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江姫 ゆかりの地 3 小谷城石垣の名残り
更新 : 2010/6/6 17:19
本丸跡に至る道には、僅かに石垣が残されている。
「破城」という言葉がある。
今後城として機能できないように既存の城の機能を徹底的に破壊する行為を「破城」と言うのだそうだ。堅牢不落を誇った小谷城の石垣が現在ほとんど残されていないのは、小谷城の征服者である羽柴秀吉らによって小谷城が破城に遭ったことを如実に物語っている。
石垣の大部分は失われてしまったが、一段高くなっている本丸の斜面には、細かい石を自然な感じで積み上げた野面積みの石垣の一部を今でも確かめることができる。小谷城に残る数少ない当時の城郭の面影である。今では石と石の間から草が生え、すっかり周囲の自然に溶け込んでしまっているのが余計にうら悲しい。
説明板によると、この小谷城本丸に建立されていた天守が、後に移築されて彦根城西の丸の三重櫓になっているという。戦時用に建てられた小谷城の天守は、後の江戸時代の城の天守のように壮麗な造りではなかったと言われている。それに、落城の際に火を放たれた可能性も高く、果たして説明板の記載が正しいかどうかは私にはわからない。
いずれにしても、信長軍の攻撃を受けた浅井長政は、最後までこの本丸で全軍への指揮を執り、最後は先程訪れた赤尾屋敷にて自刃したと伝えられている。今では木々が疎らに立ち並ぶやや広い平坦地に、当時は敵味方が入り乱れ、阿鼻叫喚の地獄模様が繰り展げられたものと想像される。
普通の城は本丸が一番の高所にあり、本丸が防御の最後の拠り所となるのだが、小谷城の本丸は最高所にはない。さらにその向こう側に、大きな堀切(1)を経て、中の丸、京極丸、小丸、山王丸と曲輪が連なっていく。
小丸には長政の父の久政が居住していて、本丸の長政と小丸の久政とで、堀切に迷い込んだ敵方を挟撃する防御戦術を採ろうとしていたものと思われる。
一方で、本丸と中の丸との間に存在する大規模なこの堀切は、本丸と小丸方面とを分断してしまう意味において、小谷城の弱点にもなり得た。小谷城の縄張りを深く研究した秀吉は、小谷城攻めに際してこの弱点を鋭く突いてきた。
中の丸には、刀洗池と呼ばれる池(の跡)がある。また、中の丸の西側を下った場所に位置する曲輪は、お局屋敷跡と呼ばれている。お市の方や三人の姫たちもこの曲輪に住まわっていたようなことが書かれている。
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