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厳島合戦@ 「なぜ、宮島(厳島)が戦場に?」
更新 : 2020/9/24 23:51
皆様こんにちは。
宮島のフェリーターミナルを出て直ぐの公園の中に、「厳島の戦い」の看板があります。
神の島、宮島で戦争とは穏やかではありませんが、戦いの経緯を紐解けば、宮島のもう一つの顔が見えてきます。(便宜上、宮島の呼称も使用します)
厳島の戦いが行われたのは、今から465年前の1555年10月1日です。
当時中国地方の大部分を収めていた山口の大名・陶晴賢と、地元安芸(広島県西部の旧国名)の領主・毛利元就との戦いです。
しかし、山口と広島は地続きです。なぜわざわざ宮島(厳島)に渡って戦争したのでしょうか?
毛利元就が安芸(広島県の西半分)を収めていたのに対し、陶は今の山口県を中心に、中国地方の西半分と、九州の一部を勢力下にしていました。
動員兵力は、毛利が4,000名程だったのに対し、陶は2万〜3万といわれ(諸説あります)、毛利はおよそ7倍の敵と対峙する事になります。
ですが、そこは日本を代表する智将・毛利元就。
人数のハンデを克服するため、陶の大軍を宮島におびき寄せる事にします。
まず宮島を占領して、「宮尾城」という小さな城を作り、500名程の軍勢を入れます。
そしてわざわざ陶晴賢に伝わるように、「宮島に城を作ったのは失敗だった」「今攻められたら毛利は終わりだ」とネガティブ情報をたれ流します。
極めつけは、家来の一人をわざと陶に裏切らせ、毛利と宮島で戦っている間に背後をつくと約束させます。まんまと引っかかった陶晴賢は、2万の兵で宮島に上陸した。というわけです。
しかし近年、実は陶晴賢の方が積極的に宮島に渡ったという説もあります。
当時、この付近の移動は「船」が主役でした。瀬戸内海を縦横無尽に貿易船や軍船が行き来しています。
この頃瀬戸内海で海賊が勢力を伸ばしていたのも、海上交通の安全を保障する代わりに通行税を徴収していた為です。
陶の前身大内軍も、戦争のたびに軍船で移動しており、その際に宮島に寄港しています。
また陶晴賢自身も、毛利元就の本拠地が敵に責められたときに、援軍として宮島に立ち寄っています。
当時の宮島は、この地域を代表する軍事・経済の拠点であり、重要な港町だったのです。
陶が毛利から宮島(厳島)取り返そうとしたのも、自然な流れと言えます。
とはいえ、比較にならない小勢の毛利が、なぜ陶晴賢の大軍に勝ったのか?
謎は深まりますが、続きはまた次回!
宮島桟橋直ぐにある「宮尾城」跡。
今は要害山と呼ばれ、桜の名所として知られています。
ここに毛利元就が城を作って陶軍をおびき寄せたと言われてますが、宮尾城自体は厳島の戦いの以前から存在しており、宮島が当時の要衝であったことが伺えます。
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