☆大日如来座像2体☆
更新 : 2011/10/10 10:46
菰野町の価値ある史跡・文化財をご紹介します。
今回は『大日如来座像2体』です。
金剛界大日如来像は文明11年(1479)。胎蔵界大日如来像は文明 13年(1481)と、胎内墨書があって2体とも室町後期の作です。
その後、江戸期の正保4年(1647)に京都の仏師安村伊右衛門の手により修復されました。
戦後の昭和28年に奈良の仏師太田古朴に修補を依頼。
このとき胎内墨書が発見されました。
大日如来は普通頭に宝冠を戴き、紺髪を肩にたれ、ヨウラク、腕釧、天衣を身につけた菩薩の姿をとっています。
この大日如来像は宝冠もつけず一切の装飾をはぶき、白木造りの像容の身に納衣と裳をっけただけの姿です。
尊像全体から簡素の中にも清楚な美しが感ぜられ、背後の光背は円光で、紺の彩色が施されています。
右が胎蔵界、法界定印(結跏跌坐の膝の上に左掌を仰むけておき、 その上に右掌をかさね親指の先を合せささえる)を結ぶ、 左は金剛界で智挙印(胸の前にあげてのばした左掌の人差指を右の掌をもって握る)を結ぶ2体を安置しています。
この大日堂は大平山松樹院と称して、 もとは願行寺の門前の小堂に安置されていたのを幕末の頃、 五百羅漢を建立した照空上人(神瑞和尚)によりこの地へ移されました。
明治の頃は2体の大日如来を安置するだけの小堂であり大正6年、 鈴木又市が田口新田の真願寺の旧堂を移築して現在に至ります。
この竹成は朝明川の右岸に位置して、 往古は杉谷、榊あたりと一帯の仏教文化圏に属していたものと思われます。
四日市市南富田善教寺にある重文の「阿弥陀如来胎内文書」の藤原実重が記した作善日誌によると 「嘉禎4年(1238)米2斗2升竹成御料にたてはしむ」とあって、鎌倉中期頃に竹成に仏堂が存在し、その供物に米が寄進されています。
中世鎌倉、室町時代には、この大日如来を中心として栄えたときがあったようです。
一度、足を運ばれてみてはいかがですか?
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