旧崇廣堂
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旧崇廣堂の口コミ一覧
1 - 4件 (全4件中)
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- カップル・夫婦
かつての藤堂藩の藩校で、伊賀上野城内だった場所にあります。正しくは、藤堂藩の本拠地・津城にあった藩校・有造館の分校(支校)が崇廣堂です。伊賀上野城は、城としては津城以上の威容を備えていたので、崇廣堂も分校であっても立派なものでした。伊賀・大和・山城に点在した領地に住んでいた藩士の子弟を教育するための機関でした。
城下町からは少し離れていますので、私たちはスタンプラリーの最終地点にしました。
講堂に架かっている扁額「崇廣堂」は、かの米沢藩主・上杉鷹山が記したものです。- 行った時期:2019年2月24日
- 投稿日:2019年3月1日
この口コミは参考になりましたか?2はい -
- カップル・夫婦
藩校だった建物の中で、現在でも往時の姿形を留めていて、国の史跡に指定されている例は珍しいそうです。
写真の右側が崇廣堂、左側が「文場」です。崇廣堂を学校の体育館に例えるなら、「文場」は授業用校舎だった建物です。
「伊賀上野 城下町のおひなさん」イベントに因んだ展示は、「文場」の広間で行われていました。- 行った時期:2019年2月24日
- 投稿日:2019年3月1日
この口コミは参考になりましたか?2はい -
- 一人
伊賀上野城のすぐ近くにあります。
1821年、伊勢津藩十代藩主・藤堂高兌(とうどう たかさわ)が、伊賀・大和・山城の領地に住む藩士の子弟を教育するため、創建しております。
72枚の畳が敷かれた広間型講堂は、創建当時の姿を、今に残しています。
江戸時代の藩校としては、全国的にも、珍しく、余り、残っていません。
門は、弁柄(べんがら)塗りで、赤いことから「赤門」の愛称で呼ばれています。
通用門として利用されていたとか・・・。- 行った時期:2016年11月29日
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2017年10月20日
神社ツウ vmisfさん 男性/60代
この口コミは参考になりましたか?0はい -
- カップル・夫婦
津藩の藩校「有造館」の支校として、伊賀地方の藩士の子息を教育するために設立されました。現在も地域の便か啓蒙の場として講話会やコンサートなどに活用されています。隣には貴重な当時の教育の資料も展示されています。講堂は創建当時のままほぼ残っており貴重な建物となています。- 行った時期:2013年10月22日
- 混雑具合:やや空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2016年11月20日
この口コミは参考になりましたか?0はい