宿番号:340781
リブマックスリゾート安芸宮島のお知らせ・ブログ
豊臣秀吉と宮島 「宮島を見下ろす千畳閣」
更新 : 2020/9/16 10:48
皆様こんにちは。
8月30日より、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放送が再開されました♪
コロナ禍で撮影中断の影響を受けて、本編も約3か月間休止されていましたが、楽しみです。
今回は大河ドラマの主人公・明智光秀、ではなく、そのライバル豊臣秀吉(木下藤吉郎→羽柴秀吉。以後、豊臣秀吉、秀吉で統一)のお話しです 笑
豊臣秀吉は言わずと知れた、織田信長や徳川家康に並ぶ戦国三英傑の一人。
百姓の家に生まれながら、持ち前の器量と才覚でどんどん頭角を現し、遂に戦国の強豪を従えて天下を統一した、「ザ・ジャパニーズドリーム」な偉人です。
豊臣秀吉と宮島との関りは、今から433年前の1587年(天正15年)。広島を中心に中国地方を支配していた毛利輝元の家臣・安国寺恵瓊に、宮島に大経堂を建立するよう命じた事に始まります。
5年前の1582年、豊臣秀吉は本能寺の変後の山崎の戦いで明智光秀を倒し、柴田勝家や徳川家康などの強力な大名も次々に倒すか従えて、勢力を伸ばします。毛利輝元も従った一人です。
更に秀吉は、1585年には関白、翌1586年には最高位である太政大臣に任官されます。
まだ抵抗勢力はありましたが、名実ともに位人臣を極めたと言えます。
その秀吉が命じて宮島に建立したのが、現在の「千畳閣」です。
千畳というだけに、畳が857枚敷ける広さ!!
これだけ巨大な建物を、宮島の丘の上に作るのですから、相当な労力と資金が必要です。一説には、大名の石高並みの約1万石。時価にして7億もの予算が投入されたとか!!
また、瓦には「王」の文字があしらわれ、金箔が用いられました。
この時代は秀吉に習い、多くの城郭に金箔を用いた瓦が使われました。秀吉ゆかりの大坂城、聚楽第は勿論、4年後に築城の広島城も例外ではありません。
天下統一を果たした豊臣秀吉ですが、千畳閣の完成を見ずに、1598年に62歳でこの世を去ります。いつの頃からか工事は中止され、千畳閣は未完成のまま後世に残ります。
何故秀吉は、千畳閣を建てたのでしょう?
ここからは、平清盛が改修した厳島神社が見下ろせます。また大野瀬戸の海や対岸も見通せます。秀吉自らの権勢を誇るには、絶好の場所かもしれません。
秀吉の死後、豊臣家は衰退し、17年後に徳川幕府に滅ぼされます。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな」
今わの際にそう詠んだ秀吉の、「夢のまた夢」が、ここ宮島にもあるのです。
千畳閣の入口にあるご由緒です。
大人100円、小中学生50円とリーズナブルな入館料が魅力です。
入口にある袋に靴を入れて上がります。
公開時間は、8:30〜16:30です。
畳千畳分がこんなにも広いとは!
未完成ではありますが、吹き抜けと天井がとても開放感に溢れています!
さっきと逆の角度から。
ここで風の匂いや草花の色を感じながら、物思いにふけって時が流れるのを楽しむのも、いいかも知れないですね。
隣の五重塔は、室町時代の1407年に建立された、千畳閣の先輩。
高さは27.6mです。
五重塔があるので、この辺りは「塔の岡」と呼ばれ、1555年の厳島の戦いでは、陶晴賢の本陣になりました。千畳閣の建築が始まる約30年前の出来事です。
今では厳島神社末社・豊國神社(千畳閣)の一部となっています。
直下には厳島神社が、まるで鳥瞰図のように見通せます。
厳島神社は平安末期の覇者・平清盛が改修した社です。
平清盛は、太政大臣にはなりましたが、関白にはなっていません。
そもそも武家で関白に任命されたのは、秀吉と養子の秀次の二人だけ。
秀吉の心の内が透けて見えるような・・・
こちらはJRフェリー船上から厳島神社方面の画像です。
左手の丘に、千畳閣(右)と五重塔(左)が見えます。
遠くからも目立つ千畳閣の巨大さは今でも際立ちます。
大鳥居も五重塔も小さく見え、建てた秀吉の財力と権力の大きさが伺えます。
2月に新しくオープンした宮島口旅客ターミナルは、この千畳閣がモデルです。
千畳閣の正式名称は「豊國神社」(「とよくに」または「ほうこく」と読みます)です。
その名の通り、豊臣秀吉を祀った社です。
千畳閣の広間の中に、大きな祭壇あります。
因みに、宮島から東に約20km離れた広島市内には、秀吉のライバルで同じ戦国三英傑の一人、徳川家康を祀った「東照宮」(広島東照宮)があります。
関連する周辺観光情報
他のホテルを探す場合はこちら
近隣駅・空港からホテルを探す
広電宮島口駅 | 宮島ボートレース場駅 | 宮島口駅 | 阿品駅 | 阿品東駅