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こぼらさんの鳥取県の旅行記

鳥取めぐり旅@ 鳥取城跡

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2泊3日で鳥取めぐりの旅をしました。初日は、砂丘=「すなば」とコーヒー店「スタバ」とをもじったネーミングで有名になった「すなば珈琲」にまっ先に寄りました。そこで喉を潤してから、鳥取城跡と仁風閣を中心に、久松公園を見て回りました。鳥取城は、姫路城を築いた池田氏が移封されてきた後は、32万石の鳥取藩の本拠地でした。大藩の政庁があっただけに、威容を誇る城跡です。明治になって、池田氏が城跡に造った御殿・仁風閣も素晴らしいです。 宿はコスパが高いことで定評のある「スーパーホテル鳥取駅北口」を利用しました。大浴場を備え、運び湯ではあるものの三朝温泉の本物の温泉湯が楽しめました。

三重ツウ こぼらさん 男性 / 60代

1日目2020年6月20日(土)

すなば珈琲 “新”鳥取駅前店

鳥取市

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鳥取市に到着したら、まずは鳥取駅前の「すなば珈琲 新鳥取駅前店」に行って喉を潤すことに決めていました。店は、JR鳥取駅の駅前通り沿いにあります。専用駐車場はないと聞いていたので、駅前の有料駐車場に駐めました。 駅前から通りを見渡しても看板が見えず、駅の観光案内所で場所を教えてもらい行きました。駅前通りを歩いて行くと、ビルの1階に看板が出ていますが、店舗は半地下にあるように見えます。どこから入るのか一瞬戸惑いますが、店の入口には階段を下りて進みます。

階段を下りていくと店の入口がありました。右にテイクアウト用窓口もありました。 駱駝が心地よさそうに珈琲の香りをかいでいる姿のトレードマークが良い感じ。

すなば珈琲 “新”鳥取駅前店

鳥取市

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何年か前まで、鳥取には砂丘=「すなば」はあっても珈琲店「スタバ」はありませんでした。これを逆手にとって、オリジナリティあふれる珈琲店「すなば珈琲」が誕生したと鳥取県知事がPRしたので、全国に知られるようになったのです。 わざとやっているのでしょうが、1980年代風で懐かしさを感じる内装に加え、チェアに被せてある赤いクロスが野暮ったいというか田舎っぽくて、実に面白い。 対して店員さんは時節柄マスクをしていましたが、すまし顔でクールに接客しているように見え、そのアンバランスが可笑しかった。鳥取県知事のPRが上手だったということでしょう。

素朴で田舎っぽい雰囲気には似合わないような、タブレットPCによるオーダーシステム。店の入口にポスターが貼ってあったので気になっていた「すなばのコッペパン」のページを開いて、どれにしようか思案しました。

学校給食を思い出す「懐かしの揚げパン(カレー粉)」とホットコーヒーのセット。 揚げたコッペパンの表面にカレー粉がまぶしてあるだけなのですが、スナック菓子的な食感で、なかなかイケました。気持ちだけ付いてきたフライドポテトとの相性も良かった。 こういうメニューは「すなば珈琲」ならではです。

駅前通りの歩道を歩いていると、こんなにカラフルな仕切弁の蓋を見つけました。 「因幡の傘踊り」の傘が描かれています。傘踊りは、写真でしか見た事がありませんが、鳥取の名物行事だったのですね。 他にもマンホールや消火栓・止水栓など、カラフルに傘の絵が描かれた大小様々な蓋を見かけました。

箕浦家武家門

鳥取市

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鳥取県庁に観光用無料駐車場があったので、そこに車を駐めて鳥取城跡に向かう事にしました。県庁の向かいに県立図書館があり、その一角に箕浦家武家門が復元されていました。城の一部のように立派な造りなので、箕浦家は相当に地位が高い武門だったのでしょう。 鳥取市街地には、この武家門と城跡以外に、かつて城下町であった事を物語る遺構はないそうです。

箕浦家武家門の内側の様子。県立図書館側から外を見ています。 城の門と言われれば信じてしまいそうな、一武家の構えとは思えない重厚な造りの門です。箕浦家は石高が2000石もあったそうで、家老・重臣クラスだったのでしょう。

久松山

鳥取市

「久松山」を   >

県庁前から鳥取城跡の方へ歩きます。標高263メートルの久松山を背後に、城の堀と石垣が見えてきました。久松山の頂上付近にも石垣が見えます。 鳥取城は、山頂付近の山上の丸と、山麓にある天球丸・二の丸・三の丸などで構成される平山城部分からなる大きな城郭でした。いわば、山全体が鳥取城だったのです。 堀に吉川経家の銅像が立っています。

銅像の前には橋があり、堀を渡って近付く事ができます。解説を見ると吉川経家の銅像でした。吉川といえば毛利家の一門として有名ですね。 いっぽう鳥取城といえば、因幡・伯耆の2国を領有し32万石の石高を誇った鳥取藩の本拠地というイメージがあります。でも、それは江戸時代の話で、戦国時代は山名・尼子・毛利が三つ巴で城を奪い合い、最後は豊臣秀吉による中国攻めの激戦地となりました。その時、決死の守備隊長として毛利が送り込んだ知将が吉川経家でした。

吉川経家銅像

鳥取市

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秀吉は鳥取城を2回にわたり兵糧攻めにしていますが、2回目の兵糧攻めは凄惨と表現されるほど徹底していました。守備する鳥取城内は飢餓状態に陥り、餓死者が相次ぐ惨状となりました。吉川経家は、自身と主戦派家臣団の命と引き替えに開城して、城に立て籠もっていた兵と領民を救いました。 鳥取城跡の傍らに建立された銅像が、攻め手であり戦国のスーパースターでもある秀吉や黒田官兵衛ではなく、吉川経家の像である事は、鳥取や山陰地方の人たちにとっての英雄とは誰なのかを物語っています。

鳥取城跡

鳥取市

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吉川経家銅像の前を通り過ぎると、鳥取城跡周辺の主立った遺構や建物が見えてきました。手前の石垣が中ノ御門跡、その中央右の瓦葺き屋根が宝扇庵(茶庵)、左奥の白亜の建物が仁風閣です。右上の高い石垣は、天守のように見なされてきた三階櫓跡です。鳥取城跡は、堀の外側・南西方向から見るのがベストアングルだと思います。

堀を渡って中ノ御門跡に行ける擬宝珠橋(ぎぼしばし)です。奥に天球丸や二の丸の石垣が見えています。このあたりは鳥取城の正面玄関だった場所で、擬宝珠橋と中ノ御門跡の石垣は最近復元されたそうです。 鳥取城跡だけを訪れるなら、擬宝珠橋を渡って登城路に進むのが定石らしいのですが、この時は中ノ御門跡付近の復元工事がされていて通れませんでした。仕方なく、擬宝珠橋を通り過ごして北に進み、北ノ御門跡から城跡に入ることにしました。

久松公園

鳥取市

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北ノ御門跡に向かう宝珠橋の袂です。宝珠橋で堀を渡って久松公園に入ります。久松公園とは、敷地内に久松山や鳥取城跡、仁風閣・県立博物館を有する広大な公園です。 宝珠橋を渡り奥に進むと石垣に突き当たりますが、その右手に西坂下御門があり、そこから城跡に入って行けます。西坂下御門の手前に仁風閣入口が、その通り向かいに県立博物館があります。

岡野貞一音楽碑

鳥取市

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文部省唱歌「ふるさと」の譜面と歌詞が刻まれた音楽碑です。久松公園への入口である宝珠橋の袂(堀の外側)にあります。 「ふるさと」は、日本人なら知らない者はいないのではと思うくらいに有名です。でも、この名曲を作曲したのは鳥取市出身の音楽家・岡野貞一氏である事までは知りませんでした。

岡野貞一音楽碑

鳥取市

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音楽碑の横には、無料で利用できるジュークボックスのような装置が置かれています。さだまさし氏や由紀さおり・安田祥子姉妹などの一流アーティストや合唱団が歌う8種類の「ふるさと」をボタンで選んで聴けます。 城跡へ向かう時に、さだまさし氏の歌を選び、美しい歌声を聞きながら城内散策に出かけました。帰りにも寄って、次は由紀さおり・安田祥子姉妹の歌声を聞こうと思っていました。しかし、すでに誰かが少年少女合唱団によるコーラス版を選び再生中でした。子供たちの美しく澄んだ歌声に魅了されましたが、ジャズ調コーラスのアドリブが凝っているうえに長いのです。しばらく待っていましたが終わりそうにないので、帰途に就きました。8曲すべてを聴くと1時間以上かかりそうでした。

久松公園

鳥取市

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北ノ御門跡に向かう宝珠橋の袂から堀を見ています。とても広い堀に整然と切り立つ石垣が見事に復元されていて、素晴らしい景観を形作っています。 奥に見えている橋は、先ほど見ていた中ノ御門跡に連絡する擬宝珠橋です。

鳥取城跡

鳥取市

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宝珠橋を渡りまっすぐ歩くと、石垣に突き当たります。右手に西坂下御門がありますが、鳥取城跡の中で唯一の城郭建築物です。他は全て石垣と広場と堀です。 城跡には、この門をくぐって行く事もできますし、隣にある仁風閣の敷地から進む事もできます。 西坂下御門は、江戸時代の最末期の1867年に築かれました。1975年の台風によって倒壊したので、今の門に復元修復されたとのことです。

国指定重要文化財 仁風閣・宝扇庵

鳥取市

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西坂下御門の右手に立派な洋風門扉があり、奥に広大な芝生広場を備えた西洋風大邸宅が見えます。明治40年、東宮の嘉仁親王が鳥取を行啓された時に、御宿所となった仁風閣です。国指定重要文化財です。 かつて鳥取藩主であった池田家の16代当主で侯爵の池田仲博が、東宮の御宿所として建てました。明治40年5月より、嘉仁親王は沖縄を除いた全ての府県を行啓されましたが、その最初の訪問先が鳥取でした。鳥取や池田家の意気込みたるや、いかばかりだったでしょう。 仁風閣の敷地は、仁風閣の裏側にある宝隆院庭園も含めて、自由に出入りできます。仁風閣に入館するには観覧料150円が必要です。

仁風閣の一番の見どころは、1階の随員控室だった部屋と、2階の東宮の御座所(居間)だった部屋です。写真は随員控室だった部屋です。 東宮が居られた時は、仁風閣を訪れた貴賓者は、まずは侍従長のいる随員控室に通されたはずです。

1階・随員控室の出窓。重厚なソファにかけながら宝隆院庭園を見下ろす事ができます。庭園については後で説明します。

角尖塔の1階の様子。支柱が用いられず、素材のケヤキ厚板だけで支えられている螺旋階段が特徴的です。仁風閣が重要文化財に指定されている理由のひとつです。 今でも1名2名が上り下りできるだけの強度はあるのでしょうが、階段エリアは立ち入り禁止になっています。大勢が乗って壊れでもしたら大変ですからね。

これは、2階から見下ろした螺旋階段です。曲線・曲面が美しいです。

2階・謁見の間の様子。御座所の隣ですから、この部屋に通されたのは、とても高貴な人に限られたことでしょう。

国指定重要文化財 仁風閣・宝扇庵

鳥取市

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2階の御座所。仁風閣の中で一番豪華なしつらえの部屋で、東宮の嘉仁親王(後の大正天皇)が鳥取を行啓された時に、御座所(居間)として用いられました。 このため、この部屋だけは入場者は立ち入る事ができず、部屋の様子は出入り口やバルコニー側の掃出窓の外から見るようになっています。

手前の椅子と奥の寝椅子には、漆塗に菊花の蒔絵仕上げがされているそうなのですが、遠目では詳細が見えません。左に見えるマントルピースは、イタリア産の黒大理石で作られており、当時の一流職人が手がけたタイル装飾が施されているそうです。

バルコニー側の窓から、マントルピースに施されているタイル飾りを見る事ができます。右に王子像、左に王女像が配されています。横顔が描かれていました。 このタイル飾りは、アメリカの一流職人アイザック・ブルームが手がけたと解説されていました。

御座所がある2階の外側廊下。とても明るい屋根・窓付きのベランダとも言えるのかもしれません。 この廊下で御座所と謁見の間とはつながっていますが、ここを通ることができたのは、東宮と一部の随員だけだったと思います。 東宮は、ここに立って宝隆院庭園で披露された舞をご覧になったといいます。

国指定重要文化財 仁風閣・宝扇庵

鳥取市

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仁風閣は裏側から見ても美しい。1階にテラスが設けられ、2階にはテラスとイメージが合うように廊下が設けられています。1階からも2階からも宝隆院庭園が見渡せるようになっています。 設計者は、1階と2階を揃いのテラス形状にしたかったのかもしれませんが、御座所の警護を考えて窓付き廊下にしたのだと思います。でも、2階の外見に瀟洒な雰囲気を与えることに成功しています。 左側に見える角尖塔は、表側から見ると目立ちませんが、裏側から見ると存在感があります。角尖塔の中は、支柱を用いていない螺旋階段になっています。

宝隆院庭園

鳥取市

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仁風閣の裏側にある庭園は宝隆院庭園といいます。白亜の洋館の庭に、宝隆院庭園という日本的な名前が付いているのは不思議ですが、もともとは江戸時代末期に造られた大名庭園だったからです。 その後、明治40年に敷地内にルネッサンス様式を基調とした仁風閣が造られました。このため庭園は、和洋風の二つの表情を持っています。 写真は仁風閣2階のバルコニーから見下ろした宝隆院庭園です。手前は屋外パーティが似合いそうな芝生広場であるのに対し、奥は中島を有する池泉回遊式庭園になっているのが観察できます。

宝隆院庭園の池に浮かぶ中島から仁風閣を見ています。 これまで池泉回遊式庭園に行けば、背景に古刹の本堂や敷き紅葉がある情景を見るのが常でした。ここでは、庭園の向こうに白亜の洋館と芝生の緑が見えるので、何か面食らったような感じがしました。

宝隆院庭園から仁風閣の裏側を見ています。南北戦争の頃のアメリカ南部の豪邸とイメージが重なります。といっても当時のアメリカを知っているはずもなく、昔の映画「風と共に去りぬ」に登場していた豪邸に似ていると思っただけですが。

鳥取城跡

鳥取市

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仁風閣の庭園からは、かつて二の丸の三階櫓がそびえ立っていた石垣が見えます。庭園から石垣の方へ行く事もできますが、仁風閣の閉館時刻に合わせて通路ゲートが閉じられます。午後5時以降は仁風閣の敷地に戻れなくなりますので、注意が必要です。 鳥取城跡は、天守や櫓などの建物はほとんど見当たりませんが、石垣の復元修復は徹底していて目を見張るものがあります。

仁風閣庭園から二の丸の石垣の真下へ上ってきたところです。西坂下御門に通じる城跡散策路と合流していました。石段で二の丸に上がります。

三階櫓石垣の角に手水鉢が組み込まれている「お左近(おさご)の手水鉢」。三階櫓の石垣を構築するのは難工事だったようですが、藩主奥方の侍女・お左近が提供した手水鉢を石垣に組み込んだところ無事完工できたという言い伝えがあります。 そういえば姫路城にも、貧しい老婆が石臼を提供して、秀吉による築城工事促進に一役買ったという「姥ヶ石」があったのを思い出しました。

二の丸跡の中では、三階櫓跡が最も高い場所になり、その上に立つと二の丸や鳥取市街地が一望できます。 写真は、手前の石段が先ほど上ってきた裏御門跡で、その奥にある石垣が角櫓跡です。それにしても、石垣が整然と修復・復元されているものだと思います。

久松公園

鳥取市

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三階櫓跡から西を見ています。手前に見えているのが仁風閣と玄関側庭園。その奥に見えている芝生広場には、かつて米蔵が建ち並んでいたようです。さらに奥に見えているのが鳥取市街地です。

三階櫓跡からは仁風閣を見下ろす事ができ、屋根の様子が観察できます。赤レンガでできた煙突の数が多いのに驚きます。そういえば仁風閣内にあった部屋には、ほぼ全てに豪華なマントルピースで飾られた暖炉が備わっていました。 全ての暖炉に火が入れられたら、どれだけ煙が立ち上ったのでしょうね?

鳥取城 天球丸跡

鳥取市

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二の丸の表御門跡から天球丸跡を見ています。高さ50m近くありそうな杉の巨木が小さく見えてしまう位に、高低落差の大きな石垣です。 天球丸は二の丸よりも高い位置にあり、平山城部分では最も高い場所となります。天球丸とは珍しい名前ですが、これは池田恒興の三男で初代鳥取藩主となった池田長吉の姉が天球院と呼ばれ、ここに起居していた事に由来します。池田長吉は、鳥取藩を6万石で興し、天球丸のあたりに近世的な鳥取城の原型を築いたのです。 32万石の大藩の城としての歴史は、池田恒興の次男・池田輝正の孫・光正が姫路藩から移封されてきて、二の丸を中心に始まりました。天球丸も二の丸も、いずれを築いたのも池田恒興の子孫というのが興味深いです。

天球丸の石垣から二の丸・表御門跡付近を見ています。登城路は、写真右の表御門跡を通って二の丸の中に続く様子が観察できます。 二の丸には藩主の御殿が置かれていました。登城路の勾配は大きく、藩主が出入りする時は苦労したろうと思います。

鳥取城 天球丸跡

鳥取市

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天球丸は、巻石垣と呼ばれる球面状の石垣を備えているのが特徴です。巻石垣は最近復元されたものですが、球面のようにラウンドした石垣は珍しいですし、初めて見たこともあり、とても興味を持ちました。

鳥取城 天球丸跡

鳥取市

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天球丸の下にある楯蔵跡から巻石垣を見上げています。色合といい形といい、スズメバチの巣に似ていると思います。他では見られないユニークな構造です。 天球丸という固有名詞を最初に聞いた時、その字面から、この巻石垣を指していると思っていました。天球丸の石垣のうち、変わった形のものを巻石垣と呼ぶのです。

天球丸の石垣から巻石垣を見下ろしています。巻石垣は、ほぼ直立に近い石垣にもたれかかっているようです。 19世紀初め、写真手前の石垣が外側に孕み出し始め、崩壊する可能性が生じました。補強のために石を追加して積み上げたのが巻石垣です。屹立して攻め手を寄せ付けにくい石垣の利点が損なわれましたが、19世紀の城は政庁ではあっても要塞ではなくなっていましたから問題なかったのでしょう。

天球丸から南を見ています。鳥取の市街地がよく見えます。 手前から鳥取西高等学校・鳥取市武道館・県庁が見えています。さらに奥に見えている山々は八頭町あたりになります。

天然温泉 因幡の湯 スーパーホテル鳥取駅北口

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客室のドアはオートロックで、鍵穴がない代わりにテンキーがあり、暗証番号で解錠する仕組みです。無駄がなくて、いいですね。 部屋はいたってコンパクトで、二人で泊まるには荷物を置く場所は床にはありません。子供の頃を思い出す2段ベッドは、下がダブルで上がタラップ付簡易ベッドになっています。ダブルベッドで二人寝れば、簡易ベッドが荷物置き場になります。合理的だと思います。 私はダブルでゆったりと、家内は童心に帰ってロフトベッドで寝ました。

客室の窓からは、先ほどまで居た久松山と鳥取城跡が見えました。 山頂にあった城郭は「山上の丸」と呼ばれ天守もあったらしいです。人力以外に運搬手段がなかった時代に、あれだけの石材をどうやって山頂付近まで運び上げ、積み上げる事ができたのか不思議です。

1日目の旅ルート

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