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こぼらさんの石川県〜福井県の旅行記

コロナ時代の旅 山代温泉・敦賀港

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宿泊費がとても安くなるキャンペーンをしていたので、温泉とバイキング料理を楽しみに湯快リゾート山代温泉に行きました。コロナの足音が近付いているのが感じられ、温泉街を散策していても観光客が少なく、臨時休業している見所や飲食店が多いのに驚きました。でも宿と食事は従来通りに利用できました。 帰り道の途中、日本海側の拠点港のひとつ敦賀港に寄って散策しました。歴史のある本港地区には、近年に金ヶ崎緑地公園が整備され、付近に赤レンガ倉庫・きらめきみなと館・旧敦賀駅鉄道資料館・敦賀ムゼウムなどの観光スポットが設けられています。公園の北側には金ヶ崎山がひかえていて、坂道を上っていくと南北朝争乱の歴史を感じさせる金崎宮と金ヶ崎城跡があります。きらめきみなと館の隣には海上保安庁の停泊地があり、巡視船を間近に見る事ができました。 しかし、ここでもコロナの影響が出始めており一部の観光スポットは休業していました。

三重ツウ こぼらさん 男性 / 60代

1日目2020年3月6日(金)

山代温泉 古総湯(共同浴場)

加賀市

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1年ぶりに山代温泉に行きました。温泉街の中心にある古総湯は山代温泉の顔です。 古総湯の建物は、明治時代の総湯を復元しています。1階の屋根はこけら葺きですが、2階は加賀の赤瓦葺きになっています。前回来た時は曇っていたので屋根材の違いに気付きませんでしたが、今回は良く晴れていて違いがよくわかりました。 コロナの影響か、入浴客が少なかったのが寂しかった。

薬王院温泉寺

加賀市

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古総湯や総湯などが並び立つ、山代温泉街の中心地にある薬王院温泉寺。去年来た時は、浴衣姿の女性たちが艶々しい雰囲気で参道を歩いていましたが、今回は一人も見かけませんでした。コロナで人の流れまで変わりつつあるのかと考えながら散策しました。

山代温泉観光協会

加賀市

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山代温泉観光協会の事務所は総湯のロビーにあります。コロナ対策で休業が多い中、総湯は普通に営業していたので寄りました。受付は観光案内所も兼ねていて、温泉街の散策マップや見どころの資料が置いてあります。ここの名物「温玉ソフト」を食べながら、見どころパンフを見ていたら、スタッフの方が「コロナ対策で、おおかたの見どころは休業しています。」と教えてくれました。がっかり。でも、私たちが無駄足を運ばないように配慮してくれたのですから、感謝しないと。 ちなみに「温玉ソフト」とは、カップ入りのソフトクリームに温泉玉子が1個乗っていて、さらにお醤油がかかっているというスイーツ。前回来た時に初めてトライし、その取り合わせに驚いたものの、食べてみると実に美味しくてやみつきになりました。スプーンで良く混ぜてから食べるのがお勧めです。

山代温泉

加賀市

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コロナ対策で休業が多そうだったので、山代温泉街の見どころ巡りはあきらめて、総湯の土産物売り場で「あんころ餅」を買いました。山代温泉のマスコットキャラクター「すぱクロくん」が可愛らしくて気に入ったのです。山代温泉は、八咫烏が湯浴みしているのを高僧・行基が見つけた事が始まりとされており、カラスがマスコットになっています。 温泉の「スパ」と、黒いカラスの「クロウ」や「クロ」に引っかけて「すぱクロ」と名付けられたようです。

大江戸温泉物語 山代彩朝楽

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古総湯や総湯のある山代温泉の中心街からは数百メートル離れた場所にあります。今回は、宿泊費が大幅に安くなるキャンペーンをしていたので、山代温泉の彩朝楽を選びました。 ビジネス街のような場所に立地しているので、ホテルの外観を見る限り、温泉地の宿に来たという実感は余りしません。でも、有名な温泉地の宿だなと感じたのは、大浴場の大きな浴槽が古代檜(千年檜とも表現していました)の材木で作られていた事です。それなりに年季がいった浴槽でしたが、檜と温泉の香りに包まれながら湯に浸かっていると、気分がゆったりしてきました。

湯快リゾートの定番、夕食バイキング。夜は冷え込む3月上旬なので、茶碗蒸しや治部煮、麻婆豆腐など冬メニューが多い印象でした。また、この時はローストビーフが看板料理になっていました。

固形燃料を点火して煮込む鍋物もあり、豊富なバリエーションが楽しめる食事でした。 宿のバイキング料理は、4月に入ると全国で軒並み中止されていきましたので、振り返れば思い出深い食事になりました。 さらに5月に入ると、全国のホテル・旅館は休業し始め、旅行好きには辛い時期となっていったのです。

2日目2020年3月7日(土)

ルイドール

加賀市

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山代温泉街の主立った見どころは休業している事がわかったので、有名なパン屋さん・ルイドールに寄って帰ることにしました。パンの種類や量が豊富であるうえに美味しいので、地元では大変に人気がある店なのです。 温泉街から少々離れた場所にありますので、宿をチェックアウトして車で移動しました。臨時休業していても不思議ではないご時世だったので、普通に営業しているのを見た時は嬉しかった!

ルイドール

加賀市

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たくさんの美味しそうなパンが、個包装をされず従来通りに並んでいたのは嬉しかった。個包装されていると、美味しさや美しさがわかりにくくなりますから。 でも4月以降は、パンの個包装はもちろん、お客にもマスクやビニール手袋の着用が求められるようになったと思います。

小振りですが、イートインコーナーもあります。

買って帰ったミックスベリーデニッシュとモンブランデニッシュ。見た目通りに、とても美味しかったです。 私たちの後に山代温泉に行った知人によると、4月に入ってからも営業してみえたそうです。さすがです。

敦賀赤レンガ倉庫

敦賀市

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敦賀港の東側に、赤レンガ倉庫が2棟並んで立っています。目立つので、敦賀港のシンボルの一つだと言えます。写真は、港の金ヶ崎緑地公園から見た赤レンガ倉庫です。赤レンガ倉庫の北側に駐車場がありますが、港の金ヶ崎緑地公園の駐車場も使えます。 左に電車が置かれていますが、かつて小浜線を走っていた急行「わかさ」の車両です。「キハ58」というディーゼル車で、昭和40年代から50年代にかけて、あちこちで見かけたし私もお世話になりました。

敦賀赤レンガ倉庫

敦賀市

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この赤レンガ倉庫は、外国人技師の設計により1905年に建てられました。日露戦争の時代です。当初は石油貯蔵庫として使われ、つい数年前までは昆布の貯蔵庫として使用されていたといいます。 2015年10月に、歴史と文化と食を楽しむことができる新たな観光施設として生まれ変わりました。

倉庫の中は、外見からは予想がつかない、今どきのデザインの店舗や資料館になっています。

天井を見上げると、ダークグレーの太い鉄骨や大きな空気循環ファンが組まれていて、メカメカした印象です。でも、壁を見ると外見と同じ赤レンガになっています。

赤レンガ倉庫の北側に、宇宙戦艦ヤマトにちなんだブロンズ像やオブジェが並べられています。宇宙戦艦ヤマトと敦賀が、どういう関連があるのだろうと考えました。 敦賀港は、かつて東京とパリを結んでいた「欧亜国際連絡列車」の経由地であったことから、港湾や鉄道の施設・設備には当時の最新技術が用いられてきました。SFではありますが宇宙戦艦ヤマトも最新技術をちりばめているので、敦賀港開港100周年記念にヤマトが相応しいと考えられて製作されたのだそうです。関連づけが少々強引な気もしますが、深く考えない方がよさそうです。

テレビ放映をリアルタイムで見ていた頃から46年も経過しましたが、実寸大のアナライザー像の印象は、平面のアニメで見るのとは一味違います。手や指が非常に人間っぽいのも面白い。

赤レンガ倉庫の北に金前寺があり、その傍に観光客駐車場があります。金崎宮と金ヶ崎城跡に行くために、赤レンガ倉庫から歩いて観光客駐車場に向かいました。 駐車場には「ぐるっと敦賀周遊バス」のバス停があり、バス停表示には銀河鉄道999のキャラクターが入っていました。敦賀に「欧亜国際連絡列車」の駅と港があった史実から考えると、宇宙戦艦ヤマトよりも銀河鉄道999の方がイメージに合っているような気がします。

金ヶ崎城跡

敦賀市

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観光駐車場の隅には、金ヶ崎城跡と枝城・天筒山城跡についての解説碑が立っています。金ヶ崎城は歴史の表舞台に2回立ちました。 1回目は14世紀前半で、南朝方として恒良・尊良両親王を奉じた新田義貞軍と、北朝方の足利軍との攻防戦の舞台として。2回目は戦国時代の17世紀後半、織田信長が秀吉・家康・利家・光秀たちと共に朝倉義景軍と戦うための最前線拠点とした事です。近江・浅井氏の裏切りを知らされた信長が、速やかに撤収を敢行した「金ヶ崎の退き口」の舞台としても知られています。

駐車場から金崎宮に向かう道の途中に、芭蕉句碑がありました。金前寺の庫裏の裏側あたりです。

芭蕉句碑(金ケ崎町)

敦賀市

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表示柱には「芭蕉翁鐘塚」と刻まれています。句碑ではなく、どうして鐘塚と呼ぶのか気になります。 南北朝時代(1336)、新田義貞はじめ南朝勢が恒良親王・尊良親王を奉じて金ヶ崎城に立て籠もり、足利軍率いる北朝勢が攻め立てました。最終的に金ヶ崎城を守っていた南朝勢300余名は自害して落城しましたが、城の陣鐘が北朝の手に渡らないように、落城前に南朝勢によって海に沈められました。芭蕉翁は奥の細道の旅で敦賀に寄った際に、この悲史にちなんだ句を詠みました。句に詠まれた鐘は金ヶ崎山近くの海に沈んだままなので、句碑を鐘の墓標にみたて「鐘塚」と呼ぶようになったようです。

芭蕉句碑(金ケ崎町)

敦賀市

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碑に刻まれた句を見つめても、「月いつこ」しか読めません。傍にある解説が頼りになります。「月いつこ 鐘は沈る うみのそこ」と刻まれているはずなのですが、そんなに文字数があるようには見えません。せいぜい「月いつこ 鐘」しか見えません。後で知りましたが、碑の側面に残る文字「沈るうみのそこ」が刻まれていたようです。 松尾芭蕉は「奥の細道」の帰路、中秋の名月の夜を敦賀で過ごしました。生憎の雨で月が全く見られず、金ヶ崎城落城の折に新田軍が陣鐘を海に沈めたとする故事にひっかけて、「月はいずこ?海の底に沈んで見つからない鐘を探すような思いだ。」という気持ちを詠んだのです。

金崎宮

敦賀市

「金崎宮」を   >

金前寺の横を通って金崎宮に向かいます。途中、段数を数え忘れましたが、けっこう長い石段を上ります。上りきった場所に「金嵜宮」という扁額を付けた一の鳥居があります。 今年の大河ドラマは明智光秀を主役に描いた「麒麟がくる」なので、「明智光秀」の幟が立てられていました。金崎宮の北にあった金ヶ崎城は、16世紀後半に織田信長が越前・朝倉攻めのための拠点としていました。その際、信長に従って光秀・秀吉・家康・利家も、ここ金ヶ崎山の城に来ていたとされます。

金崎宮

敦賀市

「金崎宮」を   >

境内への入口に二の鳥居が立っています。この鳥居には扁額がなく、奥の拝殿に「金崎宮」という扁額が付いています。一の鳥居は「金嵜宮」で、拝殿では「金崎宮」と違った字を用いているのが興味深い。 明治に建武中興十五社の一つとして建立されており、建物は新しい印象を受けます。本殿も拝殿も銅板葺きで、二の鳥居も銅製なので緑青色が鮮やかです。

金崎宮

敦賀市

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拝殿の背後に神殿域があります。神殿は神明造りで、千木と鰹木5本を備えた四脚門を正面に据え、塀に囲まれています。神殿の屋根も千木と鰹木7本を備えています。 神殿と四脚門の両方に共通の造りが見られる例として、元伊勢の阿紀神社(奈良県宇陀市)しか他に知りません。 この特殊さは、後醍醐天皇による建武新政に尽力した、南朝側の皇族・武将などを主祭神とした建武中興十五社の一つだからでしょう。しかも、この地で自害して果てた尊良親王と、捕縛され殺された恒良親王を主祭神としているので、なおさらでしょう。

四脚門の前から神殿に向かって拝むことができます。

金崎宮の脇に、金ヶ崎城跡に進む散策路があります。散策路へは、金崎宮の境内に入らなくても進めるようになっています。しかし、「史跡 金ヶ崎城址」の表示柱は金崎宮のすぐ脇にありますので、金崎宮に参拝してから金ヶ崎城跡に進むのが定石のようです。

金ヶ崎緑地公園

敦賀市

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金崎宮の脇から左手に伸びる「花換の小道」と呼ばれる海岸沿いの散策路からは、港町・敦賀の景観が望めます。写真手前より金ヶ崎緑地公園・敦賀港・きらめきみなと館、その先に敦賀市街地が見えています。

金ヶ崎の北側に回り込み、鴎ヶ崎という見晴らしの良い場所に来ました。船舶用の燃料タンクらしいものが並んでいました。その奥に敦賀湾の湾口や越前海岸が見えます。鴎ヶ崎を通り過ぎると、生い茂る樹木によって海が見えなくなり、散策路は上り坂になります。

金ヶ崎城跡の標高はそんなに高くはないのですが、散策路は落差の大きな断崖を進むので、急な坂道になります。

上り坂を振り返っています。この方が坂道のきつさがわかりやすいですね。

金ヶ崎城跡

敦賀市

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金ヶ崎城跡は、現在の敦賀市北東部にあり、敦賀湾に突き出した海抜86mの岬(金ヶ崎山)に築かれた山城の跡で、国の史跡に指定されています。 金ヶ崎城は南北朝争乱と戦国時代にも歴史の表舞台として登場していますが、後醍醐天皇の皇子と新田義貞の嫡子が籠城戦のうえ自刃した、南北朝時代の壮烈な戦いの現場としての印象が強いです。 写真は「尊良親王御陵墓見込地」の標示碑。急坂な散策路を上る途中の右手にあります。金ヶ崎城が落城する際、ここで尊良親王が自刃したと考えられています。

金ヶ崎城跡

敦賀市

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写真は、金ヶ崎山の頂上付近にある「金崎古戦場」と刻まれた表示柱と忠魂碑。「古戦場」とは、南北朝争乱の時に、金ヶ崎城で繰り広げられた攻防戦の舞台であった事を指しています。 足利尊氏が入京すると、新田義貞は恒良親王・尊良親王を奉じて北陸に逃れ金ヶ崎城へ入りました。すぐに足利方の軍勢によって兵糧攻めにさらされ、半年後、尊良親王・新田義顕(義貞の嫡男)・城兵300名は城に火を放って自害し、恒良親王は捕縛されて落城するという悲劇となりました。その現場跡です。

金ヶ崎城跡

敦賀市

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金ヶ崎城跡で一番高い場所は、海抜86メートルの月見崎です。「金崎古戦場」の碑の近くです。南北朝時代の城塞だった頃は、この周辺が本丸となっていて、月見崎には武将たちが月見をした月見御殿があったと伝わります。 月見崎からの見晴らしは良好で、敦賀湾はもちろん、天候がよければ遠く越前海岸まで望むことができます。

月見御殿跡に立つと、敦賀湾とが越前海岸が見渡せます。右手に見える貨物船の長さは200mくらいありそうでしたが、木の葉が浮いているような大きさにしか見えません。 金ヶ崎城は、近畿と北陸とを結ぶ街道の要衝にあるうえ、海上輸送の重要拠点の敦賀港も掌握できる戦略的価値の高い場所だったことがわかります。

月見御殿の近くから金崎宮まで、来る時に通った海岸沿いの「花換の小道」を使わず、別ルートで下ることもできます。尾根の頂に沿った散策路を使うルートです。写真は南北朝時代の戦いに使われた「三の木戸跡」付近です。 近世城郭のように石垣や土塀に囲まれた明確な曲輪は見当たらず、板塀や簡素な櫓で構成された砦だったと思います。

さらに下ると「二の木戸跡」に至ります。左に進むと枝城・天筒山城跡(展望台がある)に向かうルートと、右に行けば金崎宮に下りるルートの分岐点になっています。かつて天筒山城との連絡経路も尾根伝いで、いくつかの木戸が設けられていたといいます。

「二の木戸跡」の分岐点で、金崎宮に降りるルートを選択しました。薄暗くなっていたので天筒山城跡へ行くのは断念しました。 金崎宮に降りるルートは急坂の険しい道ですが、足場がしっかり整備されているので歩きやすいです。 金崎宮に戻った後は、港沿いの金ヶ崎緑地公園に向かいました。

金ヶ崎緑地公園

敦賀市

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金ヶ崎緑地公園の中心部にある時計台。大きな石灯籠のようで目立ちますが、昔の灯台を再現しているのかもしれません。 時計台の後ろに見えているのは、右側円柱状の建物が「きらめきみなと館」で、左側が敦賀鉄道資料館です。 金ヶ崎緑地公園は、敦賀港の新たなシンボルとして整備され、敷地内に港と芝生広場・金ヶ崎山を備える公園です。敦賀港開港100周年を記念して10年をかけて整備がなされ、2003年にオープンしました。

旧敦賀港駅舎(敦賀鉄道資料館)

敦賀市

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明治期に、シベリア鉄道を経由してヨーロッパ諸国と結ばれていた欧亜国際連絡列車の発着駅を再現した建物です。敦賀鉄道資料館であり、鉄道の歴史や敦賀港の歴史などを紹介しているそうなのですが、残念なことにコロナの影響で休館していました。 欧亜国際連絡列車とは、20世紀の初めに設けられ、東京駅から金ヶ崎駅(敦賀港駅)まで直行し、ウラジオストク航路の船のすぐ傍まで乗り入れていた列車です。 ヨーロッパを目指す旅人は、欧亜国際連絡列車で東京から敦賀港駅に行き、ウラジオストク直行の船に乗りました。ウラジオストクに到着するとシベリア鉄道でパリまで行くことができたのです。

人道の港敦賀ムゼウム

敦賀市

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敦賀港が大勢の人の命を救った舞台だった事を、後世に伝えるために建てられた資料館です。旧敦賀港駅舎(敦賀鉄道資料館)と、とんがり屋根や窓の造りなどデザインが似たところがあります。 戦乱で命の危険にさらされたユダヤ人難民やポーランド孤児を救った史実・史料を解説・展示しています。特にユダヤ人難民のことに重点が置かれているようです。 第2次大戦時、日本経由で世界各地に亡命させることにより、ナチスドイツの魔の手から大勢のユダヤ人の命を救った日本の外交官・杉原千畝はよく知られています。杉原千畝が発給した「命のビザ」を得たユダヤ人難民は、リトアニアからシベリア鉄道を乗り継いでソ連を横断し、ウラジオストクからは船に乗り換え敦賀に到着したのです。

人道の港敦賀ムゼウム

敦賀市

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敦賀ムゼウムは、多くのユダヤ人難民を救った杉原千畝の功績を顕彰するとともに、難民が残していった時計や、難民に飲み物や食べ物を差し入れた敦賀市民の証言、「命のビザ(複製)」が展示されています。 杉原千畝が多くのユダヤ人の命を救った事は知っていましたが、敦賀港が大きな役割を担っていた事は知りませんでした。ぜひとも入館したかったのですが、全国的にコロナが広まり始めていた時期だったので、臨時閉館されていたのは残念でした。

ユニークな円柱形の「きらめきみなと館」の小ホール。演劇や発表会などの会場として、貸し出される施設です。 小ホールの東側から北側にかけて、芝生エリアとデッキスペースがあります。デッキスペースは「ボードデッキ」と名付けられ、帆船のデッキを模してデザインされたそうです。ボードデッキ上には、ヨットの帆やジャンプするイルカをイメージしたモニュメントがあります。

ボードデッキは、海に突き出した船の舳先をイメージしているそうで、先が鋭角的にとがっています。 舳先の先に敦賀湾が見える趣向になっています。この時は、海上保安庁の巡視船「えちぜん」がたまたま停泊していて、ボードデッキから間近に見ることができました。

金ヶ崎緑地公園

敦賀市

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「きらめきみなと館」から時計台の方に戻ります。夕暮れが迫る中、時計台の文字盤に明かりが灯されました。曇っていたので日没の夕陽には出会えませんでしたが、薄暗がりに静かに溶け込んでいく港と公園を見ることができました。 時計台の奥に見える低い山は岬なのですが、これが先ほど散策していた金ヶ崎山です。金ヶ崎山の中腹に金崎宮があり、頂上に金ヶ崎城跡があるのです。金ヶ崎山と敦賀港一帯を含めて、金ヶ崎緑地公園と呼ばれています。

写真左に、敦賀港と博多港とを結ぶ近海郵船のRORO船が見えます。RORO船とは、旅客は乗せず、トレーラーなど大型運搬車両を運ぶフェリーのような貨物船。 昨年、新規定期航路として運用が始まったばかりです。実は、九州と本州を結ぶ日本海側の定期航路は昔からあったのですが、平成18年に廃止されていました。13年ぶりに復活した定期便なのです。敦賀港の再興のシンボルと言えるでしょう。

コロナ時代の旅 山代温泉・敦賀港

1日目の旅ルート

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