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さとけんさんの青森県〜東京都の旅行記

【三陸から下北へ】三陸海岸から尻屋崎・大間崎を巡り下風呂温泉に泊まる【2024年7月】

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今回は一般道で下北半島を目指します。三陸海岸はこの7月に続き、今年の9月にも再び訪れる予定です。さて、初日は、土浦の予科練記念館を見学し国見の道の駅で仮眠、2日目は三陸海岸を陸前高田・大船渡・久慈と立ち寄って八戸で一泊、3日目は下北半島を北上して尻屋崎から大間へ、恐山の温泉に浸かったあと下風呂温泉に泊まり、4日目は北限の野猿に会って大湊に寄ってから下風呂温泉に戻って連泊、5日目は下北半島を南下して三沢基地に立ち寄り水沢で1泊、6日目は毛越寺を訪れて鳴子温泉の共同浴場・滝の湯に入って、さあ神奈川へ帰るかというときになって、車が突然故障し、いろいろと大変でしたがそんな中でも幸運も多く、1日旅程は伸びましたが無事に帰着です。

神奈川ツウ さとけんさん 男性 / 50代

1日目2024年7月6日(土)

言問橋

墨田区

「言問橋」を   >

土曜日の早朝、神奈川から都心を抜けて土浦へ向かいます。写真は5時42分、言問橋を西から東へ渡ると目の前にスカイツリーが現れました。交通量はそれなりにありますね。

予科練平和記念館

阿見町(稲敷郡)

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予科練平和記念館は9時に開館です。予科練とは「海軍飛行予科練習生」の略で、戦前・戦中の海軍においてパイロットを志す者を養成する制度です。太平洋戦争の戦記などを読んでいると、予科練・乙飛・甲飛などの分類が出てきます。馴染みのない私などは、最初はそのあたりの分類はすっ飛ばして読み進めるのですが、乙飛は乙飛の、甲飛は甲飛の、それぞれ独自のアイデンティティがあって、それは例えばいつ入学したか(何期か)ということでもそれぞれ違う誇り・連帯感があって、その意味するところが分からないとその航空兵の心情や取り巻く環境などが理解しにくいというほどの意味がある分類です。この記念館ではその分類も詳しく解説されていてとてもわかりやすいですね。現代でもパイロットを志す者は、例えば航空大学校であったり航空会社の自社養成システムだったり自衛隊や海上保安庁などのパイロット養成課程であったり、あるいはパイロットを養成する高校・大学などへの入学であったりと、入学から養成課程に至るまで選別されエリミネートの憂き目にあう航空学生も多く、裸眼視力1.0以上という厳しい基準が撤廃されたとはいえ、パイロットが狭き門であることに変わりはないのですが、しかしそれ以上の難関、第1期の予科練の志願者・5807名、うち合格者79名という、競争倍率約74倍をパスした超エリート候補生から予科練は始まりました。

予科練記念館(雄翔館)

阿見町(稲敷郡)

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時刻は11時50分、予科練平和記念館の見学を終え雄翔館の見学へ歩を進めます。予科練平和記念館は初めての訪問でしたが、こちらは27年振りくらいの再訪になります。予科練をはじめとして日本の航空兵の将来は明るくなかったわけですが、ただ私が感じて想ったのは、航空兵の中でも特に志してパイロットになった人々については、悲劇的な結末とはうらはらに、彼らの青春は充実していたのではないかということです。期待され鍛えられ訓練されて、それに応えて輝いた青春であったろうと思います。ただ、運命のエイミングポイントは非情にも、大きく逸れて行きました。その帰着点が彼らに相応しいものであるはずもなく、無情にも空に散った人々のことを私は想いました。阿見町を辞します。

那珂川町温泉ゆりがねの湯

那珂川町(那須郡)

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時刻は16時43分、栃木県那須郡那珂川町にやってきました。那珂川のほとりにある馬頭温泉郷には、日帰り温泉施設のゆりがねの湯があります。今日は先々の道の駅で車中泊の予定ですので、ここの温泉で汗を流していきます。美人の湯というだけあって肌がツルツルするような泉質、露天風呂からの眺めも広くていいですねー。ゆっくり汗をひかせて、1時間ほどの滞在でゆりがねの湯を辞します。このあと、「道の駅 東山道伊王野」に18時から20時まで滞在、「道の駅 国見 あつかしの郷」に22時40分から3時40分まで滞在し、仮眠をとって三陸海岸へ向かいます。

2日目2024年7月7日(日)

石巻市震災遺構 大川小学校

時刻は6時40分、大川小に到着しました。鳥のさえずりだけが響く、日曜日の朝の静かな川辺に大川小はあります。どうにかならなかったのか、なんとかならなかったのか、繰り返される思いです。どうにもならなかった結果がここにある、それを私は直視せねばならぬと思いました。2011年3月11日の15時37分(地震発生は14時46分)に到達した津波によって、校庭に避難していた小学生78名中74名(うち4名は行方不明)と、教職員11名中10名が犠牲になった現場です。

石巻市震災遺構 大川小学校

震災当日の時系列が記されています。河口から約4km離れた大川小には津波が来ないと想定されていたそうですが、実際の津波は川を遡上し溢れる形で、地震発生から50分後に大川小に到達しました。

石巻市震災遺構 大川小学校

あの橋の袂が「三角地帯」と呼ばれ、そこへ避難を開始した直後の人々が津波に流されたとのこと。もっと早く、少しでも高いところへ逃げていれば、結果論かもしれませんが、裏山や少し離れた高台へ逃げていればなぁと、あまりにも悲惨な結末を私は悔やむことしか出来ません。

石巻市震災遺構 大川小学校

慰霊碑に心を向けます。どんなことでも起こりうるという気持ちは、私の中にはあの大震災の津波の映像をリアルタイムで見てから芽生えました。だから震災当日にここに私がいたとしても、正確に避難できたかどうかはわからない。静かな大川小学校を辞します。

いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)

陸前高田市

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陸前高田の高田松原津波復興祈念公園にやってきました。 この公園には国営追悼・祈念施設の他に、道の駅・高田松原、いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)や震災遺構などが整備されています。

いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)

陸前高田市

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大きな駐車場の端に車を停めて、ひと気のない道を建物の方へ近づきますと、草刈ロボットがウィンウィンと近づいてきました。ほぅ、まめまめしく働いておりますな。どういうわけだが私の方へ一直線で近づいてきて、芝と道の境目で困ったように前後に動いております。それでは津波伝承館を見学しましょう。

いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)

陸前高田市

「いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)」を   >

かつてのこの場所は約7万本の松が生える美しい砂浜だったそうです。津波によりこの場所にあった「道の駅・高田松原」は大きな被害を受けて休館していましたが、2019年9月22日にリニューアルオープンしたとのこと。旧・道の駅高田松原の被害を受けた建物(タピック45)も震災遺構として遺されています。この画像の向かって左側に「いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)」があり、右側に「道の駅・高田松原」の施設があって、奥の海に向かって歩いていくと「献花の場」と「追悼の広場」があり、さらに階段を昇ると「海を望む場」があります。さて、津波伝承館の常設展示は「二度と津波の悲しみを繰り返さないために、命を守り、海と大地と共に生きる」ということがテーマになっています。私の心に特に残った展示は、「事実を知る」というゾーンの体験者の手記です。非常に正直で生々しい証言が多いです。津波が本当に来るとは思わなかった、そこまで凄い津波が来るとは思わなかった、まさか(津波が)来ないだろう、正直言って地震の直後は津波のことを忘れていた等々の大人の証言がある一方で、3月9日に避難訓練をしたばかりの中学生は、四の五の言わずに当たり前に逃げたとのこと。「つなみてんでんこ」とか「此處より下に家を建てるな」という「伝承」の風化を避ける、それも一つの方法・悲しみを繰り返さない方法の一つなんだなと感じました。

いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)

陸前高田市

「いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)」を   >

津波伝承館を出て、「海を望む場」にやってきました。伝承館から一本に続く道。

いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)

陸前高田市

「いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)」を   >

振り返れば一本の道は海へ延び、海上から天へ、あたかも続くかのように見えました。ああ、ここが。あの大津波が来た海岸なのかと。

いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)

陸前高田市

「いわてTSUNAMIメモリアル(東日本大震災津波伝承館)」を   >

津波はこれからも必ずやってくるでしょう。しかし、悲しみを繰り返さない、この「繰り返さない」ということは、なんとか達成可能な目標なのではないかと、そんな気がします。高田松原津波復興祈念公園を辞します。

丼屋さかぐち

高田松原津波復興祈念公園から車で5分ほどの「さかぐち」さんにて生ウニ丼をいただきます。三陸には9月にもやってくる予定なのですが、生ウニの季節は5月から7月、遅くても8月にはシーズンが終わってしまうということで9月には食べられない生ウニを、甘い甘い生ウニを心ゆくまで味わいました。

大船渡市防災観光交流センター・おおふなぽーと

三陸海岸の一般道を走っていると、至る所に看板があります。「これより先、津波による浸水区域」「ここまで、津波の浸水区域」という内容の看板です。中には凄く高く感じる場所(海面からの高さがある場所)に看板があって、非常に驚きました。さて、大船渡のおおふなぽーとにやってきました。こちらはかつてのJR大船渡線の大船渡駅、現在は大船渡線BRT(バス高速輸送システム)のバス停の隣に立っています。こちらの施設は屋上に昇ると大船渡の湾が一望できるのですが、私は大船渡へは初めての訪問にもかかわらず、湾を取り巻く山々の姿に見覚えがあるのは、やはり津波の動画を何べんとなく視聴してきたからでしょう。

かもめテラス 三陸菓匠 さいとう総本店

大船渡市

「かもめテラス 三陸菓匠 さいとう総本店」を   >

おおふなぽーとの横にある「かもめテラス」で冷たいものを食べます。今日は暑いですな。外の日陰でゼリーの上に乗ったソフトクリームを食べますと、風がそよそよとして気分が良いです。

うのすまい・トモス

釜石市

「うのすまい・トモス」を   >

釜石市鵜住居(うのすまい)町にやってきました。こちらの「うのすまい・トモス」は、「釜石祈りのパーク」と「いのちをつなぐ未来館」と「鵜の郷交流館」と駐車場と「釜石市民体育館」のエリアで構成されています。画像は「いのちをつなぐ未来館」です。鵜住居町も、大きな悲劇が起きた場所です。避難がうまくいかなかった例と避難がうまくいった例という、教訓とすべき大切な記憶をこの土地に留めていました。それではこの施設に入ってみましょう。

うのすまい・トモス

釜石市

「うのすまい・トモス」を   >

「いのちをつなぐ未来館」の隣りにある「釜石祈りのパーク」は、かつて「鵜住居地区防災センター」という建物が建っていた場所です。この防災センターは2010年の2月1日に開所した施設で、2011年3月11日までの1年と1ヶ月あまりの間、津波避難訓練が行われたり(2010年5月23日および2011年3月3日)、実際に地震が起きた際(2010年2月29日及び2011年3月9日)には一部の住民の方が避難してきたりしていたそうです。しかしこの「防災センター」の本来の位置付けは「拠点避難所」であって「津波避難場所」ではなかったと。拠点避難所というのは「大規模な災害が発生した際に中長期の避難生活を前提とした避難所」ということで、津波避難場所とは「津波注意報・津波警報が発表されたときに一時的に避難する高台になどのことで一次避難場所・緊急避難場所のこと」らしいのですが、2011年3月11日の地震の際は、防災センターを津波の避難場所と思っていた人々や、津波の避難場所ではないことは知っていたが皆が多く集まっているので安心して避難してきた人々など、展示された情報では推定196名の住民の方が防災センターに避難して、うち162名の方が防災センターへ到達した津波によって亡くなってしまわれました。

うのすまい・トモス

釜石市

「うのすまい・トモス」を   >

そしてこちらは鵜住居小学校と釜石東中学校の生徒たちが、いかに住民を巻き込んで生き延びたかという事実を伝える展示です。揺れの大きさと長さから「プレート海溝型の地震だ、津波がくると直感した(中学生の証言)」中学生たちは、(訓練ならば校庭での整列・点呼の後に高台の介護施設へ避難することになっていたのだがそれはしないで)、揺れが収まるとすぐに高台の介護施設へ走った、それをみた小学生も校舎の3階から高台の介護施設に避難したそうです。初動の早さで時間的なアドバンテージを手にしていた彼らは、次に更に高台まで避難することを決断して、すんでのところで津波から逃れることができたという展示でした。展示されていた10のメッセージです。「大きな揺れや長い揺れを感じたら、とにかく高い所へ逃げて」「過去の津波が来たことがない場所にあなたが居たとしても(さらに高い所へ)逃げて」「100回逃げて100回津波が来なくても101回目も必ず逃げて」「率先して逃げて」「相手は自然だからどのくらい大きな津波が来るかは誰にもわからない」「家族を信じて皆が命てんでんこで逃げて」「地震が起きたら、家族が別々の場所にいても探したり戻ったりはしないで」「もしも大切な人の命を守れなくても決して自分を責めないで」「自分は決して一人ではなく多くの人に支えられて生きている」「未来のためにできることは避難を続けること・備えること・語り継ぐこと」

宮古市震災遺構・田老観光ホテル

鵜住居を辞して田老町へやってきました。津波遺構の「たろう観光ホテル」です。東日本大震災の津波では4階までが浸水、2階までは柱を残して流出したと案内板にあります。観光客として災害に遭遇した場合、どうするのかなと考えてみました。以前、ゴールデンウイークの湘南海岸を、江の島を折り返しポイントにして早朝の平塚駅から歩いたことがありました。江の島の手前辺りで引き返せばよかったのに、まだ空いているからと島の中へ入って神社に参拝し、いざ帰ろうという段になって、参道に人があふれて身動きが取れないくらいの混雑に遭遇したことがあります。その時は、日本人の静けさというか冷静さというか、押さず慌てず少しずつ少しずつ動いて時間をかけて移動出来たのですが、もし、あの場面で津波が来たらどうなるのか。あるいは津波注意報・警報が出ただけでも規模の大きな雑踏事故が起きる可能性があるなと考えてゾッとしたことがあります。ましてや知らない土地で、海では津波・山ではがけ崩れ、川の増水も火災も雑踏事故も考えないといけない。洞窟にいる場合も灯台の上にいる場合もあるし、崖の際を歩いていたり滝を見学している場合もある。観光している時は、その土地の危険性を考えないようにしている・忘れているようなことが多い、これは「本当に津波がくるとは思わなかった、津波のことを忘れていた」という構図と全く同じ・他人事ではないのだと改めて思いました。

道の駅いわて北三陸・北三陸にしやま食堂

田老町を辞し、宮古市あたりから今晩の宿泊地である八戸へ向けて三陸道(三陸沿岸道路)に乗ります。三陸道は仙台市から八戸市までの全線・359kmのうち330kmが無料区間です。無料区間はインターチェンジに料金所がありません。久慈北インターチェンジで降りるとすぐに「道の駅 いわて北三陸」がありまして、本日はこちらで夕飯を食べていきたいと思います。にしやま食堂の北三陸海鮮丼です。この海鮮丼も美味しかったですねー。お刺身が美味しかったです。特にエビは食べ応えがあるし甘かったし、たくさん食べたいのぅ。八戸プラザホテルにチェックインをしてシャワーを浴び、今日のまとめ、明日の計画をおさらいして良く寝ます。

3日目2024年7月8日(月)

八戸プラザホテル

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さて、本日は八戸から下北半島の北の縁(尻屋崎から大間と周って下風呂温泉)へむかうわけですが、時刻は4時42分、ホテルから見える朝日はきれいだし天気も良いということで、八戸の鮫角灯台と葦毛崎展望台に寄って行くことにしました。急いでシャワーを浴び5時15分にチェックアウトします。

蕪島

八戸市

「蕪島」を   >

葦毛崎展望台へ向かう道すがら八戸市水産科学館マリエントあたりから見た蕪島(かぶしま)です。蕪嶋神社の背中が見えますね。ここまでウミネコの鳴き声が聞こえてきます。蕪島の向こうに見える黄色い橋は八戸大橋で、高さが30mあります。この後、葦毛崎展望台や鮫角灯台を周ってから下北半島へ向かう際に、あの八戸大橋を渡りましたが前を走る大型車がスピードダウンするような結構な傾斜を感じました。

葦毛崎展望台

八戸市

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時刻は5時45分、葦毛崎展望台に到着です。パッと見たたたずまいがとてもいいですねー。人気がある観光スポットらしくて普段は駐車場も展望台も混雑していることもあるらしいのですが、早朝のこの時間はひと気が無くて静かで実に良い。葦毛崎展望台から美しい種差海岸(たねさしかいがん)を眺望します。静かですねー。

葦毛崎展望台

八戸市

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この展望台付近から種差海岸には遊歩道が整備されていて、どこか近くに泊まって、早朝あるいは夕方のひと気の少ない時間に静かで穏やかな遊歩道を散歩するのもいいだろうなぁと考えたりします。

葦毛崎展望台

八戸市

「葦毛崎展望台」を   >

この展望台は、もともとは旧海軍の軍事施設があった場所に造られています。太平洋戦争中は電波探信儀(電探:レーダー)が置かれていたそうで、画像中央の丸い構造物を含む土台部分はその時代の遺物とのこと。穏やかで暑くも寒くもない晴れた日に、再訪したいと思いました。

鮫角灯台

八戸市

「鮫角灯台」を   >

葦毛崎展望台からみた鮫角灯台です。あちらへ行ってみましょう。

鮫角灯台

八戸市

「鮫角灯台」を   >

近くの駐車場に車を停めて3分ほど歩くと鮫角灯台に至ります。鮫角灯台(さめかどとうだい)は1938年(昭和13年)2月16日に点灯した灯台です。「のぼれる灯台16基」には含まれませんが、期間限定で、令和6年は5月3日から10月20日までの土日祝日に一般公開(上まで登れます)されていて、なんと無料で登れるようですな。当日の天候などで公開中止になる場合もあるので、訪れる際は確認してから出かけたほうが良いようです。さて時刻は6時20分、鮫角灯台を離れて下北半島の尻屋崎を目指します。八戸大橋を通って県道19号線から国道338号線を一路北上、通勤時間帯ということもあり交通量はありましたが、東通村小田野沢荒沼あたりで県道248号線に右折すると後は尻屋崎までほとんど車の無い道を快適にドライブしました。

尻屋崎

東通村(下北郡)

「尻屋崎」を   >

尻屋崎灯台の東ゲートをくぐって尻屋崎灯台には8時40分の到着です。なお、尻屋崎灯台の入門ゲートは(4月1日から4月30日までは午前8時から午後3時45分まで)(5月1日から11月30日までは午前7時〜午後4時45分まで)(12月1日から3月31日までは冬期間ゲート閉鎖)となっています。少し離れた駐車場に車を停めて歩いて灯台へ近づきますと、灯台が解放される時間になっていないこともあって他の車も無く、最果て感があっていい雰囲気です。尻屋崎灯台(しりやさきとうだい)は、1876年(明治9年)に点灯した灯台で、国の重要文化財に指定されています。この灯台の近くには寒立馬(かんだちめ)と呼ばれるお馬さんがいるはずなのですが、姿がみえませんでしたね。どこへ行ったのかな。この灯台は「のぼれる灯台16基」の1つです。9時になりますのでさっそく昇ってみましょう。(なお11月上旬から4月上旬まではのぼることが出来ませんのでご注意ください)

尻屋崎

東通村(下北郡)

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この尻屋崎灯台は二重のレンガ壁になっていて、レンガ造りの灯台としては日本一の高さを誇るそうです。明治16年10月24日午後8時30分には隕石が落ちて灯台を直撃し、ガラスが割れたとのこと。そしてもう一つ興味深い記録があります。怪火(あやしび)の記録です。これは灯台長が「灯台の怪火について」という報告書を灯台局に報告した公文書とのことで、灯台でもらった案内のしおりによれば「戦後、戦災で消灯している灯台が、点灯している現象を当時の灯台職員全員が実際に目にしています」とのことです。なかなか、不思議な話もあるものですね。

尻屋崎

東通村(下北郡)

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灯台の上に登りました。けっこう、風が強いですね。尻屋崎は太平洋と津軽海峡の境目にありまして、こちらは太平洋の景色です。灯台が風で揺れるんですよ。ちょっと足がぞわぞわとします。しかしあさイチでやってきた甲斐があって独り占めできている状況なので、なかなか灯台を降りる気になりませんな。ワハハ。

尻屋崎

東通村(下北郡)

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こちらは右手に津軽海峡、左手に太平洋、正面は桑畑山です。おなかが空いてきましたね。本日の朝ごはんは大間のマグロ丼を予定しております。尻屋崎灯台からの眺めを充分に楽しみ、ここから大間へ向かいます。

大間崎

大間町(下北郡)

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時刻は10時20分、大間崎にやってきました。前回は2018年に訪れておりますので6年振りということになりますね。この時間、大間崎の突端は人の気配があまりありませんが、テントサイトの駐車場はほぼ満車状態でした。車中泊をしている方が多いのかなと思いました。

大間埼灯台

大間町(下北郡)

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あちらは大間埼灯台(おおまさきとうだい)ですな。おなかが減ったわい。早く食べたいわい、ということでマグロ丼を食べに行きましょう。

大間崎・あけみちゃん号

じゃじゃーん。「あけみちゃん号」というお店の素晴らしいマグロ丼が私のもとへ到着しました。ジューシーである。よきよき。これはウマい。あっという間に完食しました。前回は「馬い家」というお店のホタテ丼でして、あれもでっかいホタテの刺身が沢山並んでいた丼で旨かったし、このマグロも旨かったし。こころゆくまで贅沢な朝ごはんを楽しみました。このあと仏ヶ浦の観光船に乗ろうかと思ったのですが、佐井町の切符売り場へ行きますと本日は予約していないと船には乗れないとのこと。仏ヶ浦はあきらめて恐山へ向かいます。

三途の川

むつ市

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まずは三途の川のほとり、太鼓橋のたもとで6年振りの奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんねおう)にご挨拶です。駐車場へ行きますと停まっている車はかなり多かったのですが、恐山菩提寺の境内に入りますとひと気が少ないですね。

恐山菩提寺

むつ市

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参道もほとんど人がいらっしゃいません。何か行事があって、みなさん、建物の中にいらっしゃるのかもしれません。恐山の御本尊は地蔵菩薩で、画像正面の山門の奥にある地蔵堂にいらっしゃいます。そして受付でいただく境内案内図によれば「本堂」と呼ばれる建物は、この山門の手前、画像で言うと左手に写っています。こちらの本堂には釈迦如来がいらっしゃいます。合掌一礼でお参りです。

恐山温泉

むつ市

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参道の脇に恐山温泉があります。この温泉に入るために、境内へ入る前にタオルを忘れずに持ってきました。画像の小屋の手前の扉をスライドさせるとまず脱衣所があって、その奥に湯舟が2つあります。先客は1名、服を脱いでかけ湯をしますと、あれ? 熱くないですね。ここは源泉温度が74.4℃ということで、熱い湯を想像してきたのですが。その時、先客が振り返って「ぬるいですよー」と教えてくださいます。どうやら本日は、パイプから流れ込む源泉そのものがぬるいようです。湯の花が舞い、硫黄のとても良い香りがするぬるい湯、身体の関節部分にはひんやりとするくらいのぬる湯でございました。10分くらい入っておりました。

恐山

むつ市

「恐山」を   >

手向けられる風車や積まれる石の一つ一つに、亡き人を想う気持ちが込められているのだなぁと思います。一昨日訪れた予科練平和記念館の写真で見た青年たちは、入学したてのころは14歳ぐらいの青年もいるわけで、実にあどけない顔をされていましたな。そんなことを思い出します。

恐山

むつ市

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こちらは小さなお子様を亡くされた方がお供えされたお地蔵様でしょうか。極楽浜と呼ばれる白い浜のところどころに石が小高く積まれて、小さなお地蔵さまが置かれていました。

恐山

むつ市

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こちらのお地蔵さまは東日本大震災の供養塔です。今回たどってきた三陸海岸を思い浮かべて、亡くなった方々を思い手を合わせます。お参りを終えて、今日の宿泊地である下風呂温泉へ向かいます。

坪田旅館

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本日と明日のお宿である「つぼた旅館」に到着です。下風呂温泉(しもふろおんせん)は、室町時代から記録に残る歴史のある温泉地で、車で大間崎までは25分、尻屋崎までは50分、恐山までは50分の場所にあります。

坪田旅館

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おお、いい感じのお部屋ですな。エアコンがついていませんが、扇風機と窓からの涼しい風がこれは気持ちが良い。チェックインの後、部屋に荷物を置くと、すぐに浴衣に着替えてお風呂へ行きます。

坪田旅館

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おお。これ素晴らしい白濁した硫黄泉です。画像ではわかりませんが天井が高いので開放感がありますし、湯舟も思っていたよりも小さくありませんね。それでは早速、かけ湯をしますと、おおっ、おー、これは熱い。下風呂温泉は熱い湯とは聞いていましたが、これはなかなかの熱さでございますな。下風呂温泉には2020年の11月まで大湯と新湯という2つの共同浴場があり、それぞれ泉質が違うらしいのですが、坪田旅館ではそのうちの「新湯系」の温泉を楽しむことができます。熱い。熱い時はまずはかき混ぜます。かき混ぜ棒でかき混ぜると、湯舟のふちからお湯があふれて足があちぃあちぃ。そしてまずは足先から。おー、熱いな、しかし足の親指がはじけてしまいそうな熱さ・痛さではありませんな。これは大丈夫。入れます。熱い時は加水しても良いのですが、今日のこの時は加水無しで入ることが出来ると、我が「足センサー」が知らせてきておりますので、すぅーっと静かに入って、まずは膝を曲げて腰上まで、そして肩までと。おー、熱いな。しかし静かにしておりますと、まるで身体の表面に薄い膜が出来たかのように「熱くない層」に包まれている感じとなりまして、般若心経を1回唱えることができるほどの時間は入っていられる、そんな感じですね。私はこのお湯では長湯はできません。宿の御主人に教えていただいたお風呂の入り方は、「短く入って何回も入る」これが良いとのことです。

坪田旅館

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お風呂から出てサッパリとしまして、下風呂温泉を散策しましょう。熱い湯に入った後のお散歩は、吹く風が本当に心地よいですな。下風呂温泉の小さな温泉街の実に静かな路地を歩いていきます。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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下風呂温泉と言えばここ、未成線・大間線の遺構であるアーチ橋の上にある足湯です。以前、6年前に私が訪れた際の足湯は、白濁はしていてもぬるかったのですが、本日の足湯は、しっかりと熱いですな。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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大間線は戦前に鉄道敷設の工事が始まりましたが戦中に資材不足を理由に工事が中止され、戦後には工事再開の可能性もあったのですが、結局、工事が再開されることなく現在に至ります。ひと気もなく静かですねー。アーチ橋の上からは海岸線と水平線が見えます。夕食前の静かなひと時。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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プラットフォームを模した足湯の施設に菅江真澄(すがえますみ)さんの記録した下風呂温泉の説明がありました。この菅江真澄さんは江戸時代後期の旅行家で、30歳から旅を始めて76歳で亡くなるまで、現在の北海道や青森・秋田あたりを旅をして周り、その記録を書き留めた方です。ここ下風呂温泉のある下北半島には、1792年から1795年までのうち2年半滞在して、当時の日本の姿を文章と絵図で記録しました。下風呂温泉では「新湯に行くと、夕陽の影が紅葉に落ちて、鹿が鳴いている」などという記述を残されているそうです。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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ほぅ、なになに、どんなお顔ですかね。あれ?どこかで見たようなお顔ですね。あのー、髪の毛を金髪にした落語家のお師匠さんに目元と鼻あたりが似ている気がしますが、どうでしょうか。そんなことを考えながら菅江さんも見つめたであろう下風呂温泉の海を眺めます。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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アーチ橋の上を東へ歩きますと唐突にガッチリとしたコンクリート造りの階段が現れます。どうやらこれも戦前の大間線の遺構のようですね。屋根や壁が新しいので、何か違和感を感じたのです。実はこれ、現代アート作品の一部のようなのです。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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そうとは知らず、このいかにも戦前のコンクリート造り、ガッチリと厚みのある堅牢なコンクリの階段を降りて行きます。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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パネルが現れました。これはいったい何なのか? びっくりでございますな。この時はこれが何なのか、全然わからなかったのですが、2日後の帰る日の朝に、宿の御主人に尋ねてみましたら、最近このあたりで現代アートの企画があったのだということを知りました。どんなイベントだかは(御主人には)説明しづらいようで、詳しくはネットに説明があるということなので、自分で調べてみましたら、青森県立美術館のプロジェクトのようですね。説明文そのものが現代アートのような文章で、これは確かに他人に説明するのは難しい内容ですな。「青森県立美術館が地域と協働することを通じて、地域の魅力を様々に発掘・発信するアートプロジェクトです」とのことで、2021年は津軽地域(五所川原市、中泊町)、2022年は三八上北地域(三沢市、六ヶ所村、新郷村)で実施し、2023年に下北半島域での開催をもって完結するとのこと。この大間線の「遺構を過去の建造物としてだけではなく、過去における未来(未完成)を宿す遺構として注目し、モニュメント(墓)のあり方を問い直します」、さらに「歴史や地域への解釈を単一的に象徴させるモニュメントではなく、永続的な思索と想像へと投げかけられる多形を提示していきます」ということです。私の頭では文章だけではちょっとイメージがわかないのですが、同時に、個人的には過去現在未来の要素に興味がひかれますな。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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階段の出口は堅牢なコンクリートの出口です。私がする遊びで、「過去と思っていたら未来だった、未来だと思っていたら過去だった、現代だと思っていたら未来だった、未来だと思っていたら現代だった、現代だと思っていたら過去だった、過去だと思っていたら現代だった」という想像をして、時間を(頭の中で)行き来するような要素を旅に組み込んで遊んでみることを時々、私はします。例えば旧東海道を歩き旅している時に、「未来を歩く江戸時代の人間」になりきってみたり、「過去を歩く未来人」になりきってみたり、夜中の京都を歩きながら「新選組血風録(司馬遼太郎著)」の時代に頭を突っ込んでみたりという遊びで、その気になれればとても面白いのです。最近では北海道を旅行している時に、人類が少なくなった・あるいは絶滅してしまった近未来を旅行している気分になって、あれは北海道の清里町のいっぽんの道あたりや雄武町の日の出岬や稚咲内海岸のオトンルイ風力発電所あたりでしたね、あれは面白かったですね。ドライブしてる時に自分の車の中だけ時代が違うとか、エレベーターを降りたら時代が違うとか、ここでしたら階段を降りてこの出口から出たら、違う時代に来ているとか、想像がすっぽりと自分にハマると、けっこう楽しい感覚を味わうことができます。

下風呂温泉郷

下風呂温泉を見渡せる下風呂漁港を歩いています。係留された船から出る音と波の静かな音だけが聞こえます。本当に人っ子一人、居ないですな。ウミネコが、歩く私に気を配りながら羽を休めております。

下風呂温泉郷

漁港の景色を見ながら歩いていると、おなかが減ってきました。お夕飯を待つ子供の気分のようで、ちょっと気分が良い。

下風呂温泉郷

おお、あれがイカ釣り漁船か、いさり火の発光源ですな。

下風呂温泉郷

大間線の下をくぐって坪田旅館へ戻ります。宿に戻ってザっと熱い風呂に入ってからいよいよお夕飯です。

坪田旅館

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わー、やったぁー。御馳走ですな。今回は2泊するのですが、1泊目は「お手軽プラン」、2泊目は「湯っくりのんびりプラン」で予約しまして、これはお手軽プランの食事なのですが、御馳走ですよ、充分な内容です。品数も多いし、お刺身も美味しい。

坪田旅館

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そして生ウニが付いております。明日もこちらに泊まりますので気分もゆったり、ご機嫌で夕食を終えたあとは、3回お風呂に入って就寝です。

4日目2024年7月9日(火)

下風呂温泉郷

朝は4時半に起きてお風呂へ入ります。我が記録によれば、この時は滞在中2番目に熱かったようですね。お風呂から出たら散策です。昨晩は雨が降っていたようですが、朝には雨はあがった模様で、気温が少し下がって気分の良い散歩ですかな。まずはお寺にお参りをして、本堂の中にいらっしゃるはずの薬師如来に合掌一礼のご挨拶です。

海峡いさりび公園

風間浦村(下北郡)

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海岸沿いの海峡いさり火公園にやってきました。こちらには作家・井上靖氏の文学碑があります。「アカエリヒレアシシギ 暫くすると、再び海峡の闇の中に、アカエリヒレアシシギの集団は、その啼き声と一緒に吸い込まれ始めた。小さい生命が四、五十、ひと固まりになって、一定の間隔を置いて、次々に、海峡の闇の中に突入し、突入している。私たちは生涯で、そう度々、立ち合おうとは思われぬ、可憐な生きものの、凄烈極まりない渡海の式典に列していた。風間浦村の荒磯に立ったまま、寒さも忘れ、一言も発しないで、耳を澄ませていた。ひどく高く感じられる天の一角、そこだけに幾つかの、小さい星が輝いていた」という碑文です。広大な海を渡るにはあまりにも頼りない鴫の集団が、集団のどれ程が目的地へたどり着けるかわからない、もしかしたら海の藻屑となって全滅するかもしれない、それでも覚悟を決めて果敢に飛び立っていくアカエリヒレアシシギの集団が目に浮かびます。私には、それはあたかも、「天平の甍」で井上さんが描いた遣唐使の留学僧達の姿の様だと思えます。自分のやることが無駄なのではないか・無駄になるのではないか・果たして自分が目標としている対象は自分の人生を賭けるのに相応しいのかという迷いは、特に若者にとっては共通の迷いであろうと思います。鴫は死ぬかもしれないが飛ぶしかない。多くの無駄の向こうに、脈々と引き継がれるものが現れるという人生観。

海峡いさりび公園

風間浦村(下北郡)

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こちらがその文学碑です。井上靖さんは昭和33年にこの下風呂温泉に滞在して、小説「海峡」の終盤の舞台にこの温泉地を登場させています。彼が滞在した長谷旅館は廃業しましたが、その跡地には旧共同浴場の大湯と新湯を統合した村営の日帰り温泉施設「海峡の湯」が建てられました。その2階には井上さんが滞在した「長谷旅館・参号室」が、内部の調度品や床の間や欄間は長谷旅館の物がそのまま使用されて、再現されています。さて、本日の予定は朝食の後は下北半島の南西方面へ出かけるのですが、昼前後に下風呂温泉に戻って来て、前述の「海峡の湯」へ行ってみようかなと頭を巡らします。

下風呂温泉海峡の湯

風間浦村(下北郡)

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とーころが、本日(7月9日)はピンポイントで定休日とのことで、本日の計画を頭の中で練り直します。海峡の湯では、大湯・新湯の他に「井上靖ゆかりの湯」という湯舟があるそうで、そのお風呂にも入ってみたいし、2階の展示も是非とも見たいし、食堂の「ヒラメ漬け丼」も食べたいと思っていたのに、さて、どうしましょうかね。お風呂と展示は明日、宿をチェックアウトした後に訪れることにしようと決めます。

坪田旅館

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朝の散歩から帰って6時55分、一度お風呂に入って、7時15分ごろに朝食です。美味しい。タコの刺身に海藻、塩じゃけ、ノリ、味噌汁と全部ウマい。御馳走様でした。8時45分に坪田旅館を出て、脇野沢野猿公苑へ向かいます。脇野沢は下北半島を鎌と見立てた場合の鎌の刃の部分の下側(南東)にあたります。現在、国道338号線が仏ヶ浦から南がガケ崩れによる通行止めが続いており通行できませんので、脇野沢へ行くにはむつ市・大湊経由で向かうしかありません。下風呂温泉から約1時間30分で野猿公苑に到着です。

野猿公苑

むつ市

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野猿公苑にやってきました。車は「道の駅 わきのさわ」に置いて、看板によれば3分ほど歩く(実際には1分もかかりません)のですが、この風情を3分か、クマが出たらどうしようかと、ちょっとだけ心配になります。

野猿公苑

むつ市

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おっしゃー、サルじゃサルじゃ。私が訪れると、サルたちが一斉に騒ぎます。今日の一番目の客、ひょっとしたら唯一の客かもしれません。サル君たち、「二枚目の人間が現れたぞー」と大騒ぎしておるのぅ。キィキィと走り回って大はしゃぎしています。実際のところは、新入りが現れたかと思っているのかもしれませんが、そんなことは知ったことじゃありません。10分もすると落ち着きを取り戻した猿たち、毛づくろいを始めて穏やかな日常に戻っています。

野猿公苑

むつ市

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何じゃ、あれは。何をしとるんじゃ。「サクジョウコン無し、レッショウ無し、イレズミ無し、おい、ちゃんとメモしとるんか」「へぃ、親分」とか刑事ごっこか監察医ごっこでもやっているのでしょうか。

野猿公苑

むつ市

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実際のところ、毛づくろいなんでしょうがこの形は初めて見ましたよ。リラックスしすぎだろぅーというほど見事にヘソ天・大の字ですな。35分ほど、サルの生態を見学してから野猿公苑を辞します。このあと大湊の「水源地公園・北の防人大湊 安渡館」に立ち寄ります。6年前に訪れた際は「北洋舘」という史料館に到着時間の関係で短時間しか滞在できなかったのが心残りだったので、今日は時間はあるので見学したかったのですが、残念ながら私が訪れた時(2024年7月9日火曜日)は北洋舘は土日のみの開館でした。確認のため北洋舘のウェブサイトを確認しましたところ、この旅行記を書いている2024年8月の段階で「休館日・年末年始」(平日が消えている)となっていますね。これは平日も見学できるようになったみたいですね。安渡館のカフェは閉店となってしまって、あの美味しい海軍カレーは今は食べられないみたいです。「北の防人大湊 海望館」に昇って、停泊している自衛隊の船を眺めます。さて、下風呂温泉に戻ってお昼を食べてから宿のお風呂に入りますかな。今日のお昼は「海峡の湯」のヒラメ漬け丼を計画していたものの海峡の湯が定休日のためその案は却下、安渡館のカフェの海軍カレーもカフェの閉店で却下、ということで、そうだ、昨日下風呂温泉の温泉街を歩いたときに美味しそうなウニ丼の写真があったな、あそこにしようと心に決めます。

あさの食堂

風間浦村(下北郡)

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じゃじゃーん。下風呂温泉は「あさの食堂」のウニマグロ丼(中トロ)です。これはウマいぞぅ。

あさの食堂

風間浦村(下北郡)

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生ウニもウマい。マグロもウマい。静かで小さな温泉街の食堂でご馳走を食べるのも悪くはありませんな。御馳走様でした。

下風呂温泉郷

宿に戻りましてまずはお風呂へ。この時の風呂が滞在中で一番熱かったですね。これはたまらず加水をします。身体を洗う前にお湯の加減を見て、身体を洗っている間に加水をしまして、洗い終わったところでまだ熱いが水を止めて、熱いけれどもこれなら大丈夫。短く入ってから風にあたると、これが清々しい。お風呂から出た後は下風呂温泉の散策です。時間は15時ちょっと前、タオルを忘れずに持って出ます。下風呂温泉の街灯の意匠がイカですねー。近年は海水温が高くなったのでしょうか、青森や北海道でのイカの不漁がニュースになっています。産地で食べる新鮮なイカの刺身は本当に美味しいですから、ぜひ、もとに戻ってもらいたいのですが、今回の旅行ではイカのお刺身は食べる機会がありませんでしたね。下風呂温泉の下風呂漁港には「活イカ備蓄センター」という「活イカを見て!食べて!遊んで!三度楽しめる施設」と銘打った施設があるのですが、「下風呂沖のスルメイカ漁は、漁獲量にばらつきがあり不安定なため、活イカ備蓄センター内での飲食及び元祖烏賊様レースを開催することができません。皆様にはご迷惑をお掛けしますが、ご理解ご協力をお願いします」とウェブサイトにあり、私が訪れた際も休業していましたし、そしてこの旅行記を書いている時も休業中の模様です。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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タオルを忘れずに持って出たのは、この足湯を楽しむためです。セミが鳴いているけれども、とても静かでひと気がありません。これはゆっくりと楽しめそうです。

メモリアルロード足湯

風間浦村(下北郡)

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ここの足湯は、6年前に来た時はとてもぬるかったのですが、今回は本来の熱さに戻っていて、足が赤くなるほどに熱いのですが、坪田旅館のお風呂がさらに熱い湯ですので、私には熱さに対する耐性が出来ております。ヒグラシの鳴き声を聞きながら、20分ほど足湯に浸かって海を眺めておりますと、身体全体から汗が出てまいります。ペットボトルを持ってくればよかったな。このあとブラブラと歩いでお宿へ戻り、風呂に2回ほどザッと入って本日のお夕飯です。

坪田旅館

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おおっ、これもご馳走ですなぅ。すごい御馳走です。実は宿の予約が2ヶ月以上前で、1日目と2日目のプランを変えて予約をしていたことをすっかり忘れておりまして、昨日の夕食をイメージして食事の部屋にきましたので、これはビックリでございます。

坪田旅館

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マグロのお刺身、海老のお刺身と生ウニ、カマの塩焼きもホタテもホヤの酢の物も、全部美味しいですな。アワビも柔らかいのぅ。ご機嫌であります。御馳走様でした。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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食事の後はザっと風呂に入ってから、今日は雨が降っておりませんので、浴衣と下駄でカラコロと散策に出ます。タオルを忘れずに持ってでるのじゃ。水平線のいさり火を探すと、おお、一つだけですが水平線近くに明かりが灯っていますな。夕暮れ時の静かな海を眺めます。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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下風呂温泉は黄昏時ですな。ぼつぼつと街灯が目立ってきました。外はとても静かで、ご家庭やお宿で、皆さん晩御飯を召し上がっているに違いありません。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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足湯に浸かりましょう。もうヒグラシは鳴いておりませんが、ライトがポッと灯って良い雰囲気です。しばらく足を温泉に浸けながら暮れゆく下風呂温泉郷と海を眺めます。

下風呂温泉郷

坪田旅館へ帰る道すがら、ネコを発見。あの首元の、襟巻をまいたような柔らかな部分とその下の足が、なんとも可愛らしいですな。これは良いとカメラを向けます。

下風呂温泉郷

おやおや、イカ耳ですな。あの白い部分の柔らかな可愛らしさとは対照的に、目はランランと輝いているように見えます。なかなかカッコいい顔つきをしていますねー。君は男の子かな? おのれ以外の男前には警戒心を向けざるを得ないというようなネコ君のまなざしに対して、私は余裕の笑顔を返します。私もちょっと酔っぱらっているようですな、ハハハ。宿に戻ってウトウトとして、起きたら風呂へザっと入って、明日は少し長めのドライブになりますから、ぐっすりと睡眠をとります。

5日目2024年7月10日(水)

下風呂温泉郷

さて本日は4時半に起床、私の部屋の真下が風呂場でして、誰かが朝風呂へ行かれる気配がしますので、私は少しずらして、5時過ぎに朝風呂へ行き、ザっと風呂を出た後は朝のお散歩に出て足湯とアート作品を楽しみます。昨日降りたガッチリとしたコンクリの階段の上には画像のような展示物が遺っております。画像左の文章を読むとこれがなかなか面白いことが書いてあって、そのぼんやりとしたイメージを楽しみます。私の独自解釈で、過去現在未来に空間の広大無限を加味して、その「可能世界」への入口としての「モニュメント」に触発される体験というものを、楽しんでみました。ちょっと不思議な世界でしたよ。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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雲の切れ間から朝の陽が漏れておりますな。

メモリアルロード足湯

風間浦村(下北郡)

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未成線・大間線のアーチ橋です。アーチ橋の上にいるとそのアーチが見えないものですな。

幻の大間鉄道アーチ橋「メモリアルロード」

風間浦村(下北郡)

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朝の足湯に浸かりながら、薄い朝日に照らされる津軽海峡の海を、しばらくぼんやりと見つめます。宿に戻ってザっと風呂に入って、7時からは朝ごはんですな。

坪田旅館

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おお、素晴らしい朝ごはんです。御飯がお櫃に入っているのですが、自分で抱えてお代わりをして全部平らげました。昨日もそうですが朝ごはんを食べるとコーヒーを出してくださいますので、本日の予定を考え、御主人にアート作品のことなどを尋ねたりしてのんびりとします。本日はチェックアウトをしてから海峡の湯へ行きますと御主人に伝えますと、「ちょっと泉質が違って肌あたりも違いますからその違いを楽しんでください」と教えていただきました。数年前まであった共同浴場の新湯は、坪田旅館の隣りにあったようですね。ちなみに共同浴場の大湯は、坪田旅館から100mほど離れた「自由禅寺」と「さが旅館」の間にあったようです。8時15分、坪田旅館を辞します。

下風呂温泉海峡の湯

風間浦村(下北郡)

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8時16分、海峡の湯に到着です。坪田旅館からは坂を下ってすぐの場所にあります。下風呂温泉は100m以内に「大湯」「新湯」「浜湯」の3つの湯口があって、この海峡の湯では「大湯」と「新湯」を楽しむことができます。大湯は白濁していて新湯は透明に近いということなのですが、この2日間お世話になった坪田旅館の新湯系のお湯は湯の花も豊富で白濁していましたけれども、大湯はもっと白濁しているということですな。そしてもう一つ、この海峡の湯には「井上靖 ゆかりの湯」という湯舟があります。井上さんが執筆した小説「海峡」の一節に「ああ、湯が滲みて来る。本州の、北の果ての海っぱたで、雪降り積る温泉旅館の浴槽に沈んで、俺はいま硫黄の匂いを嗅いでいる」がありまして、この文章はこの「海峡の湯」がある場所に元々あった「長谷旅館」に井上靖さんが滞在して入った「大湯2号泉」の感想だということで、こちらの湯舟も楽しみです。それでは早速入館してみましょう。入浴料は大人・450円で、時間は7時から20時30分(4月から10月まで。11月から3月までは8時から20時30分まで)です。

下風呂温泉海峡の湯

風間浦村(下北郡)

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おお、木の良い香り・ヒバの良い香りですねー。海峡の湯は2020年12月1日に開館しましたので、3年と8ヶ月しかまだ経っていない施設で、とても綺麗ですね。左手が男湯、奥が女湯です。浴場は2つに分かれていて、1つの浴場には「大湯」「新湯」「熱湯」の湯舟があり、もう1つの浴場には「井上靖ゆかりの湯」と「サウナ」があります。先客は5人ほど、皆さん身体を洗われていますので湯舟は誰もいないですな。ということで、まずは「熱湯」にチャレンジです。かけ湯をしますと、熱いですが坪田旅館の熱さに慣れた私には湯舟へ入ることをためらうほどの熱さではありません。ザっと肩まで入って、うーん、いいですねー。香りもいいですねー。続いて新湯ですが、こちらは熱湯よりも熱くありません。少し長めに入ることができます。そして大湯。こちらは熱かったですなー。熱湯よりも熱かった気がします。そして「井上靖ゆかりの湯」です。こちらの湯舟は窓際にあって、湯舟で立ち上がると津軽海峡が見える、そんな湯舟なんですけど、かなり熱い。あまり長くは入ることが出来ません。このあと2階の展示室をみて、それからもう一度お風呂に入りに来たのですが、その時はこの「井上靖ゆかりの湯」がかなりぬるくなっていました。つまり、源泉はどれも熱くて、先客の湯加減でそれぞれの湯舟が熱かったりぬるかったりという具合ですね。

下風呂温泉海峡の湯

風間浦村(下北郡)

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お風呂に入った後は、2階に上がりまして、下風呂ゆかりの文人を訪ねる展示室を見学します。井上靖さんは昭和33年(1958年)3月に小説・海峡の最終章を書くために下北を訪れ下風呂温泉の長谷旅館に宿泊し、その31年後の平成元年(1989年)6月に再び下風呂温泉を訪れて長谷旅館に宿泊し、同年の10月、文学碑(アカエリヒレアシシギ)の除幕式で再び下風呂温泉を訪れ長谷旅館に宿泊したとあります。そしてその長谷旅館の参号室がここに再現されています。

下風呂温泉海峡の湯

風間浦村(下北郡)

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こちらが旧・長谷旅館の参号室を再現した部屋です。欄間や床の間、調度品などは元々の部屋と同じようですし、旧長谷旅館の参号室の写真と見比べてみると、かなりの再現性です。ああ、ここに、井上靖氏がいらっしゃったのかと、しばらく想像の世界を楽しみます。

下風呂温泉海峡の湯

風間浦村(下北郡)

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画像中央右側に再現された長谷旅館の参号室があり、そのほかの空間は井上靖・水上勉・新島襄の展示となっています。飢餓海峡を執筆された水上勉氏にとって、下風呂温泉がある風間浦村は特別な土地であったようですし、同志社を創立した新島襄氏は、21歳である1964年に船でこの下風呂温泉にやってきて、「(略)早々に上陸し温泉に入りましたところ、硫黄と塩分が含まれ、入浴後の心地は実に肩から重い荷物をおろしたようでした」という手紙を父に送っているそうです。展示を閲覧した後に、もう一度お風呂に入りましてから、海峡の湯を辞します。後は一般道を神奈川へ帰りつつ、三沢の航空科学館を見学し、水沢に一泊して毛越寺と鳴子温泉に寄っていきます。

青森県立三沢航空科学館

三沢市

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下風呂温泉から車で約2時間で三沢航空科学館に到着です。三沢基地の戦闘機が爆音をたてて飛んでおりますな。ここに来るのは約6年振り、今日は外の展示から見ていきますか。

青森県立三沢航空科学館

三沢市

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というわけで、さっそくF-104のコックピットに座ります。ここの展示の良い所は、「何か用があったら(聞きたいことがあったら)案内係に声をかけてください」というシステムで、案内係は近くの駐車場に停めた車の中にいるので、「どうぞ座ってくださーい」と声をかけていただくと意に反して尻込みしてしまうようなシャイな私でも、誰の目も気にせずに飛行機に座ることが出来るということですな、ハハハ。そしてこの後、格納庫前からタキシングしていく4機のF-35Aを目撃します。初めて肉眼で見るF-35Aの写真を撮りたかったのですがね、航空館と三沢基地を隔てるフェンスに「ウォーニング・こちらを撮ってはならぬ」という意味の英語の掲示がありまして、これは守らないとマズいことになりそうなので遠慮をします。ちなみに神奈川の或る基地の正門に、うかつにもカメラを向けてファインダーを覗いた人は、そのあと基地から出てきた人々に本気モードで追っかけられたということで、基地開放の時以外は(あるいは基地開放の時も)よくよく気をつけた方が良いと思います。(特に正門・ゲートは撮影禁止ですね) さて、タキシングしていったということは離陸するのだろうということで、しばらく離陸を待って、爆音を立てていかにも第5世代戦闘機というフォルムでシャープに上昇していくF-35Aを見送ってから航空館へ入館です。

青森県立三沢航空科学館

三沢市

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6年前に来た時には十和田湖から引き揚げられた一式双発高等練習機が展示されていたスペースにはホンダジェットが展示されていました。それも「ホンダジェット技術実証機」(ホンダジェットの原型となる最初の実験機)が展示されています。この飛行機はツバサの上にジェットエンジンを置いたという発想が凄いですな。飛行機が飛ぶのは空気という流体の流れに因って発生する揚力を利用するのですが、揚力を発生させるほぼ唯一といっていい「つばさ(特に上面)」には、空気の流れを阻害する物体はできるだけ載せない・付けないというのが小型ジェット機(というか全ての飛行機)の常識かと私は思いますが、主翼上面エンジン配置というのはその常識を覆す奇想天外な発想で、しかもその発想を基に実験機まで作って検証して、今では200機以上の販売実績があるようです。日本の企業が航空機を製造して販売までこぎつけるのが、いかに大変なことかというのはMRJの顛末を例にとっても皆さんよくご存じかと思いますが、このホンダジェットに関していえば日本の航空機産業の成功例の一つと言えるでしょう。なお、以前展示されていた一式双発高等練習機は、製造元の「立川飛行機株式会社」を祖とする「株式会社立飛ホールディングス」(東京都立川市)に譲渡されたそうです。三沢を出発して水沢の「プラザイン水沢」に到着したのは19時ごろ、今晩はホテルでのんびりと休養です。

6日目2024年7月11日(木)

毛越寺

平泉町(西磐井郡)

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プラザイン水沢から毛越寺までは車で30分ほど、毛越寺の開門は8時30分ですのでホテルを8時にチェックアウトして開門から間もないひと気のない毛越寺を拝観します。まずは、お線香を買って炭で火をつけます。これがなかなか難しかったです。(結局、一周まわってきて戻ってきたときに自分の立てたお線香の火が消えかかっていましたので、もう一度、炭に当てて火をつけなおしたりしました)。そして本堂でご本尊の薬師如来に合掌一礼でお参りをします。この本堂は1989年(平成元年)に建てられた堂宇で、御本尊は平安時代後期の作とのことです。

毛越寺浄土庭園

平泉町(西磐井郡)

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本堂右横の南大門跡から「大泉が池」の周りを歩いていきます。毛越寺は850年に開山し、奥州藤原氏によって整備されて壮大な伽藍を持つに至ったのですが、1226年には伽藍の円隆寺・嘉祥寺が焼亡し、1573年には兵火によって観自在王院ほか伽藍を焼失、1597年に常行堂と法華堂が野火のためめに焼失と、長年、礎石だけが残るような遺跡になっていたのですが、伊達藩による遺跡の保護(礎石などの抜き取りの禁止など)を受けて、平安時代末期の伽藍形式を良い状態で遺す遺跡・旧跡として知られています。

毛越寺浄土庭園

平泉町(西磐井郡)

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このあと宝物館に行って、伽伽藍復原図などを観ますと、なるほど、今見てきたところはこういう風になっていたのかというのが判って、とても面白かったですよ。宝物館もおすすめです。さてこの後は栃木県佐野市の「道の駅・どまんなかたぬま」へ向かって走り、夜が更けるのを待ち、夜中の交通量が少なくなったところで南下して神奈川へ帰るつもりですが、その前に、鳴子温泉に寄って行きたいと思います。

滝の湯

大崎市

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そしてやってまいりました、鳴子温泉の共同浴場・滝の湯です。毛越寺からは一般道で1時間40分くらいですね。鳴子温泉には広い無料の駐車場があって、平日であれば多分、車を停めるのは難しくないと思います。入浴料は300円、脱衣所があって湯舟は2つ、手前は熱くて奥はぬるい。白濁した硫黄泉の良いお湯ですな。樋が4本、湯舟の上を通っていて、1本は洗い場の石でできた手水鉢へ、1本は熱い湯舟へ、あとの2本はぬるい湯の湯舟へと導かれ、湯舟にかかる樋から滝のように湯が降り注ぐという具合、これは確かに滝の湯でございますな。熱い湯は熱いけれども長く入っていられる熱さで、ぬるい方はこれはもうずっと入っていられそうなぬるさです。ただしぬる湯の湯舟は深さがあり、白濁していて底が見えないため、不案内な高齢者が入るときは気をつけないといけないと思いました。片足ずつで湯舟へ入っていくと、底に足がなかなかつかないのでバランスを崩しやすいかもしれません。少し長めに初めての鳴子温泉を楽しんで滝の湯を辞します。

鳴子温泉

大崎市

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昼時の鳴子の温泉街は昔の温泉街の雰囲気を漂わせながら実に静かでとても良いですな。この温泉地を目的地にして泊まりに来たいなぁと思いました。

鳴子温泉 足湯 下地獄源泉

大崎市

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駐車場に戻って足湯に浸かります。熱めの足湯に浸かりながら冷たいコーラは最高にウマいですな。ああ、満足。あとはのんびりとドライブしながら神奈川へ帰るだけ。そんな気持ちで鳴子温泉から国道に出たときに、車が故障するというアクシデントに見舞われまして、近くの大崎までレッカー車で運んでもらい、車をみてもらうと部品交換で修理できるということで、大崎で1泊して車が直るのを待って帰ってきました。車の故障はアクシデントでしたが、天気が悪くなかったとか、車を停めておくスペースがあったとか、故障したのが昼間だったとか、時間的な縛りが一番無い時だったとか、出会った人々が皆さんとても親切だったとか、部品の交換だけで済んだとか、いろいろな幸運が重なって無事に神奈川へ帰ることが出来ました。今回も自分の内面と対話する良い旅行ができたと思いました。災害からの復興途中にある三陸を訪ねることができましたし、下北半島はさらに遠いですけれども、人の密度の薄さがとても魅力的な土地です。また行きたいなぁと思っています。

【三陸から下北へ】三陸海岸から尻屋崎・大間崎を巡り下風呂温泉に泊まる【2024年7月】

1日目の旅ルート

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