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野の花 焼山荘 のお知らせ・ブログ
ちょっと寄りC〜乙女の像 高村光太郎に決定する過程
更新 : 2014/6/19 8:43
昭和25年12月青森県では津島文治知事(太宰治の長兄)のもと、国立公園指定15周年記念事業の記念碑建立について話し合いがもたれていた。
その半年後、三本木高校の校歌を作詞した佐藤春夫は同校の校歌発表会に参列した。
弟の太宰治が佐藤氏に大変世話になっていることを承知していた津島文治は、公用車に運転手をつけ恐山や種差など県内の観光地をくまなく案内。
同行した観光課長がその記念事業のことを説明している。佐藤は初めて十和田湖・奥入瀬をめぐり奥入瀬の清冽な流れの印象を後日「奥入瀬渓谷の賦」として発表した。
また同時期に、青森県庁設計を依頼された東京工業大学教授・谷口吉郎博士に、十和田湖を案内した観光課長が記念碑の事を話していた。
偶然にも佐藤、谷口両氏の意見が
「観音様などではなく、むしろ景観からみてもっと象徴的なもののほうが・・・」
と同じであったことを受けて県は
「記念碑として十和田湖の景観にふさわしいものを」と案を変更した。
事業の筋が見えてきたところで、新たな問題が浮かび上がった。製作者の問題である。
再度佐藤春夫に意見を求めたところ「岩手県太田村山口の山荘にいる高村光太郎に依頼する」という回答を得た。
前回ご紹介した歌人文人でもあった横山武夫副知事は、高村光太郎の世界から生まれる詩歌作品が基調となり、彫刻制作を続けていたと認識していたと考えられる。
佐藤春夫からの推薦もあり、高村光太郎へ制作をお願いすることになったのである。
高村光太郎に依頼するにも、山がもう1つあった。
高村は太平洋戦争中、日本人として愛国的な詩や文章を発表したことへの反省として山荘暮らしをして公の場に出ることを自戒していた。独居生活をおくり、健康上、作品作りに耐えられそうも無い様子が伺えるほどであったという。
この後、まさしく三顧の礼というほどの尊敬・情熱が、高村の心を大きく動かしていくことになる。
*乙女の像の建立の歴史は、「十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会」の研究発表から抜粋引用し構成しています。
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