おたあ・ジュリアの墓
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おたあ・ジュリアの墓の口コミ一覧
1 - 5件 (全5件中)
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ジュリアおたあの記録に関しては、フランシスコ・パチェコ神父が記した元和8年(1622年)の書簡で、神父の援助で神津島から大坂へ移動。その後、長崎へ移ったとの記録が残っている。長崎以後の記録は残っていないため、ジュリアおたあの最後は、不明です。 この供養塔に関しては、1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎が、島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張したのが始まりです。- 行った時期:2017年12月
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2022年6月6日
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以前、神津島は罪を犯した者の流刑地であったそうです。 罪といっても殺人や強盗などの悪質なものでなく、政治犯や思想犯など政府(幕府)の方針に逆らっていた者などが送らて来ていたそうです。歴史を感じます。- 行った時期:2017年8月
- 人数:2人
- 投稿日:2018年1月16日
広島ツウ むっちさん 男性/40代
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カトリックの洗礼を受けた、おたあジュリア氏の終焉の島というこで、訪れました。徳川家康の大奥にも使えた人物とのことでした。キリシタン弾圧のため、流罪の身となり伊豆大島、新島、神津島へと行きついたそうです。島の人々には温かく迎えられ、生涯を終えたとのことでした。歴史の勉強としても、興味深い場所でした。- 行った時期:2016年6月
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 人数:3人〜5人
- 投稿日:2016年7月9日
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