こぼらさんの兵庫県の旅行記

西播磨・歴史探訪 太子〜龍野
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兵庫県西播磨地方に行こうと考え、あれこれ調べていたら黒岡神社(太子町)の由来がとても気になりました。8世紀の後半に、2万余艘もの軍船を仕立てて新羅が播磨灘に攻め込んできたが、朝廷が派遣した武将・藤原貞国が撃退したという。そんな英雄が祀られているのが黒岡神社なのです。 国の存亡に関わる大事件だったのに、学校で教えてもらった記憶がありませんし、藤原貞国の名前も知りませんでした。太子町には、聖徳太子が建立したとされる斑鳩寺もあり、そこに伝わる古文書によって藤原貞国の活躍がわかるのだそうです。聖徳太子と西播磨との関わりも不思議です。西播磨地方には、広く知られていない歴史があるようです。これは行ってみるしかないと思いました。その後、龍野城と古い町並みを見て回りました。

三重ツウ こぼらさん 男性 / 60代
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- 1日目2018年6月30日(土)
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日本を新羅の侵攻から守った英雄が祀られている神社という事で、期待を膨らませて行ってみました。けっこう広い境内の神社です。参拝者向けの駐車場も確保されています。でも、私たち以外、誰も参拝者はおらず、静かでのんびりした雰囲気でした。 誰しもが知る大将軍・坂上田村麻呂が祀られている田村神社(滋賀県)のような、元伊勢らしい荘厳さや、ものものしさは感じられません。
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神社の入口の門。鳥居ではないのが特徴。鳥居は拝殿の前にもありません。門前には、6月25日に「夏越大祓・茅輪くぐり」神事が催されたとの表示がされていました。門をくぐると、正面に拝殿があり、右手に古墳が見えてきます。
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鎌倉時代から南北朝時代にかけて西播磨で語られていた伝説をまとめた地誌『峯相記』には、この新羅侵攻と藤原貞国の活躍について、以下のように記されているという。 【淳仁天皇の御代(764年)、新羅の軍船2万余艘が攻めてきて、家島・高島を占拠して陣を構えた。驚いた朝廷は、弓の名手の藤原貞国に的(いくは)の姓を与えて将軍に任命し、異賊の追討を命じた。貞国が出陣したところ、にわかに大風が吹いて多くの敵船が沈没した。そして貞国は鉄のよろいをまとった敵の大将を射抜き、見事に勝利をおさめた。この勝利で、貞国は西播磨の領主になり、太田郷楯鼓原(たいこはら)に住み、後に、黒岡明神として祀られた。】 黒岡神社の境内には、黒岡神社古墳と呼ばれる墳墓があり、その被葬者が藤原貞国だという事です。
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これは黒岡神社古墳。神社拝殿の斜め前にあります。日本を国難から守ったとされる英雄・藤原貞国の墳墓とされます。小さいですね。しかも、残念というか困ったことに、黒岡神社古墳は藤原貞国の時代より200年以上古い時代のものだそうです。 黒岡神社に祀られている藤原貞国という人物は、どんな人だったのでしょう。新羅による大規模な侵攻にしても、本当にあった事なのでしょうか。古代史に興味がある人には、想像をかき立てられる場所です。
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古墳の前には墓碑があり「藤原貞国掾塚」と刻んであります。朝廷より、戦勝の褒美として与えられた位が「掾」(播磨国のナンバー3)というのも、ちょっとショボいような気がします。 墓碑になっている岩は、家型石棺の蓋石であったものだという。しかも、この古墳に収まっていた物ではなく、他の古墳から持ってきた蓋石に「藤原貞国掾塚」と刻んだらしい。そちらの古墳の被葬者が気の毒です。ともあれ、藤原貞国は神社に祀られ、境内にその墳墓が大切に保存されているのですから、実在し崇敬されてきた事は間違ないでしょう。
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古墳の石室は外に開いています。暗くてわかりませんでしたが、奥には蓋が乗った状態の石棺が残されているそうです。 藤原貞国の伝説について、私なりに分析してみました。 @8世紀頃の新羅は内戦状態にあり、多くの民が国外に流出逃亡していた。武装して暴力的に日本に押し入ろうとする者もあり、海賊とみなされていた。播磨灘に来襲したのも、こうした手合いであったろう。 A藤原貞国は「弩師(どし)」という、当時としては先進的で大型な機械兵器「弩(おおゆみ)」の維持・操作・指導の専門家として、朝廷から西播磨へ派遣された。弩であれば、全身を鉄の甲冑でまとった敵でも倒せます。 B「新羅の軍船2万余艘」とか、大風で船団が壊滅したくだりは、元寇とないまぜになっているのでしょう。これは、事件を伝える「峯相記」が元寇の後にまとめられた時代背景が原因。攻め寄せた海賊はそこまで多くはなかったと思う。 C播磨の兵士に弩の操作を指導して強化し、海賊退治に成功した藤原貞国は「掾」に昇進した。武器の専門家・技術者でありながら、当時富裕を誇った播磨国司の掾なら、かなりの出世と言える。 D弩師や掾は、朝廷の命によって任地が転々と変わる役職であった。藤原貞国は播磨で亡くなっておらず、本当の墓は当地にないのかもしれません。
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聖徳太子が、法隆寺の別院として播磨に創建したのが斑鳩寺だといいます。創建当時の塔堂は16世紀の戦乱で焼失しており、その後再建されたものが現在に至っています。 仁王門をくぐると、右手に荘厳な三重塔が見えてきます。斑鳩寺の塔堂のなかでは三重塔が一番古く、室町時代後期の建立。国の重要文化財です。 606年、聖徳太子が推古天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講義して播磨国の水田を賜り、「鵤荘(いかるがのしょう)」と名付け、斑鳩寺を建立したとのこと。それにしても、大和の斑鳩で国政の中枢を担っておられた聖徳太子が、天皇より賜った土地とはいえ、なぜ離れた場所にも法隆寺の別院を建てたのでしょうか。不思議です。
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講堂も室町時代後期の建立とのことですが、室町時代らしさは余り感じません。屋根の瓦葺きを見れば新しくも感じますし、講堂本体からは平安後期の雰囲気も感じます。 国の重要文化財である三尊像(釈迦如来坐像・薬師如来坐像・如意輪観音坐像)は、講堂に安置されていますが、秘仏なので普段は拝見できません。 黒岡神社に祀られている藤原貞国の活躍ぶりは、斑鳩寺所蔵の「峯相記」写し(1511年・国重文)によって後世に伝えられました。
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聖徳殿(前殿)。もともとは聖徳太子像を祀っていた太子堂でした。現在の聖徳殿は寛文5年(1665)に再建されたものです。 明治末期から大正初期にかけて、後ろ側に中殿と後殿(八角堂)が増築されたそうです。現在、聖徳太子像は後殿(八角堂)に安置されています。
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聖徳殿前殿の由緒書。聖徳殿は、「斑鳩寺で最も重要な建造物」との説明があります。現在の建物は県指定文化財です。
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こちらが後殿(八角堂)。背後に見えているのが中殿。この中に聖徳太子像が安置されているとのこと。八角堂の三層八角屋根は、法隆寺の夢殿がモチーフでしょうか。全体が三重塔にも見えます。
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龍野の町並みを散策するために、太子町を後にして、まずは圓光寺を目指しました。圓光寺西側の通り沿いに中央公民館駐車場があったので、ひとまずそこに駐車して散策を開始。駐車場から通りに出たら、こんな絵になる古民家がありました。かつて商家だったようです。
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浄土真宗の寺院で、播磨六坊のひとつに数えられます。播磨六坊とは、蓮如上人が播磨での布教のために遣わした6人の高弟(浄覚・順念・空善・祐全・善祐・誓元)によって開基された6寺院のこと。圓光寺は祐全が開基し、豊臣秀吉の命により龍野に移っています。
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圓光寺の別の顔として、浄土真宗を守るための武芸道場だったことがあります。門前からの景観は、寺の山門よりは城の櫓門だと表現できるくらい、いかつい雰囲気です。 戦国の世にあっては武芸が重んじられ、武芸道場を備えて「圓光寺流兵法」を伝えていたそうです。寺であり、信徒の練兵場であり、軍学校として機能していたのでしょう。 織田信長による石山本願寺攻めの際には果敢に参戦し、織田軍を苦しめた程に、当時の圓光寺の武力は際立っていたようです。宮本武蔵も、関ヶ原の合戦に参加した後、圓光寺を修練の地として滞在し、圓光寺流兵法を学び、剣豪となっていったそうです。
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圓光寺の境内には、「宮本武蔵・修練之地」と刻まれた碑が立っています。 武蔵は圓光寺で圓光寺流兵法を学び、右手に太刀・左手に十手槍を持つ刀槍術(二刀方式)を圓光寺流に加え、「圓明一流」という武蔵独自の兵法を創出して定着させたと伝わります。武蔵は、圓光寺に3年間滞在して兵法を学び高め、弟子たちに指南もしていたのです。武芸の他に、絵画・書・工芸・造園においても優れた作品を遺しているそうです。多才な人物だったのですね。
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「宮本武蔵・修練之地」の碑の後ろには、宝物殿と思われる蔵のような堂がありました。
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龍野では、古い建物がきちんと管理されており、町中いたるところで見る事ができます。圓光寺から北へ100mほど歩くと、見るからに明治・大正時代の工場・倉庫と思える建物が見えてきます。うすくち龍野醤油資料館のギャラリー部分です。ヒガシマル醤油の本社工場だった建物です。
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うすくち龍野醤油資料館本館の正面。ヒガシマル醤油の先代本社だった建物です。江戸時代初期に開発された龍野醤油は、うすくちを特色として発展しましたが、その歴史を紹介しています。 「ご縁の重なる重縁」という意味をこめて、入館料が10円というのが面白いです。 レトロな美しい洋館ですが、国登録有形文化財であり、兵庫県指定の景観形成重要建造物となっています。
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昔の醤油製造工場。入口のロビーにある解説ビデオでも言っていましたが、展示室には醤油の臭いが全く残っていません。展示物を消臭するのが大変だったと思います。
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うすくち醤油は、バイオ化学を応用した工業製品とも言えます。品質保持のために、研究室も備えていたのですね。龍野のうすくち醤油が、広く全国に普及したのは、こうした見えない努力もあったからなのでしょう。 なんか古いSF映画に登場していたような、年代物の測定器具やガラス製実験器具が面白い。白衣を着た研究者が使っていた様子を想像してしまいます。
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うすくち龍野醤油資料館の別館です。ヒガシマル醤油の先々代本社として使用された後、龍野醤油協同組合本館として使用されていたそうです。大学の古い校舎を思わせる西洋建築です。 それもそのはず、本館ともども兵庫県の景観形成重要建造物に指定されています。
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うすくち龍野醤油資料館別館の前にある水路と、観光客用の東屋。龍野は清らかな水に恵まれて醤油の一大産地となりました。水路は今でも美しく保存されています。
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三木露風が明治22年に生まれ、6歳まで暮らしていた家。龍野城の埋門の坂を下りたところにあります。明治前半の建築らしいです。説明員さんの話では、これまでに2回建て替えをしているそうですが、造りや間取りは当時のままだそうです。
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明治前半に建てられた家屋としては、異様なくらいにモダンで贅沢な造りです。それもそのはず、露風のお祖父さんは第九十四国立銀行の頭取を勤め、その後は初代龍野町長となった名士だったそうです。息子や孫のために肝いりで建てたのでしょうね。
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別名を霞城とも言うそうです。 もともとは、室町時代に龍野赤松氏が龍野・鶏籠山に砦として築いた城。豊臣秀吉が播州を平定した後は、播州の中心が姫路に移り、龍野城は支城となりました。江戸時代になって廃城になっていた時期もあるようですが、1672年に脇坂安政によって再建されたそうです。ただし、背後の鶏籠山にあった城郭跡はそのまま放置し、山麓に櫓と石垣を備えた居館を再建して、陣屋形式の城郭となったそうです。 現在の櫓門や本丸御殿は1979年に再建されたものだそうです。
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17世紀以降、脇坂氏の居館になっていた本丸御殿。脇坂氏が入るまでは廃城でしたが、すでに平和な時代になっていたので、幕府に遠慮して陣屋形式の城郭として再建したのだそうです。今の本丸御殿は、1979年に再建されたものです。入場無料です。
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中に入ると、槍や弓、時の太鼓などが陳列されています。館内には誰もおらず、高級旅館の玄関に無断で入り込んだようで、なんか変な気分でした。
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奥に進むと、殿様が家臣たちを睥睨していたであろう奥の間が再現されています。
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本丸御殿から東へ歩いていくと、途中で石段を上がり下りする事なく、龍野歴史文化資料館に行けます。こちらは入館料が200円です。 後で知ったのですが、龍野歴史文化資料館・霞城館・醤油資料館の共通割引券というのがあって、300円で3館に入館できるというもの。私たちは3館に行きましたが、それぞれに正規料金を払いましたので、のべ410円でした。3館の受付では、誰も共通割引券の事を言ってくれませんでした。ちょっと損した気分です。 龍野は、古代においては播磨国最大の郡として繁栄したそうです。それだけに古代の展示史料が興味深かった。
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資料館の中の様子。椰八幡神社獅子舞の展示が目立ちますが、全体的に展示物が少ないかなと思いました。
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たつの市内の古代寺院遺跡から出土した瓦。特に小神廃寺は、飛鳥様式の瓦が出土した兵庫県で唯一の遺跡。畿外地域でも数例しかないとのこと。それほどに、古来より播磨地方や龍野界隈は先進地域だったことがわかります。
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明治・大正・昭和時代に活躍した、龍野出身のエリート文化人たちの文献や資料を展示している資料館です。童謡「赤とんぼ」作詞の詩人・三木露風、詩人・内海信之、一高寮歌を作詞した歌人・矢野勘治、世界的な哲学者・三木清の4名です。 展示内容が少し固いものの、往時のエリート文化人たちの日常を知ることもでき、勉強になります。
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霞城館の展示室。三木露風・内海信之・矢野勘治・三木清の直筆文書や、親交のあった一流文化人と交わした手紙、身の回りの調度品などが展示されています。
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哲学者・三木清直筆の手紙が展示されていました。宛先が満州国になっていて、航空便の表示があるのが興味深い。どんな飛行機で運ばれたのだろうか?布張り複葉機だったかな? それよりも、三木清の書いた文字が面白い。活字のように角張っていて、一文字一文字しっかりと書かれています。几帳面だったのだろうなと思う。
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こちらは詩人・三木露風の直筆原稿。ラフながら、さらさらと流れるように書かれた文章が美しい。 草稿を重ねた加筆訂正が随所に見られますが、露風のクリエイターとしての苦しみが伝わってきます。
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霞城館に展示されている、三木露風自筆の童謡「赤とんぼ」歌詞。これをレリーフ化した歌碑が龍野公園にあります。優しくて郷愁を感じる歌詞にぴったりの、木訥とした露風の書体ですね。歌碑にはメロディーが流れる仕掛けがあるそうですが、歌詞と書体を鑑賞するなら霞城館の真筆を見るのをお薦めします。
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こちらは矢野勘治記念館。霞城館の隣にあります。矢野勘治の旧宅が流用されています。 矢野勘治と言われても、どんなお方なのか思いつきませんでした。館に入ると、旧制第一高等学校寮歌「春爛漫」と「嗚呼玉杯に」がリピート再生されているのが聞こえてきて、その作詞者である事を知りました。 大学に入学した時、自分の学校の寮歌と一高などナンバースクールの寮歌は、先輩に教えられ歌わされたものです。懐かしいです。
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館内には、旧制第一高等学校の生徒が寮で使用していた机やベッドが展示されていました。明治時代の調度品として、すばらしい品質の机・椅子です。エリート養成のために、国がお金をかけていたのですね。机には「三歳で神童、十五で才子、二十歳すぎればただの人」の落書きがありました。当時の生徒達が抱いていた、強烈なエリート意識が伝わってきます。
西播磨・歴史探訪 太子〜龍野
1日目の旅ルート
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