振り向きどなたかを待っておられる様子、奥から待ち人が現れるかもしれず、横に座ることは遠慮いたしました。

柳森神社

千代田区

「柳森神社」を   >

こちら柳森神社の境内の建物、綺麗な絵が描かれています。

柳森神社

千代田区

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こちらは力石です。たくさんあります。

柳森神社

千代田区

「柳森神社」を   >

こちらが正真正銘の柳森神社のお社です。お詣りをいたします。静かに手を合わせていますと、近くを通るJRの列車の音が聞こえてきます。柳森神社はすぐ横を神田川が流れていて、その神田川を渡ったところには秋葉原駅があります。列車の走行音の中、それでも少し離れた場所の静寂というと不思議ですが、その中でたっぷりとお詣りをいたしました。

お玉ケ池跡

千代田区

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さて、柳森神社から南南東へ下るとお玉ヶ池跡の案内柱が建っています。その案内柱がある通りはごらんのとおり、池の跡がわからない感じの通りです。

お玉ケ池跡

千代田区

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お玉が池は江戸時代の初めには不忍池よりも大きかったとのこと。

お玉ケ池跡

千代田区

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このようなお社も建っています。「繁栄 お玉稲荷大明神」とノボリにありますね。ここから南下して十思公園へ向かいます。

伝馬町牢屋敷跡

中央区

「伝馬町牢屋敷跡」を   >

十思公園への曲がり角に大安楽寺があります。

伝馬町牢屋敷跡

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大安楽寺の「江戸伝馬町処刑場跡」の石碑です。この一帯には伝馬町牢屋敷がありました。この大安楽寺は明治に入ってから創建されました。

伝馬町牢屋敷跡

中央区

「伝馬町牢屋敷跡」を   >

こちらは大安楽寺の境内にある江戸伝馬町牢井戸跡・江戸伝馬町牢石垣の一部の案内がある石。大安楽寺と通りを挟んで向かいには十思公園があります。

十思公園

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「十思公園」を   >

こちら十思公園の入り口に立つ案内板です。近くには地下鉄の小伝馬町駅へ降りるエレベーターがあります。

十思公園

中央区

「十思公園」を   >

こちら十思公園の全景、それほど広い公園ではありません。

石町時の鐘

中央区

「石町時の鐘」を   >

こちらは十思公園にある石町時の鐘(こくちょうときのかね)です。江戸の町に時を告げる鐘は幕末の時点で全部で九か所、すなわち、日本橋・浅草・本所・上野・市谷・目白・赤坂・四谷です。

石町時の鐘

中央区

「石町時の鐘」を   >

この「石町時の鐘」は日本橋本石町に設置されていた鐘を1930年(昭和5年)にこちらの十思公園に移設したもので、鐘は1711年に鋳造されたとのこと。

吉田松陰終焉之地

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「吉田松陰終焉之地」を   >

こちらは十思公園に設置されている「吉田松陰終焉之地」の石碑です。

吉田松陰終焉之地

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「吉田松陰終焉之地」を   >

吉田松陰は1859年11月にここ伝馬町牢屋敷にて処刑され29歳で亡くなりました。29歳とは、なんと若い命よと思います。

伝馬町牢屋敷跡

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「伝馬町牢屋敷跡」を   >

こちらは十思公園に設置されている伝馬町牢屋敷跡の発掘作業の紹介です。

伝馬町牢屋敷跡

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案内板の横には出土した石垣が展示されています。

伝馬町牢屋敷跡

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現在の日本銀行のあたりに牢屋敷があったが、1618年ごろにこの地へ移転し、江戸時代を通じてここに牢屋敷があり、1875年(明治8年)に市ヶ谷へ監獄が移ったとあります。

伝馬町牢屋敷跡

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「伝馬町牢屋敷跡」を   >

伝馬町牢屋敷を周囲を高さ2.4メートルほどの塀で囲まれていたそうです。

石町時の鐘

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「石町時の鐘」を   >

1711年鋳造の時の鐘、現在まで約300年の日本の歴史を見守ってきたわけですが、この先何年、この地の歴史を見守っていくのでしょうかね。この後は歩いて3分ほどの、日本橋べったら市で有名な宝田恵比寿神社へ向かいます。

寶田恵比壽神社

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こちらが宝田恵比寿神社です。こじんまりとしたお社です。日本橋七福神めぐりの恵比寿神であるという情報がある一方、日本橋七福神には記載がない(後述の末廣神社の案内図、恵比寿神は椙森神社となっています)という情報もあり、どちらの情報を選択すればいいのかわかりませんが、たぶん、両方の神社を巡れば完璧でしょう。

寶田恵比壽神社

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宝田恵比寿神社の御縁起です。ここのべったら市は10月19日、私も日本橋の職場に勤めていたことがあるのですが、その時期になりますと初めはほんわかと香りが漂ってまいりまして、これが大根の香りですから、当初は周囲の方を若干疑うわけですが、さらに強く長く香りがしてまいりますので、ああ、べったら市だなと、そろそろ年末かなと気づくわけでございます。さて、この神社から50メートルほどのところにある於竹大日如来井戸跡へ行ってみましょう。

於竹大日如来井戸跡

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おお。あれですな。ビルとビルとの間にガッチリと守られている区画があります。

於竹大日如来井戸跡

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おぉ、これが於竹大日如来井戸跡、わかりやすく分解すると「江戸時代に大日如来の化身とみなされた竹さんという女性が愛用していた井戸の跡」ということでございます。

於竹大日如来井戸跡

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「於竹大日如来井戸跡」を   >

これまた読みやすい案内板です。黒地に白い文字、そして文章も簡潔ながら一種の趣がある文章というのでしょうか、とても伝わりやすい文章ですね。アンタはどうやら大日如来らしいよって言われたお竹さんもすっかり驚いたことと思いますが、落語の噺にもなりそうな、そんな可笑しみを感じます。なお、お竹さんの生まれ故郷である山形県鶴岡市羽黒町の羽黒山正善院黄金堂の境内には於竹大日堂があるとのこと、今度訪れてみたいですね。

椙森神社

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さて、於竹大日如来井戸跡から歩いて5分ほどの椙森神社(すぎのもりじんじゃ)にやってきました。先ほど訪ねた柳森神社、そしてこの椙森神社、それと新橋の烏森神社を合わせて江戸三森と呼ばれ、江戸の庶民から大名に至るまでの信仰が篤かったようです。

椙森神社

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それでは椙森神社にお詣りしましょう。

椙森神社

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おぉ、こちらも綺麗な字で読みやすい案内板です。なになに、江戸三森だけでなく江戸三富でもあったと。富くじ興行が数多く行われたそうです。

椙森神社

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椙森神社にて二礼二拍手一礼のお詣りをいたしました。現在の社殿は昭和6年(1931年)再建、耐震構造・鉄筋造りとのこと。

椙森神社

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こちら椙森神社の案内板です。江戸時代の富札も残されているとのことです。

大観音寺

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時刻は9時22分、椙森神社から歩いて6分ほどの人形町・大観音寺にお参りです。

大観音寺

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こちらの御本尊は観音像の頭部です。鉄でできていて頭頂部のみは後に補修された銅製とのこと。もともとは鎌倉のお寺の観音像が火災で崩れて、頭部のみが1876年(明治9年)から人形町の大観音寺に安置されていて、毎月11日と17日には開帳されるということが書いてあります。

大観音寺

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「大観音寺」を   >

大観音寺とかいて「おおかんのんじ」と読むようです。

大観音寺

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本日は御開帳日ではございません。本堂前にて合掌一礼でお参りいたします。

大観音寺

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こちら、本堂脇のお社に祀られている韋駄天です。韋駄天様にお詣りをしていますと、ライトがチカチカと点いたり消えたりします。

大観音寺

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こちらは大観音寺の前あたりにある案内板です。人形町の由来が書かれています。この一帯は芝居小屋などが軒を並べる歓楽街で人形師たちが住んでいた場所ということから、もともと人形丁通りと呼ばれ、関東大震災後の区画整理で人形町になったとのこと。

末廣神社

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人形町の大観音寺から歩いて3分ほどの末廣神社にやってきました。こちらのお社もこじんまりとしています。

末廣神社

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こちらは末廣神社に掲示されている日本橋七福神詣の案内板です。水天宮・茶ノ木神社・小網神社・椙森神社・末廣神社・笠間稲荷神社・松島神社と記載されています。このほかに、宝田恵比寿神社も恵比寿神です。

末廣神社

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末廣神社の御由緒です。明暦の大火まではこの地に吉原があったのですな。

笠間稲荷神社東京別社

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末廣神社から歩いて3分ほどの笠間稲荷神社・東京別院にやってきました。

笠間稲荷神社東京別社

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こちらの神社は日本橋七福神の寿老神(寿老人)です。

明治座

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「明治座」を   >

笠間稲荷神社から歩いてすぐのところに明治座があります。明治座の脇の紅葉が綺麗に色づいていました。

明治座

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明治座は18階建てビルの1階から6階に入っています。地下の施設・木挽町広場は駅直結で誰でも利用することができます。

浜町公園

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歌舞伎座からすぐの浜町公園にやってきました。朝の9時半過ぎ、自転車に乗ってやってきた少年たちとその付き添いのお母さんたちの姿が多くみられました。

浜町公園

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浜町公園の紅葉も始まっていて、落ち葉が沢山でています。

浜町公園

中央区

「浜町公園」を   >

こちらは浜町公園内の清正公寺です。お参りしていきます。

松島神社

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浜町公園から南西に水天宮へ向かって歩くと、少し脇に入ったところに松島神社があります。ビルの中にお社がある神社で日本橋七福神の大国様の神社です。

水天宮

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時刻は9時58分、水天宮にやってきました。こちらの神社は今まで訪れた寺社仏閣とことなり、とても賑わっている様子ですね。安産祈願のお礼参りでしょうか、ベビーカーが沢山並んでいました。七五三の参拝者も多くみられます。境内には警備員も出るほどの賑わいです。

水天宮

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参道の右手に綺麗な建物があって、ご祈祷の受付はそちらで行われていました。長い列ができていることに気が付きました。

水天宮

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「水天宮」を   >

私は拝殿にて二礼二拍手一礼のお詣りをいたしまして水天宮を辞します。最近できた新しいお社が青空に映えますね。

茶ノ木神社

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水天宮から近いところに茶ノ木神社があります。ここは日本橋七福神の布袋様のお社です。

茶ノ木神社

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「茶ノ木神社」を   >

この地には江戸の昔から堀田家の中屋敷があってそこで祀られていた神社とのこと、社のまわりに茶の木がぐるりと植え込まれ見事であったそうです。

小網神社

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「小網神社」を   >

時刻は10時14分、小網神社にやってきました。茶ノ木神社からは歩いて6分ほどです。そう広くない土地にしっかりしたお社が建っています。日本橋七福神の弁天様と福禄寿神の神社です。

東京証券取引所

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小網神社から鎧橋を渡ると東京証券取引所に至ります。

東京証券取引所

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東京証券取引所、日曜日の朝はひっそりとしています。

兜神社

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東京証券取引所の裏手に回りますと、兜神社があります。小さな神社です。東京証券取引所の前身である東京株式取引所が明治11年に設けられるにあたり、取引所関係者の信仰の象徴及び鎮守して造営されたそうです。

三浦按針遺跡

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兜神社から日本橋三越の方向へ歩きますと、途中に三浦按針遺跡の石碑があります。石碑がある通りは写真の通りで、正面に日本橋三越が見えます。石碑はビルとビルとの間にあまり目立たずに建っています。

三浦按針遺跡

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「三浦按針遺跡」を   >

おぉ。あの石碑ですね。近づいてみてみましょう。

三浦按針遺跡

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三浦按針さんはウイリアム・アダムスという名のイギリス人で1600年に日本へやってきました。時に36歳、1620年に56歳で亡くなるまで、造船・砲術・地理・数学などの業績、家康・秀忠の外交顧問なども務めた方です。

三越日本橋本店

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この後はお腹がすきましたので、日本橋の立ち食いそば・よもだそばへ向かいます。続きは、『【両国駅発】東京を歩くその2・後編。両国・浅草橋・日本橋・京橋・銀座・築地、そして浜離宮恩賜庭園。後編は日本橋から世界貿易センタービルまで【浜松町駅着】』をご覧ください。

【両国駅発】東京を歩くその2・前編。両国・浅草橋・日本橋・京橋・銀座・築地、そして浜離宮恩賜庭園。前編は両国駅から日本橋まで【浜松町駅着】

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