1. 宿・ホテル予約TOP >  みんなの旅行記 >  更級の里めぐりと戸倉上山田温泉

メタボ大王さんの長野県の旅行記

更級の里めぐりと戸倉上山田温泉

  • 一人
  • 1人
  • 史跡・歴史

古代から近代までの全国の人々から憧れを持たれていた更級・姨捨を回ってみた。波閇科(はべしな)神社〜万葉歌碑〜善光寺大本願別院〜澳津神社〜城山史跡公園(砥石城跡)〜佐良志奈社〜水上舟山神社(旧埴科郡戸倉町:現千曲市)〜姨捨(長楽寺・棚田)

長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代

1日目2018年10月5日(金)
12:00-13:00

波閇科(はべしな)神社

式内社 更級郡 波閇科(はべしな)神社 御祭神:天照大神 配祀:豊受大神 日本武尊 境内社:宇佐八幡社・蚕神社・住吉社・金刃比羅社・天神社・稲荷社。太古、日本武尊が当地の「波閇科(ハベシナ)の峠」を越えられた時、天照大神を勧請したのが初めという。ハベ=蔓、シナ=坂の意味で、蔓のように曲がりくねった坂の意味。当地では、「四十八曲坂」というらしい。往古は、その波閇科峠に鎮座、その後、現在地に遷座したという。(玄松子HP)難しい漢字をそのまま残している。出雲神、諏訪神が多い信州でも数少ない天照大神を祀る。

12:00-13:00

波閇科神社本殿

12:00-13:00

波閇科神社境内案内図。境内社を巡って山を登ると城山の頂上、戦国時代の砥石城に着く。境内社をみても国津神系がない。森将軍塚古墳めぐりでわかったが、埴科郡は諏訪神・出雲神の国津神を素直に祀っているが、更級郡は、武田信玄を恐れて諏訪明神を祀ったものの天津神を奉じている。

12:00-13:00

波閇科神社境内社の「蚕神社」。石だらけの扇状地でも育つ桑は信濃の経済を支えてきたが養蚕の技術を広めたのは秦氏である。更級郡村上郷とされた村上、力石などは水田があるが山田は傾斜地で桑畑が多かっただろう。

12:00-13:00

千曲川萬葉公園

千曲市

「千曲川萬葉公園」を   >

千曲川に関連した歌碑等27基が建立されているよう。これは万葉集の相聞歌。「信濃なるちくま(千曲)の川の細石も君し踏みてば玉と拾はむ」(巻14-3400)。「ちくま」について「筑摩」だとして松本市薄川沿いにも碑があるが、「筑摩」は「つかま」だとして千曲川派は主張する。千曲川も川上村から新潟県境までが千曲川だから、どこで詠んだ歌かは不明。信濃の相聞歌は4首で1首は埴科と地名を入れているが、3首は場所は不明。こちらでは万葉歌碑の他、万葉橋、万葉温泉まである。長野県でも千曲川河畔にある温泉は戸倉上山田温泉だけだから主張する権利はある。しかし、今や五木ひろしの「千曲川」が有名となり作詞家の山口洋子氏揮毫の石碑と記念館の方が知られている。

12:00-13:00

千曲川萬葉公園

千曲市

「千曲川萬葉公園」を   >

万葉公園から戸倉上山田温泉と城山を見る。温泉は明治以降に開発されたが文人墨客だけでなく国立上山田病院と連携したリハビリの場所として戦後は傷病者、スポーツ選手などが訪れた。信州一の歓楽街として名を馳せた頃の賑わいはなくなったが、滑らかな泉質は変わらない。

13:00-14:00

善光寺大本願別院 

千曲市

「善光寺大本願別院 」を   >

戸倉上山田温泉の観光スポットは城山からの展望で善光寺大本願別院などがある。善光寺と同じように南面している。かつてはロープウェイがあったようだが、現在は車で5分程。駐車場は山側に迂回した場所。

13:00-14:00

戸倉上山田温泉 澳津神社

千曲市

「戸倉上山田温泉 澳津神社」を   >

「男女和合の神・澳津(おくつ)神社」。大きな石造りの男性と女性のシンボルが御神体として祀られ、縁結び・子授けにご利益。毎年7月に行われる温泉夏祭りでは、この御神体の分身を神輿に安置し温泉街を勇壮に練り歩く。以前はこの場所から山手に登った所にあり夏祭りには本物の御神体を運んだらしいが重すぎて分身にしたよう。温泉の客寄せに作ったと思ったが、姨捨の「田毎の月」と同様、千曲川の「陰陽石」は古来から有名だったらしく、この川にある陰陽石を大きくして祀ったものか。

13:00-14:00

城山史跡公園(荒砥城)

千曲市

「城山史跡公園(荒砥城)」を   >

復元された荒砥(あらと)城。石は佐久市産の石で旧戸倉町の石屋さんが一人で積み上げたとの話し。こちらは受付とトイレ。大人300円。

13:00-14:00

城山史跡公園

千曲市

「城山史跡公園」を   >

戦国時代初期の連郭式の山城、荒砥(あらと)城を復元したもの。この櫓からの眺望はすばらしい。更級、埴科の里が一望である。

13:00-14:00

城山史跡公園(荒砥城)

千曲市

「城山史跡公園(荒砥城)」を   >

大河ドラマ「風林火山」でのロケ地だったよう。

13:00-14:00

一人の石屋さんが積み上げたと思うと凄い。森将軍塚古墳の石室に勝る。北信濃の積石塚古墳を継承しているようで血は争えない。古代高句麗の血が受け継がれている。旧佐久町余地にある鉄平石を使った塀があるが、これだけ積み上げると壮観だ。

13:00-14:00

城山史跡公園(荒砥城)

千曲市

「城山史跡公園(荒砥城)」を   >

戦国時代の荒砥城の配置図。この城は戦国時代の北信濃の雄、村上義清の家臣山田氏の城。普段は下で暮らし、戦時には山城に籠もったよう。伊勢神宮の御厨だったが神宮の管理は甘かったよう。高山村に山田があるので、上をつけ上山田町としたが現在は合併して千曲市となっている。

13:00-14:00

城山史跡公園

千曲市

「城山史跡公園」を   >

荒砥城櫓から見る旧上山田町と坂城町村上地区。村上は古代更級郡の郷であったが、埴科郡坂城町として合併したので埴科郡となった。延暦18(799)年に高句麗帰化人「前部黒麻呂」が村上姓を賜っている(「日本後紀」)がこの地と比定されている。高句麗の人達は馬の飼育に長けており、扇状地などは牧場にしていただろう。

13:00-14:00

一番左に上田市民の山太郎山。真ん中に出たところが虚空蔵山。その左から冬至の日の出。左の山裾の坂城町横吹(よこぶき)を北国街道が通っており、加賀のお殿様も駕籠や馬から降りて歩いたとのこと。中心部の千曲川の後背湿地に新田が開発されただろうし、この地が古代更級郡の村上郷。真ん中は戦国武将村上氏の家臣力石氏が居住、現在も力石。 手前が山田氏のいた山田。横吹にぶつかった千曲川が手前中央方向にながれていたが、堤防で左に曲げた。堤防が低かった時代は温泉街も水に浸かり温泉を掘り直したよう。

13:00-14:00

城山史跡公園

千曲市

「城山史跡公園」を   >

千曲川の右岸は古代埴科郡の磯部郷。戦国時代は村上義清の葛尾城の裏門として家臣が居住していたよう。江戸時代は上戸倉宿であり現在も本陣跡などの建物が残されている。

13:00-14:00

城山史跡公園

千曲市

「城山史跡公園」を   >

信州一の歓楽街だった戸倉上山田温泉。地元の方も戸倉と上山田の境がわからないほど入り組んでいる。千曲川の氾濫と関係するよう。今は千曲市として合併してしまった。温泉に入りながら千曲川で鮎釣りをする太公望も多い。右手の橋が万葉橋。左端に少し見えるのが大正橋。8/7の花火大会は両方の橋の間は見物客で埋まる。川の中州から打ち上げられる花火は東西の山に反響し音が増幅される。万葉橋のナイヤガラの滝は趣がある。

13:00-14:00

城山史跡公園

千曲市

「城山史跡公園」を   >

千曲川左岸は古代更級郡更科郷、右岸は埴科郡舩山(ふなやま)郷。更科郷は佐良志奈神社、舩山郷は粟狭神社が総社。いずれも式内社に比定されている古社。江戸時代始めまでは千曲川の中州に「黒彦千軒」と呼ばれる地区があり川を生業にする人々がいたようだが洪水で多くが無くなり、両岸に分断したよう。写真の木立の間に見える地区が黒彦地区で、川の対岸に当時、黒彦と同郷であった上徳間、千本柳がある。なお、明治になり千本柳に黒彦神社が再建されている。右岸には千本柳の他、小船山、内川、杭瀬下など川にちなむ地名が今でも残っている。川を生業にする千軒もの人々を支える大河千曲川がここにあったのだ。江戸時代でさえ犀川河畔の丹波島宿だけで毎年加賀藩へ3千本もの鮭を贈っていたようだが、大河千曲川ではどれだけの鮭が獲れたのか。現在の樺太、アラスカ、カナダでの鮭の遡上がこの信濃でも見られたのかもしれない。縄文時代の鮭の骨の発掘はないようだが。

14:00-15:00

佐良志奈神社

千曲市

「佐良志奈神社」を   >

旧戸倉町から大正橋を渡ると正面にこの鳥居と社号標が見える。式内社・佐良志奈神社に比定されている古社。黒彦、若宮、芝原の産土神で「若宮様」と呼ばれている。江戸時代の元禄十年当時は「佐良志奈神社八幡宮・八幡寺」で松田卯之助が神主と真言宗別当を兼ねていた。

14:00-15:00

佐良志奈神社由緒 祭神:誉田別命 息長足姫命 大鷦鷯命 創立年代は不詳。社伝によると允恭天皇の皇子・黒彦皇子の勧請。また、大鷦鷯命は冠着山支嶺(八王子山)に祀ってあったが、仁和3年(887)の震災のため、麓の若宮八幡宮に合祀。正平年中、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)の暫時の御所であった。宗良親王の「李花集」に「佐良科の里にすみ侍りしかば、月のいとおもしろくて、秋ことにおもひやられしことなど、思ひ出られければ、もろともに をばすて山を超えぬとは、都にかたれ 更級の月」とある。南朝方として越中、越後、そして信濃伊那郡大河原などを流転した親王が潜居し暫時御所としたよう。黒彦王子と同じく更級の長谷村(現長野市)に蟄居したのが長谷寺の開基白彦王子との伝承が長谷寺縁起にあるよう。日本書紀に相反する伝承のようであるが真実かもしれない。

14:00-15:00

拝殿。社宝に「細形銅剣(県宝)」があるようで、更級郡の「佐良志奈神社」と呼ばれるだけある古社であることがわかる。

14:00-15:00

宝篋印塔。本殿後方にある。

14:00-15:00

宝篋印塔。

14:00-15:00

宝篋印塔案内板。宝篋印塔の基底部に「信州若宮 永和2(1376)年6月□□ 契約□□ 四拾五人」と刻まれており、南朝方の親王に従い戦に出る人達が自ら墓として建てた逆修塚と言い伝えられている。南朝に縁のあった方がいたのか。

14:00-15:00

地元若宮地区から入る鳥居と社号標。社号標に新しく屋根ができた。

14:00-15:00

社号標。正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)の書。

14:00-15:00

佐良志奈神社社標案内。

14:00-15:00

佐良志奈神社社号標側面の佐久間象山自筆の撰文。拓本を取られ過ぎたか黒ずんでいる。

14:00-15:00

社号標側面の正親町三条実愛の姑柳原大夫人の歌。「月のみか つゆ(露)しも(霜)しぐれ 雪までに さらしさらせる さらしなの里」。古代からの「更級(さらしな)」に寄せる憧憬が現された端的な歌だ。

14:00-15:00

神社宮司の豊城氏の石碑か。出自を「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」の関係から始めている。第10代崇神天皇皇子で東国の治定にあたったとされ、上毛野君や下毛野君の始祖とされていた豊城入彦命と同じ豊城姓を持つ宮司家は、黒彦皇子、宗良親王などとの縁があったのかもしれない。

14:00-15:00

境内社。高良社。遠い筑後一の宮高良神社を勧請している。芸能の神様だから戸倉上山田温泉の芸者さんも参拝するかな。八幡神の伴神(武内宿禰)として祀るよう。

15:00-16:00

水上布奈山神社

千曲市

「水上布奈山神社」を   >

水上布奈山(みずかみふなやま)神社は、慶長8(1603)年、北国街道の宿駅として下戸倉(しもとぐら)宿が設置された時、諏訪大社より建御名方神を勧請して創建され、諏訪社と呼ばれていたがその後改称した。両部鳥居。玉垣はほぼ東西に建てられているが、社殿は全体的に南東を向いている。ここは埴科郡だが、更級郡を見渡す場所を探して立ち寄った。

15:00-16:00

水上布奈山神社本殿案内板。創建当時は「諏訪社」であったが天保6年京都の神祇官領卜部家から社号を充可されたよう。「諏訪社」は千曲川の洪水により度々流失しようだが、現在の建物は洪水から下戸倉宿を防護する役割もあったか立派である。名前もふさわしい。

15:00-16:00

拝殿の後ろの本殿は国重要文化財のため覆屋で囲われている。

15:00-16:00

本殿は、江戸時代後期を代表する諏訪の名宮大工棟梁「大隅流芝宮長左エ門矩重」により寛政元年(1789年)に建造。長左エ門の40歳前後の円熟期の一間社流造で、県下でも最大級のもののよう。正面。向かって右が寒山、左が拾得。本殿は公開されておらず、格子の間から正面は見えるが、周囲は見ることができない。行事の時は公開するが、普段は録音された説明が流れる。

15:00-16:00

水上布奈山神社本殿彫刻。竹林の七賢人(四体)と上に下り竜。

15:00-16:00

水上布奈山神社本殿彫刻。朱雀に白虎か。パンフと比べてもよくわからない。

水上布奈山神社本殿彫刻。中央下部が「波に亀」、両脇は唐獅子で右に上り竜か。

15:00-16:00

水上布奈山神社本殿彫刻。下り竜に上部は菊。

15:00-16:00

水上布奈山神社本殿に掲げられた相撲免の額。江戸時代、江戸相撲から相撲を開催することを許可された額。

15:00-16:00

水上布奈山神社境内社:稲荷社。二つの灯籠は江戸時代の北国街道「下戸倉宿」の飯盛女が旅籠主人らと寄贈したもの。右側の燈籠に飯盛女の名前が刻んである。

15:00-16:00

飯盛女の献燈籠。下戸倉宿の賑わいがわかる52名の飯盛女の名前。もう一つの燈籠には飯盛女抱主、旅籠の主人らと思われる15名の名前が刻まれている。

15:00-16:00

戸倉宿キティパーク

千曲市

「戸倉宿キティパーク」を   >

戸倉宿キティーパーク。別名「天狗公園」。千曲天狗は8mで日本一(世界一)のよう。ここに戸倉上山田唯一の積石塚古墳がある。

15:00-16:00

戸倉宿キティパークから見る旧更級地区。千曲川の左岸で左手の大正橋を渡った所が佐良志奈神社。奥の高い山が冠着山か。中央奥は聖山。右手中腹に姨捨がある。

16:00-17:00

冠着山(姨捨山)

筑北村(東筑摩郡)

「冠着山(姨捨山)」を   >

冠着山(かむりきやま)は、千曲市と東筑摩郡筑北村にまたがる山。標高 1,252m。幾つかの呼び名があり、「冠山(冠嶽)」「更科山」「坊城」とも言われ、俗称は姨捨山(おばすてやま・うばすてやま)。古称は小長谷山(小初瀬山・小泊瀬山、おはつせやま)。冠着山の名の由来は天岩戸伝説があるが、歌枕では「富士山に冠を着せたような山」として歌が詠まれている。江戸時代までは冠着山と姨捨山は別のものであったが、近年、同じものとしている。

16:00-17:00

姨捨長楽寺

千曲市

「姨捨長楽寺」を   >

長楽寺(ちょうらくじ)は、長野県千曲市にある天台宗の寺院。山号は姨捨山。姨捨山放光院長楽寺と号する。本尊は聖観世音菩薩。信濃三十三観音霊場第14番札所。

16:00-17:00

長楽寺観月堂と姥岩。

16:00-17:00

姨捨長楽寺

千曲市

「姨捨長楽寺」を   >

本堂入り口に飾られたすすき、萩と鏡餅。(9/23)

16:00-17:00

長楽寺月見堂。タイ人の学生さんらしき2人が熱心に見ていた。(9/23)

16:00-17:00

月見堂。芭蕉像とススキの生け花

16:00-17:00

月見堂と芭蕉の面影塚。芭蕉は「更科紀行」で「俤(おもかげ)や姨(うば)ひとり泣く月の友」と詠んでいる。この句碑を上田藩士の子として江戸で生まれ蕉風俳諧を学んだ加舎白雄(かやしらお)が建立した。以後、弟子をはじめ小林一茶など流派の違う俳諧師も訪れるようになり、俳句を志す者の聖地となっている。白雄の句碑を弟子で下戸倉宿出身の宮本虎杖(こじょう)が建てている。自薦・他薦の句碑が姥岩の回りに建てられている。仲秋の名月の頃には全国俳句大会が開かれている。

16:00-17:00

「芭蕉翁面影塚」案内板。「更科紀行」では「おもかげ」の他、「十六夜もまだ更科の郡かな」「ひょろひょろと尚露けしや女郎(おみなえし)」と同行した弟子越人の「更科や三夜さの月見雲もなし」があり、繋がりの解釈が難しいらしいが、謡曲「姨捨」を踏まえるといいらしい。

16:00-17:00

姨捨の棚田

千曲市

「姨捨の棚田」を   >

姨捨(おばすて)の棚田。日本の棚田百選及び重要文化的景観にも認定された。ここから眺める善光寺平は絶景だ。(7/14)

16:00-17:00

長楽寺境内から見る姨捨の棚田と鏡台山。(9/23)

16:00-17:00

長楽寺付近でみる棚田。棚田を年間3万円で借りることもできるよう。稲刈りをしていた方は「玄米50s位収穫できるが田植えから脱穀までが楽しみ」と話されていた。(9/23)

16:00-17:00

姨捨の棚田と月の名所鏡台山(きょうだいさん)。下の建物の棟の方角が月の出る方向を指しているよう。夕方まで待ったが曇っており月は見えなかった。(9/23)

18:00-19:00

姨捨サービスエリア下り線から見る夜景。(10/20)

更級の里めぐりと戸倉上山田温泉

1日目の旅ルート

みんなのコメント(0件)

投稿する

投稿に際しては、必ず観光ガイドご利用規約をご確認ください。
皆様がより快適にご利用いただくための「投稿上のルール」や、
投稿内容の利用に関して記載しております。

閉じる

この旅行記は参考になりましたか?参考になった!3

この旅行記をもとに旅の計画をつくる
この旅行記をカスタマイズして、あなたの旅の計画を作りましょう

メタボ大王さんの他の旅行記

    • 家族(子連れ)
    • 6人〜9人

    娘夫婦から9月生まれの私達夫婦の誕生日祝いに東京ディズニーランドとディズニーシーへ招待された。3歳...

    677 6 0
  • いたばし・戸田橋花火大会を見る

    2023/8/5(土) 〜 2023/8/6(日)
    • 家族(子連れ)
    • 6人〜9人

    第70回戸田橋花火大会と第64回いたばし花火大会が4年ぶりに同時開催された。板橋に住む娘夫婦に誘...

    429 2 0
    • 友人
    • 3人〜5人

    善光寺縁起を記した「扶桑略記」の変遷の中で、「推古天皇10年(602)4月8日、秦巨勢太夫に信濃国へ請...

    191 0 0
    • 夫婦
    • 2人

    ブランド薬師を巡ってから真光寺ループ橋を上がり浅川ダム展望広場で浅川ダムを見る。紆余曲折を経て完...

    695 2 0
(C) Recruit Co., Ltd.