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さとけんさんの栃木県〜神奈川県の旅行記

【筑波海軍航空隊】戦後80年、旧帝国陸海軍の残影。関東を巡るドライブ【2025年5月】

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1日目は三笠公園の戦艦三笠、ヴェルニー公園の戦艦陸奥の主砲、山下公園の氷川丸、船の科学館跡地の砕氷船宗谷を見てまわり、靖国神社の遊就館を見学したあと、成田空港近くの航空科学博物館にて旅客機の離発着を見て小美玉市で一泊します。2日目は笠間市の筑波海軍航空隊跡地を見学し、栃木市の総合運動公園の温水プールで泳いでから栃木市大平町の旅館に泊まります。3日目は作家の司馬遼太郎にゆかりのある佐野市の植野町を歩いてから、距離の長いワインディングロードをドライブして秩父の三峯神社を参拝、秩父駅近くののホテルに泊まり、翌日、飯能市の東郷公園にて戦艦三笠の甲板を観て、神奈川へ帰ります。

神奈川ツウ さとけんさん 男性 / 50代

1日目2025年5月25日(日)

三笠公園

横須賀市

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さて、日曜日の早朝、低気圧の接近と通過に伴い風雨が強まるかもしれないという予報の中、横須賀市の三笠公園へやってきました。本日は5月25日ですが、明後日の5月27日は、かつての日本で海軍記念日とされた日です。1905年(明治38年)5月27日に行われてた日本海海戦を記念して制定され、昭和20年の敗戦により廃止されました。その日本海海戦で連合艦隊の旗艦を務めたのが、この戦艦三笠です。現在の時刻は朝の5時22分、三笠公園の開園時間は午前8時(4月から10月まで、11月から3月までは午前9時)ですので、公園の中へ入ることはできません。フェンス越しに戦艦三笠を眺めます。

三笠公園

横須賀市

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こちらは東郷平八郎元帥海軍大将の銅像です。日本海海戦時の連合艦隊司令長官です。東郷平八郎は1848年(弘化4年)に生まれ1934年(昭和9年)に亡くなられた元・薩摩藩士で、薩英戦争から戊辰戦争、日清戦争、そして日露戦争と軍艦に乗り続けた歴戦の海軍軍人です。東郷さんの若いころの写真をみたことがありますが、かなりの二枚目ですねー。

三笠公園

横須賀市

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戦艦三笠の左舷側の兵装です。この位置からみると、迫力があります。三笠の兵装は、30.5cm(連装砲塔)の主砲が甲板の前後にあり、この画像に見える左舷側には、下段に15.2cmの副砲が5門、上段の奥と手前に同じく副砲が1門ずつ装備されていて、両舷合わせて14門の副砲があります。上段の副砲の間にある少し細い4門の砲は、おそらく、7.6cmの速射砲かと思われます。

記念艦「三笠」

横須賀市

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戦艦三笠は1902年(明治35年)に竣工、1905年5月に日本海海戦で勝利を収めましたが、同じ年の9月に佐世保港内で爆沈事故を起こし沈没、1906年8月に引き上げられ修理をされて、1908年に現役に復帰。1923年の関東大震災により破損し横須賀港に着底し、そのまま現役を退きました。当初、解体される予定であった三笠は保存運動が起きて、1925年に記念館として保存することが決まります。日本海海戦の旗艦ですからね、日本国民には特別な存在であったにちがいありません。さて、無線の通話表というのがあります。これは、無線に雑音が混じってハッキリと聞き取れないような場合などに、聞き間違いを防ぐために、例えば「あいうえお」ならば、「朝日のあ、いろはのい、上野のう、英語のえ、大阪のお」という具合に1文字ずつ伝達する場合があるのですが、この50音の「み」は「三笠の『み』」といいますな。これは無線を使う、無線の資格を取るという場合には必ず覚えなければならないもので、今はどうだか私は知らないが、昔は試験官の前で与えられた文章を、暗記した通話表に従って一語ずつ読むという考査がありましたね。学生時代、後輩に「『み』はなんで三笠なんですか」と問われて、「戦艦三笠の『み』だろうな」と私が答えると、そこにいたほとんどの後輩が「戦艦三笠」というものを知らなかったという過去を思い出します。

記念艦「三笠」

横須賀市

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敗戦後の記念館三笠は荒廃します。日本が連合国軍の占領下にあった昭和20年代には三笠の甲板上に水族館が出来たりダンスホールが出来たりと、アメリカ軍のための娯楽施設に利用されますが、連合国軍の中にもバルチック艦隊を相手に完勝した「日本海海戦の連合艦隊旗艦である三笠」や「東郷平八郎」を特別な存在として価値を認めている人間たちが居て、国内外からの保存運動が起きて、1959年(昭和34年)に復元工事が始まり現在に至るとのことです。艦上の構造物はそのほとんどがレプリカであり、現役時代の遺構はほとんど残っていない模様ですが、無線通信室前の甲板の一部に建造当時(明治33年)のチーク材甲板が遺っていたり、竣工時から昭和62年まで艦首にあった菊の御紋は、現在は艦内で展示されていたりと、ところどころにその栄光の残影を見つけることが出来ます。日本海海戦の弾痕が遺る三笠の甲板が、埼玉県飯能市の東郷公園(秩父御嶽神社)に展示されてもいますな。この旅行記のラストで訪れます。細かい雨が降る三笠公園の前を辞し、次の目的地は、三笠公園から車で10分ほどのヴェルニー公園です。

ヴェルニー公園

横須賀市

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ヴェルニー公園に到着です。こちらの公園には戦艦陸奥の主砲身が展示されています。この砲身は、もともとは船の科学館に展示されていたものですが、2016年の9月に、こちらの公園に移設されました。戦艦陸奥は、長門型戦艦の2番艦として1921年に竣工、1943年(昭和18年)6月8日に、謎の爆発事故を起こして沈没しました。戦後の1975年(昭和45年に本格的な引き上げ作業が行われて艦体の75%が回収されたそうです。

ヴェルニー公園

横須賀市

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陸奥の主砲は41cm連装砲が4門、合計で8本の砲身があります。このヴェルニー公園と呉の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)と長野県麻績村の聖博物館に、それぞれ1本ずつ展示されていますが、あとの5本はどこにあるのでしょうか。まだ海の底に遺る主砲身もあるのかもしれません。広島県の江田島にある旧海軍兵学校には、昭和10年の陸奥の改装時に撤去された4番砲塔が設置されているそうですね。観てみたいですねー。ヴェルニー公園を辞し、横浜の山下公園へ向かいます。

山下公園

横浜市中区

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日曜日の早朝の山下公園に到着です。霧雨が降る日曜日の朝ということで、人が少ないですな。ちょうどバラの季節で、ローズガーデン付近にはバラの良い香りがしますよ。これはいいな。傘をさしながら少し歩いてみましょうか。

カモメの水兵さん歌碑

横浜市中区

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かもめの水兵さん歌碑です。昭和12年に大ヒットした童謡です。作詞者の武内俊子さんは、昭和8年にこの横浜メリケン波止場からハワイへ旅発つ叔父さんを見送りに来た時に、たくさんの白いカモメが飛びまわっているのを見て、その光景を描いたそうです。戦前・戦中に親しまれた童謡で、そして戦後の私も幼稚園か小学校かで歌った覚えがありますな。ちゃっぷちゃっぷ浮かんでる♪という可愛らしい歌詞でございます。

日本郵船氷川丸

横浜市中区

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ああ、氷川丸。霧雨の降るひと気の少ない公園に、静かに漂っておりますな。氷川丸は1930年(昭和5年)に竣工し、北米航路シアトル線に配船され、太平洋戦争で航路休止になるまでの11年余り、太平洋を横断する貨客船として活躍。1941年(昭和16年)11月に海軍に徴用されて、横須賀海軍工廠で特設病院船に改装されます。船体と煙突は白く塗られて船体側面には1本の緑色の帯、両舷中央と煙突に赤十字マークが描かれたとのことです。日本郵船のウェブサイトによれば「終戦までの3年半にトラック、ラバウル、バリクパパン、ジャカルタ、サイパン、マニラなどへ赴き、計24回の航海で3万人にのぼる戦傷病兵を収容し内地へ輸送」したとあります。触雷も3回経験したが沈没を免れ、昭和20年8月15日には舞鶴にいて、戦後直後は外地に居る日本人を内地へ帰す復員船として活躍し、1947年に復員船の任務を終えた後は北海道航路などに就航し、1953年(昭和28年)からはシアトル定期航路に復活、1960年(昭和35年)に船としての引退が決まりました。氷川丸は1961年(昭和36年)に山下公園前に係留され現在に至ります。まさに波乱万丈の歴史を刻んできた氷川丸、現在はとても穏やかに山下公園の海に浮いておられます。すごいな、歴戦の勇士ですね。

山下公園

横浜市中区

「山下公園」を   >

振り返ればホテルニューグランドの本館が見えます。このホテルは1927年(昭和2年)に開業しました。ダグラス・マッカーサーは、1937年に新婚旅行でこのホテルに宿泊し、1945年8月30日(厚木飛行場に降り立った日)からの3日間(9月8日までという話もあります)は、連合国軍最高司令官として滞在しました。1945年8月15日の玉音放送のあと、日本と連合国との間には、日本の降伏手続きについて様々なやりとりがあって、厚木飛行場での反乱とその鎮圧や、緑十字の一式陸攻が日本の降伏全権団を乗せて静岡県磐田市の鮫島海岸に不時着したりして、いろいろ大変だったみたいですが、8月30日にマッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で降伏調印式が行われ、日本の正式な降伏が決まったわけですね。終戦の8月にマッカーサーが滞在した際にはクジラ肉のステーキを出したのだ、という本を読んで、これは当然ながら「食料不足で牛肉などないので、代用としてのクジラ肉をステーキにした」という話ですけれども、この「マッカーサーが食べた(あるいは、マッカーサーは手をつけなかったともいわれていますが)クジラ肉のステーキ」を食べてみたいなと私は思います。

日本郵船氷川丸

横浜市中区

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山下公園からみる氷川丸や、氷川丸が見える山下公園というのが、私にとっての「横浜の中の横浜」なんだなぁと、バラの香りが漂う静かな公園で思うのであります。ここは私にとっては、家族との想い出が残る良い場所です。

山下公園

横浜市中区

「山下公園」を   >

山下公園を辞し、船の科学館があった場所へ向かいます。

砕氷船・宗谷

山下公園から50分ほどのドライブで、お台場の砕氷船・宗谷に到着です。宗谷は1938年(昭和13年)6月に竣工した船で、当初は民間の貨物船でしたが、日本海軍により買い上げがきまり、1940年(昭和15年)2月に「宗谷」と命名されて、特務艦になります。以後、昭和20年8月の終戦まで、輸送や測量任務に従事し、戦後は引揚船、昭和24年に海上保安庁の所属になり、灯台補給船などを経て、1955年に巡視船となって砕氷船に改造されます。1956年から1962年までは南極観測船として活躍し、その後は海上保安庁の巡視船として活動し1978年(昭和53年)に退役しました。1979年(昭和54年)から船の科学館前に係留され保存展示されています。こちらの船も波乱万丈、歴戦を生き抜いてきた船ですね。戦後も南極観測船として大活躍しました。宗谷の見学は10時開館となりますので、まだ入館することが出来ません。入館料は、なんと、無料ということで、これはもう、行かない手はない、行くしかないですな。以前の船の科学館の入館料は大人700円、羊蹄丸と宗谷の見学も含めて共通券1,000円でした。

砕氷船・宗谷

一枚上の画像を撮影したポイントから動かずに右手をみますと、この画像になります。この衝立の向こうには、ほとんどが取り壊された「船の科学館」の建物の一部が残っています。もう直に、その痕跡は無くなるでしょう。船の科学館の中に少し大きめのブールがあって、船が浮いていて、ラジコンで操舵できる装置がありましたね、けっこう面白かったな、あれは。船の科学館は新しい施設に生まれ変わるのでしょうか、どんな施設になるのか、楽しみです。船の科学館前を辞して、靖国神社へ向かいます。

靖国神社

千代田区

「靖国神社」を   >

靖国神社にやってきました。日曜日の朝9時前ということで、お台場から靖国へ至る道路は空いていて走りやすかったですね。総理官邸前の交差点の信号で停まった時は、警備の警察官が沢山いらっしゃいましたが、それ以外は人も少なくて、靖国神社近くの駐車場に車を停めることができました。靖国神社は、思ったよりも参拝客が多かったですね。昨年の4月29日(ゴールデンウイークの初日)に私は、混雑を避ける形で、早朝の皇居前広場から靖国神社までを散歩したことがありましたが、あの時は8時ちょっと前でしたけれども、皇居前も九段下もほとんど人が居ませんでしたが、この靖国神社は参拝客が思ったよりも多くいらっしゃいました。あの日は4月29日ということもあったのでしょうが、日本国民の皆さん、靖国神社にお参りするということを決して忘れていらっしゃらないという実感、これは現地に行ってみないとわからないかもしれない実感を得ることができました。

靖国神社

千代田区

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拝殿前にて、二礼二拍手一礼のお参りをします。ノボリが立っていて、アッツ島の遺族会の集まりが、この日に靖国で行われたようです。アッツ島の戦いは昭和18年5月12日から5月30日ごろに行われた日本とアメリカの戦いで、日本のアッツ島守備隊は全滅しました。玉砕という言葉で初めて報じられた戦いということで、続くキスカ撤退戦とともにご存じの方も多いかと思います。今からちょうど82年前の話です。以前は、靖国神社へお参りすると、「甲飛第〇〇期」といったような戦友会の集まりが行われていたりしましたけれども、ゼロ戦パイロットの最年少が昭和3年生まれといいますから、昭和3年生まれの方は今年で97歳になられるわけでして、戦友会というものも開催されなくなっているのかもしれません。しかし、私が学生のころから近年までに、この靖国神社ですれ違った、「高齢で在りながら、かつ、壮健なたたずまいの男性」の一群の中には、今となっては戦記物でしか、おめにかかることが出来ないような伝説の搭乗員あるいは空中勤務者という方々がいらっしゃったのかもしれないなと。なんとも惜しいことをした、直接お話を聞いてみたかったなとも思いますが、そんな私の希望も、もう叶うことはないでしょう。

靖国神社遊就館

千代田区

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本日は靖国神社の遊就館を見学していきます。

靖国神社遊就館

千代田区

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そろそろ開館の9時になります。開館前にすでに20人から30人ほどの見学者が開館を待っている模様です。

靖国神社遊就館

千代田区

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こちらは海防艦顕彰碑ですな。靖国神社のウェブサイトによれば、「海防艦は船団護衛と沿岸警備を主任務とする排水量約800トンの小艦(しょうかん)です。優秀な対潜対空兵器を装備し、北は千島から南はシンガポールに至る海域で任務を遂行しました。しかし建造数189隻の内85隻が海没し、1万余の尊い命が捧げられました。その奉慰顕彰のため、この碑が昭和55年海防艦顕彰会によって奉納されました」とあります。太平洋戦争時の日本の駆逐艦の排水量はだいたい2,000トン代ですから、それよりもずっと小型の船ということになります。ちなみに松型駆逐艦ですと基準排水量が1,252トン、陽炎型駆逐艦の雪風は基準排水量が2,033トン、大型の防空駆逐艦である秋月型駆逐艦は基準排水量が2,701トン、高速駆逐艦の島風は基準排水量が2,567トン、軽巡神通は基準排水量が5,195トン、重巡最上は基準排水量が11,200トン、戦艦長門は基準排水量が39,130トン、戦艦大和は基準排水量が64,000トンとなります。大和のデカさが際立ちますね。ちなみに戦艦三笠は基準排水量が15,140トン、氷川丸は総トン数が11,622トン、砕氷船宗谷は基準排水量が3,800トンです。

靖国神社遊就館

千代田区

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そしてこちら、画像中央に「海防艦 志賀」とあります。この海防艦・志賀は、1945年3月20日竣工、同年4月8日の戦艦大和の海上特攻に先立ち4月6日に前路掃討作戦を実施するなどし、8月15日の終戦後は掃海艇として掃海の任務に就き、1954年(昭和29年)には海上保安庁の巡視船「こじま」となって、以後、1965年(昭和40年)に退役するまで巡視船として活動します。そしてその1965年に、千葉県千葉市と広島県呉市が招致争いをした結果、千葉市に払い下げられて「千葉市海洋公民館」として1998年まで、千葉市に現存していました。1998年に解体されてしまいまして、現在はその跡地に建設された「高洲スポーツセンター」内に「こじま」の展示コーナーが作られているそうです。「1998年まで現存」した旧海軍の海防艦ということで、写真が多数残されていて、ネットでもその一部を観ることができます。しかし、1965年当時に、千葉市ではなく呉市がこの海防艦を入手していたならば、呉市は海防艦・志賀を解体しなかっただろう、残念だなと私は思います。

靖国神社遊就館

千代田区

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さて、遊就館に入館です。遊就館ではこの「エントランスホール」と、「大展示室」での写真撮影は可能です。それ以外は基本的に撮影不可のようですね。このゼロ戦は、ラバウルの滑走路付近に放置されていたものが昭和49年に回収されて、昭和50年に日本に里帰りしたものを、原田信雄さんという方が昭和55年(1980年)に入手し復元を開始して、1999年に復元を完成、2002年にこの復元機を靖国神社へ奉納したと案内板にありました。原田信雄さん、この方は毎年8月の1ヶ月だけ開館する「河口湖自動車博物館・飛行館」の館長さんで、河口湖自動車博物館・飛行館を私費を投じて設立したお方ですね。河口湖の博物館では、ゼロ戦・ハヤブサ・一式陸攻(胴体)・桜花・93式中練習機などのレストア機の展示に加えて、昨年は彩雲の展示もあったようです。さて、このホールから2階へ上がり、番号が振られた展示室を1番から18番まで観て周り、大展示室を経て19番20番の展示室を出てから、特別展の「終戦80年戦跡写真展 今も残る英霊の足蹟」を観るというルートになります。第16展示室から18展示室では、高橋武男さんという方(ルソン島で戦病死)の、幼い娘さんとの可愛らしい手紙のやり取りや、(特攻で亡くなった息子や夫に宛てた)御遺族が戦後に書かれた手紙などを読んで、これはじっくりと読んで、しばし時を忘れるという時間を過ごしました。

靖国神社遊就館

千代田区

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大展示室の展示物です。手前が海軍の「三年式八糎高角砲(さんねんしきはっせんちこうかくほう)」で奥が陸軍の「八八式七・五糎野戦高射砲(はちはちしきななてんごせんちやせんこうしゃほう)」です。

靖国神社遊就館

千代田区

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こちらは「九七式中戦車」です。秘匿名称(コードネーム)が「チハ」と呼ばれます。さて、以下は遊就館の展示から少し離れた話なのですが、作家の司馬遼太郎もこの戦車に馴染みがあるそうですね。司馬さんは、実はこの戦車に愛着を持っていたのではないか、とも言われていて、実に興味深い逸話となっています。司馬さんはチハについて「この戦車の最大の欠点は戦争ができないことであった。(中略)チハ車は昭和十二年に完成し、同十五年ごろには各連隊に配給されたが、同時期のどの国の戦車と戦車戦を演じても必ず負ける戦車だった」という評価を下されていまして、受け取り方によっては痛烈な批判とも受け取れる内容なのですが、20歳から22歳までの青春の2年間を戦車兵として過ごした司馬さんが、「必ず負ける戦車」という兵器としては合理性が全く無い乗り物に対して、実は愛着を持っていたという逸話は、実に面白いと私は思いました。

靖国神社遊就館

千代田区

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こちらは戦艦陸奥の副砲です。昭和48年(1973年)に引き揚げられた14cm砲です。

靖国神社遊就館

千代田区

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副砲の塗装色は、内舷(艦内部分)は白色で、外舷(外に露出している部分)は軍艦職のねずみ色、砲身上部の白線は、艦橋の副砲指揮所から副砲の向き(砲口の位置)を確認するための目印とのこと。

靖国神社遊就館

千代田区

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特攻兵器の桜花(レプリカ)と艦上爆撃機の彗星です。桜花は755機が生産されて、10回の特別攻撃で55名が亡くなられ、その母機(一式陸攻)の搭乗員は365名が亡くなられています。確認された戦果は7隻(1隻撃沈・2隻大破除籍・1隻大破・3隻損傷)とのこと。桜花の搭乗員は、敵が近づいた後に母機である一式陸攻から乗入口を通って桜花に乗り移り、母機から切り離されて敵艦へ突っ込む仕様で、桜花が切り離された後は防御が難しいと判断したアメリカ軍は、桜花が切り離される前の一式陸攻を撃墜する防御戦法を採用したそうです。

靖国神社遊就館

千代田区

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艦上爆撃機・彗星一一型です。日本に、というより世界に現存するたった1機の、貴重な復元機のようですね。遊就館の見学者は外国の方も多かったです。この後は特別展の「終戦80年戦跡写真展 今も残る英霊の足蹟」を観て、靖国神社を辞します。

航空科学博物館

芝山町(山武郡)

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時刻は15時05分、成田空港に隣接する航空科学博物館へやってきました。日曜日の午後3時ということで、家族連れが多かったですね。

航空科学博物館

芝山町(山武郡)

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こちらはボーイング747の機体の輪切りを観ることが出来ます。いわゆるジャンボジェット機ですね。一番上が2階席、真ん中が1階席、その下が貨物スペースとなっています。

航空科学博物館

芝山町(山武郡)

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ジャンボ機(ボーイング747)は生産が終了し、各航空会社でも引退が進んでいますね。

航空科学博物館

芝山町(山武郡)

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博物館の展望台にでますと、旅客機や貨物機の離着陸を観ることが出来ます。

航空科学博物館

芝山町(山武郡)

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離陸と着陸が同じ滑走路で行われていますな。しばらく降りてこないなと私が思っていると、タキシングしてきた飛行機がランウェイエンドに出てきて、エンジンをふかし轟音とともに離陸していきます。

航空科学博物館

芝山町(山武郡)

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近くにいた若いお母さんがお子さんに、次はどこそこの飛行機がおりてくるよと、例えばこの写真ですとアナの飛行機が降りてくるよと教えておられます。なるほど、フライトの状況を世界規模かつリアルタイムで知ることが出来るアプリをチェックしているのですな。私は隔世の感を覚えます。私が学生のころは、あれは羽田空港でしたけれども、空港近くの公園まで行って、マニアの先輩がトランシーバーぐらいの無線の受信機を持ってきたのを周波数を合わせて、管制官とパイロットとの交信を直接聞きながら、次は離陸だ、次は着陸があっちから来るなどと、やっていた記憶があります。

航空科学博物館

芝山町(山武郡)

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短い間隔で大きな旅客機が着陸し、離陸し、また着陸しとコントロールされていますね。おお、あれはジャンボ機ですな。しばらく見学して場を離れます。飛行機の離発着ってのは、ただ見ているだけで心がスカッとするというか解放されるというか、良いものですね。それでは今晩の宿へ向かいましょう。成田から北上し、霞ケ浦の北側の縁を通って小美玉市へ向かいます。

HOTEL R9 The Yard 小美玉

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小美玉(おみたま)のJR羽鳥駅近くに2024年5月5日にオープンした「HOTEL R9 The Yard 小美玉」にやってきました。本日はこちらのコンテナホテルに宿泊します。フロントでチェックインをしますと、部屋の鍵代わりとなる番号が発行されます。この数字を部屋の扉についているテンキーに入力するとカギが開くという仕組みです。ですから、この数字は忘れることはできないし、チェックインの手続きの最中に、誰かに見られたりすると(立てかけたタブレットに表示されるので、フロントが混んでいると他人に見られる可能性があります)非常に危険だと思いますので(他人が部屋を開けることができるので)、鍵の代わりとなる数字の発行作業の際は、周りに人がいないことを確認した方がいいでしょう。この時は周りに誰もいませんでしたので、無事にチェックイン作業を終え、明日の朝の軽食となる冷凍食品のお弁当を受け取って、部屋へ向かいます。

HOTEL R9 The Yard 小美玉

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ああ、いいですねー。まず新しいのでとても清潔感があります。ユニットバスはやや狭いが、水回りも綺麗ですね。リネン類も清潔です。照明も感じが良いし、コンテナで部屋が独立しているので、隣の音が気にならないし、こちらの音が響く心配もありません。気持ちよく就寝し、明日に備えます。

2日目2025年5月26日(月)

筑波海軍航空隊記念館

笠間市

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さて、小美玉市の宿から車で20分で、笠間市の筑波海軍航空隊記念館へやってきました。現在は「茨城県立こころの医療センター」の敷地内にあります。筑波海軍航空隊関係の見学をする際は、奥の病院に近い駐車場ではなく、西側の門を入ってすぐの駐車場に車を停めることになっているようです。車を停めてまずは屋外の号令台を観に行きます。いや、すごいですねー。しっかりと残っていますね。この号令台の後部にドアが付いていて、中へ入ることが出来る構造になっているそうです。そして、「地下戦闘指揮所に繋がっているという伝承があり地下通路(地下下水道)へ繋がるマンホールなどが近隣にあったのかもしれません」という案内板がたっていました。興味深いですね。

筑波海軍航空隊記念館

笠間市

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記念館に入館します。館内は写真撮影が禁止の表示が無い場合はすべて撮影可能です。館内の展示はとても情報量が多い展示となっていて、一つ一つじっくりと見学すると、かなりの時間を要することになります。こちらは「航法計算盤四型」です。「目標物がない海上を飛行機で飛んで、目的地に正確に着く為には時間と速度と飛行方向を正確に定め、途中で風に流されていないかと風向も計算して、飛行方向を修正しながら飛ぶ必要があります。その計算をするのが『航法計算盤』で、いろんな形があります。この計算盤は二つ折りの『航法計算盤四型』といい、戦闘機など一人で操縦しながら航法の計算もしやすいように工夫されたものです。飛行中は、太ももに黒いゴムバンドで固定し、操作しない時は二つに折りたたんでいますが、ボタンを押すと展示のように開いて計算できるようになっています」とあります。これはまさに命の綱で、単座の戦闘機乗りは操縦・通信・航法などを全部自分一人でやらなきゃいけなかったわけですな。戦記物を読んでいると、洋上でのロストポジションの話が時々出てきます。これは己の機体の位置を判断する基準となる景色の無い海上での迷子を意味していて、自分がどこにいるのか、どこへ向かっているのかがわからなくなってしまう状態です。飛行機には燃料の制限があるので、間違った方向へ飛んでいると、飛べども飛べども陸地が現れずに、( 次に続く→ )

筑波海軍航空隊記念館

笠間市

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( → 前からの続き)最終的にはガス欠により海上への不時着水を覚悟しなければならないが、海上にうまく着水したとしても、よほどの幸運が無ければ発見されることがなく、結果、生還できないということになります。私が戦記物で読んでいるということは、すなわち、その筆者であるパイロットは生還した人であって、実際には記録に「未帰還」と記されているパイロットの中には洋上でのロストポジションの結果、帰って来られなかった人もいらっしゃったでしょうし、当時の日本軍のパイロットの中にも、近くに陸地が見えないような海上に不時着水して救助される可能性の少ない幸運にかけるよりも、ガス欠でいよいよ飛び続けられない折には、ひとおもいに海へ突っ込んで死のうと覚悟を持っていた方もいらっしゃったようですね。画像は東京芝浦電気株式会社製の「紫外線灯」です。操縦席の計器類には蛍光塗料が塗られていて、この紫外線灯を夜間に当てると計器類が光るのでしょうな。

筑波海軍航空隊記念館

笠間市

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さて、24分間のビデオを観ます。神雷部隊に関する展示とビデオです。神雷部隊とは、昨日、靖国神社の遊就館で見学した特攻兵器・桜花の部隊です。

筑波海軍航空隊記念館

笠間市

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神雷部隊の編成は、実際に体当たりを行う「桜花隊」、桜花を運ぶ「陸攻隊」、桜花と陸攻を掩護する「直掩隊」に分かれていたという掲示です。1945年3月21日、第一次神雷桜花特別攻撃隊として出撃した陸攻18機(桜花15機)、直掩ゼロ戦30機は、敵の戦闘機の迎撃を受けて、桜花を切り離す前の陸攻18機全滅、ゼロ戦は10機が未帰還、、わずか10分の空戦で戦死者160名という結果になります。そこで「50番爆戦」による特攻が検討されると。50番爆戦というのは、50番と呼ばれた500キロ爆弾を装備したゼロ戦のことで、通常は250キロ爆弾を装備するが250キロでは威力不足であり、桜花(1200キロ徹甲爆弾装備)では一式陸攻から切り離される前に敵機に落とされる。だから500キロ爆弾を吊って行こうという発想です。

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神雷部隊の展示室の隣の部屋にやってきました。こちらはほぼ撮影不可の部屋で、ゼロ戦の変遷についての展示が為されていて、この内容がそのまま「筑波海軍航空隊戦闘機隊 蒼空へゆき去りし群像」という本の内容の一部ですので写真撮影が禁止になっている模様です。展示は非常に内容が濃くて、情報量も多いので、この部屋も閲覧は時間がかかりました。ゼロ戦の操縦席の模型があり、これは写真撮影が可ということで撮影します。これは現代に造られた模型でしょうけれども、実際にここ筑波海軍航空隊が戦闘機の教育部隊であった時にも、このような模型を作って地上でのイメージフライトの訓練に使用していたかもしれませんね。飛行機の操縦訓練というのは、一発一発がとても貴重であって、燃料も喰うしお金もかかるし、訓練生が多いと訓練生一人当たりにかけられる飛行訓練の時間が少なくなってしまう、つまり、地上での訓練生の振る舞いが、とても大切になってきます。具体的に言うと、実際に飛行した記憶と教官から注意を受けた事柄を、地上に降りてから何度となく反復・反芻して、何十回と繰り返し飛んだ効果を得る「イメージフライト」をするということは、昔も今も、官も軍も民間も変わらない光景だと思いますが、昔も、画像のような良くできた模型を作ってイメージフライトの補助にしていたかもしれないなぁと思いました。1階の見学が終わり、2階へ向かう階段の展示物を観ます。

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1階から2階への廊下及び階段にある展示も興味深くて、まずは現在、この航空隊跡地に何が残っているのか・未発見と予想される史跡は何かなどの展示があります。全国に第二次世界大戦当時の飛行場の跡地というのがありまして、私も2.3は見て周ったりしているのですが、この筑波海軍航空隊跡地は特に興味をそそられる・検証に適している飛行場跡(飛行隊跡)だと感じました。というのも、昔は海軍や陸軍の飛行場だった敷地が、現在では跡形もなく工場の敷地になっていたり、サッカースタジアムが建っていたり巨大団地になつていたり公園になっていたり、あるいは飛行場として現在も機能しているので立ち入ることが出来なかったりという場所が多いものですからね。例えば神奈川にある厚木飛行場ですが、昭和20年の敗戦直後の航空写真には、プロペラや武装を外されガソリンをかけて燃やされた戦闘機の機体が、飛行場の外れに山積みにされたり谷へ落されたりという画像が写っていますが、現代の地図と見比べて、(日本軍の飛行機が捨てられていたのは)だいたいあのあたりだろうと見当をつけることはできても、そこに何かが埋まっているかもしれないということでの発掘は、ほぼ不可能なわけですね。それに対してこの航空隊跡は、当時のまま現存しながらも未発見の遺構があるかもしれない(終戦当時敷地内に埋められた紫電・零戦などの情報や証言が伝わっているそうです)ということで、→

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→ 茨城県などによる掘削調査などが時々行われているようです。今後の発見に期待したいところです。そして、この画像と一つ前の画像を見比べてもわかるように、滑走路の跡と現在の道の区割りとが一致している場所が多くあるので、道路を歩きながら飛行場跡地を検証するということも比較的容易と思われます。ここはなかなかいいですよー。滑走路跡の近くにホテルもありますので、今度はそこに泊まって、ゆっくりと歩いてみたいですね。

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さて、大変に興味深い展示物がありました。「注意事項記録 第2班2組」という展示物ですが、案内には「吉井恭一さんの訓練記録。教官の指示を受け訓練を受ける様子が詳細に記録されています。同じ組の岩本徹三さんの訓練記録も含まれています」とあります。筑波海軍航空隊はもともと海軍の基地航空隊の練習部隊(練習航空隊)ですので、海軍の飛行機乗りの多くがここで訓練を受けて実用部隊へ巣立っていったわけですね。そして上記の「岩本徹三さん」ですが、かなり名前を知られている日本の撃墜王の一人です。1916年に生まれ1934年(昭和9年)に呉海兵団に入団し、1936年霞ヶ浦海軍航空隊に入隊、霞ケ浦友部分遣隊(筑波海軍航空隊)で教育を受けて1938年に初陣、以後終戦まで生き抜いて、敵機202機を撃墜したと言われています。ラバウルのニュース映像で「撃墜69 全機帰着」と書いて下線を力強く2本引く方が、あの方が岩本さんとのことです。長髪の撃墜王とも言われ、長髪といっても「短髪じゃない」ということですけれども、独特な戦法と抜群の射撃で日本の為に戦った方です。詳しくは「零戦撃墜王」という本があります。岩本さんは戦後の昭和30年に38歳で亡くなられたのですが、生前に書き残された回想録を元に昭和47年に出版されました。

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そしてこちらの記述です。「勝見教官 御注意」とあります。飛行前の試運転から計器の点検、飛行をはじめてから1時間の燃料の使い方、「服装は厳正なること」、出発前は心に余裕を持つこと、「声が小さい、元気がない、若々しいキビキビした気持ちでやれ」、四方に気を配れ、飛行中は回転計・速力計・高度計などへの注意を等分に配れ、「見張りは友部と違って多種の飛行機が飛んでいるから特に厳にせよ」とありますな。ほうほう。最後の「友部と違っているから」というのは、筑波海軍航空隊から他所の飛行場へ飛ぶルートで練習をしていたのでしょうか。頑張ってますなー、練習生諸君。

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そしてこちらは麻生さんという方の筆記帳です。筑波海軍航空隊での零戦による戦闘機特修の際、分隊長や教員から指導を受けたことなど、飛行前・飛行後と事細かに書かれている筆記帳です。「12月5日火曜日」ありますので、1944年(昭和19年)のようですね。「離着陸同乗 本間中尉」とあります。1.「T形布板に平行に離陸すぺし」 2.「着陸後の保針 エルロンの活用足りぬ」 3.「パスの目安は水平飛行の目安に略同し」 4.「離陸時はブースト計は必ずみるべし」とあります。いいですねー、頑張っておられますな。T形布板と平行に離陸すべしとは、どういう意味ですかね、前輪2つと尾輪1つの三点姿勢から滑走をはじめてスピードが乗って浮力が出てくると、エレベーターを操作して後ろを上げて前輪2つの地上滑走から離陸、ということになると思いますが、この離陸ポイントに「T形布板」が地面に貼ってあるのでしょうか。そもそも空母からの離陸、空母への着陸を想定しての訓練でしょうから、離着陸の滑走距離は厳密に決められていることでしょう。「離着陸後の保針 エルロンの活用」という所がちょっと難しい、普通は地上滑走では方向舵(つまりラダーペダル)を使いますね、エルロンを使う場合は横風が強い時に機体が煽られないように舵を充てるのかなぁ、機速がある時は下手にエルロンを使うと傾いて、翼端をこすったら、エリミネートまっしぐらな気がしますが。

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12月11日月曜日には「地形偵察同乗」という科目です。第一旋回や第二旋回の目安の記述とともに、「筑波空を見失いたる場合の処置・発見法」という内容がなかなか興味深いですね。見失いたる時、つまりロストポジションで自分がどこにいるのか、筑波海軍航空隊の滑走路がどこにあるのかわからなくなったときは、まず、90度の方向、つまり真東へ飛ぶと必ず海岸線に出るから、そこから九十九里浜を見つけて、次に、(その海岸線を北へたどると)大洗付近の海岸線を見つけられるから、その近くに「涸沼(ひぬま)」があるのでそれを見つければ、270度の方向へ、つまり涸沼から真西へ飛べば良い(筑波空へ至る)と。なるほど。その通りでございます。「オーバーあるいはショートは厳に慎むべし」、これは、オーバーとは着陸目標ポイント(エイミングポイントの先)を飛び越えて接地すること、ショートとは着陸目標ポイントの手前に接地してしまうことだと思います。空母に着陸することを考えれば、オーバーもショートも(特にショートは)、命が助からない可能性が大ということになります。この点は特に指導が厳しかったと思います。とにかく、訓練生はよく頑張っていたなと。1944年12月時点で、このような初歩の初歩を訓練している飛行兵が、そのあと数ヶ月もしないうちに、迎撃だ、空戦だ、特攻だと、実戦に、それも負け戦に投入されるとは、随分と酷い話だと私は感じました。

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記念館の展示をじっくりと拝見していましたので、少し疲れました。滑走路跡の方まで足を延ばすのは、こちらに再訪した時にしようかなと、少し計画変更です。記念館の展示室を出て、隣の旧司令部庁舎(画像の建物)へ向かいます。1938年(昭和13年)に建てられて、ほぼ当時のまま現存している筑波海軍航空隊本庁舎です。

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本日は見学者は私一人かなと思うくらい、本庁舎の中では誰にも会いませんね。筑波海軍航空隊は霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊として設置されて以来、長らく練習機の操縦教育を担当してきましたが、1944年(昭和19年)3月15日をもって戦闘機の実用機過程の練習航空隊になります。海軍の戦闘機乗りの戦記物を読んでいると、だいたいこの筑波海軍航空隊が、霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊(もしくは筑波分遣隊)という名称で出てきます。前述の岩本徹三さんもそうですが、戦争初期の日本海軍の搭乗員の練度は相当に高かったようですね。それはたっぷりと練習に練習を重ねて、大切に育てたからに違いありません。彼らは「捻りこみ」という格闘戦の必殺技を編み出します。この技は、とても感覚的なもので、文章などでは伝わりにくく、どんなものなのか、どんな操作をするのかというのが今一つ伝わりにくい技です。私は大学1年の時に、坂井三郎さんの「大空のサムライ」を読んで、この「捻りこみ」というものがあまり理解できずに、その「捻りこみ」を解説しているらしい大学教授の著作を読んでみて、いよいよ更にわからなくなりという過去の想い出があります。

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多くの飛行機乗りを見送ってきたであろう本庁舎の廊下です。さて、「捻りこみ」です。15年程前に「零戦隊長藤田怡与蔵の戦い」という本を読みまして、これは阿部三郎さんという海軍兵学校第73期卒業の方の著作なのですが、この本の中の「捻りこみ」の記述が一番わかりやすいかなと、感心いたしました。この阿部さんという方も、第42期飛行学生として1945年2月にここ筑波海軍航空隊を(あるいは谷田部かもしれませんが)卒業された方のようですね。その阿部氏の記述です。まずA機とB機が出てきます。「まず、A機が針路零度で真北に飛んでいたとする。このA機にB機が後上方から追いすがり、まさに機銃を発射して撃墜しようとする」 → 「その一瞬、A機は針路零度のまま、右の方向舵(フットバー)を一杯に蹴るように押し込み、同時に操縦桿(スティック)を左に一杯傾けながら手前に引く」 → 「引くといっても穏やかに引くのではなく、右の手と左の足をスティックに絡ませて全身の力をこめて引く」 → 「A機は針路零度のままで左に横滑りしながら宙返りの態勢に入る」 → 「追いすがったB機は、真正面のA機が左に流れながら上空に舞い上がっていくので、あわてて、左にバンク(翼を傾けて)を取りながら、A機の後を追って、宙返りに入る」 → 「こうするとB機は左向きの(360度方向から270度方向に向いた)宙返りになってしまう」 → (次へ)

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(前から)→「一方A機は、針路零度のままで左に横滑りしながらの宙返りなので、真円を描いた宙返りではなく、斜め宙返りに横滑りが加わった複雑な円になる」→「この宙返りの頂点付近(地球が頭の上にきている)右下を左上に上がってこようとしているB機にたいして、フットバーを一杯左に、スティックを一杯右にに引くと、A機はひらりとB機の後ろにまわりこむことができる」、これで「捻りこみ」の完成です。私なりに解説すると、AはBを勘違いさせて、Bは風に正対した真円の宙返りをすると。ところがAは、横滑り(風を横から機体に受ける)した風の抵抗の大きな宙返りをするため、真円ではなく、より半径の小さな円を、よりゆっくりと描くことになります。で、宙返りの頂点で逆の操作をすることによって、風に正対して抵抗の少ない姿勢で、速度が元の速いスピードに戻った状態で、B機の後ろに着くことが出来るという方法ですかね? 速度が戻らないとマズイし、機体にかかる荷重は相当なものでしょう。結局のところ、自分でゼロ戦に乗って実際に操作してみないと、理解できない・実感できない技なんだなと思います。シミュレーターや机上論では、まず味わえないのが、実際の重力の変化ですからね。それに実戦では後ろを取られるという段階で既に失敗で、そういう場合でも、上に逃げる前にまずは垂直旋回で相手の射線を外してから相手が苦手とする縦の運動に移るのが基本でした。

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ここから、画像の左手に号令台が見えます。その前は運動場になっていて、飛行学生の多くが整列したり走ったりしていたのでしょう。みなさん、操縦訓練をよく頑張られましたな。鬼教官もいらっしゃったようですからね。鬼の○○サンと呼ばれた教官もいたようです。複座の後席に座る教官から、ポカリポカリと頭を殴られるので、飛行帽の下にクッションとなる手拭など詰めておいても、そんなことは教官はすべてお見通しで、地上に降りたところでまたポカリと。訓練生も、そんな教官にお返しをする瞬間があるそうで、キリモミからの回復という訓練で、飛行機が錐もみに入ってから地上に向かって10回ほど回転したら回復操作をするのだが、それを錐もみ回転が10回を過ぎても回復操作を始めないと、後席の教官から「なにをしているんだ!早く引き起こせ!」と伝声管ごしに怒鳴られると。そこでおもむろに、急激な操作で回復操作を行うと、前席の訓練生より後席の教官に大きなG(重力)がかかるそうで、しかも教官は自分で操作してませんからね、予想していたよりも早く、かつ、急激な操作でより大きなGを浴びると。伝声管ごしに、教官のうめき声が聞こえてきて、訓練生は「ざまあみろ」とうっぷんを晴らすとか。しかし地上に降り立った後の「指導」を考えると、これでうっぷんを晴らせるのか、なんとも言えない点もあるなと私は思いますね。ハハハ。教官も訓練生も、本当にお疲れ様でした。

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海軍のパイロットの話で、これはとても興味深い話で、「観相師」という人がいたそうです。パイロットとしての適性があるかどうかを「顔 (もしくは顔の骨)」で判断する「水野さん」という方が嘱託でいらっしゃって、この人が飛行兵を希望する者の顔を観てからOKを出さない限り、その希望者はパイロットにはなれない。この話は、遠藤周作さんや司馬遼太郎さんのエッセイでも私は読んだことがあり、複数の戦記物にも記述があります。合理性を追求するはずの「軍隊」という組織において、ものすごく不思議な話ですよね。(司馬遼太郎氏にも、名字と顔つきからその人の出身地や先祖を当てる特技があったそうです) この「水野師」、昭和20年の6月に九州の航空基地を周った時に、そろそろ戦争は終わると予言、「大半のパイロットの顔から死相が消えている」からという理由だったそうです。また、東京を歩く多くの人に死相がでているが、大阪にはこれがないということで「関東大震災」を当て、銀座を歩くご婦人に「後家相」が出ていることから、大きな戦争の開戦を予言したなどなど。海軍では「形態性格学」と呼んだそうです。さて、この施設には、また来てみたいですね。本庁舎だけではなく、広い敷地を歩いてみたいものです。筑波海軍航空隊跡地を辞し、本日の宿である栃木市大平町の「藤や旅館」へ行く前に、栃木市総合運動公園に寄って、少し泳いでいきたいと思います。

栃木市総合運動公園

栃木市総合運動公園にやってきました。広い施設ですねー。プールは、思っていたよりも少し古い施設のようです。こちらの25mプールで2時間弱、気分よく泳ぎますが、最近はバタフライの練習も行き詰って停滞気味です。「学習の高原」というヤツでしょうか。ようやく泳げるようになったものの、速く泳いだ時の25mの記録はせいぜい23秒前後から進展せず、疲れないように泳いでも50mまでがせいいっぱい。吉永小百合さんのように、バタフライで1kmを泳げる日は、私に来るのでしょうかねー。学習の高原を突破するのは、いつになるのでしょうか。

栃木市総合運動公園

学習の高原の突破というと、私の経験なのですが、私の小学生のころですね、クロールで50mを全力で47秒くらいで泳げるようになったときの練習で、「ダウン」で「50mを50秒以内で帰ってきなさい、10秒ほど休んで(60秒サークルで)再スタートしなさい、それを10本、ただし50秒以内で帰って来られない場合は1本に数えない」という練習課題をコーチに課されました。「ダウン」とは「クールダウン」ですからね、その日の練習の締めくくりということで、本来はゆったりと泳いで身体の火照りを冷ますような課題になるわけですが、近々に全力で1本47秒でようやく泳げるようになった小学生達は、最初の数本は頑張って50秒以内に帰ってくるものの、どんどん疲れて、あとは50秒で帰って来られない、そうすると、10本泳がないと終わらない練習なのに、あとの5.6本が全然減らない、更に疲れる、これはもうだめだ、コーチは僕たちをいつまでも水から上がらせないつもりだと、もうどうにでもなれと、開き直った時に、不思議なもので、50mを50秒以内で帰って来られるようになりまして、これは私だけでなく、一緒に練習している皆がですね、そして無事に「10本」泳いで練習終了と。あれは学習の高原の突破ではなかったかと、コーチはそれを知っていて、一見、無理難題な課題を小学生に課したのでしょうな。本日のお宿へ向かいます。

藤や旅館

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栃木市総合運動公園から車で20分ほど、東武日光線の新大平下駅近くにある「藤や旅館」に到着です。とてもきれいな旅館です。

藤や旅館

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ああ、いい部屋ですね。浴衣もあります。まずはシャワーを浴びて本日の汗を流し、お夕飯を待ちます。

藤や旅館

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じゃじゃーん、本日のお夕飯でございます。本日の泊りは私一人ということで、ゆったりとごはんをいただきます。

藤や旅館

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こちらは、「いもフライ」、栃木県佐野市の御当地グルメとのこと。熱々でおいしいですな。

藤や旅館

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牛鍋をいただきながら、女将さんに、私が今回訪ねてきた場所、明日たずねる場所などをお話ししますと、女将さんのご家族の戦中・戦後のお話などを女将さんがお話してくださいまして、貴重なお話をどうもありがとうございました。明日は佐野市へ向かいます。

3日目2025年5月27日(火)

藤や旅館

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いろんなおかずが沢山あって、おいしい朝食でした。お宿をチェックアウトして、栃木県佐野市植野町へ向かいます。

赤城神社 (栃木県佐野市植野町)

植野町の赤城神社へやって参りました。こちらは作家の司馬遼太郎とゆかりのある神社です。画像の石柱は、少し読みづらいのですが「明治三十九年 四月吉日建」と彫られています。ということは、司馬遼太郎さんがここにいらっしゃったときには既に在った石柱ということになります。

赤城神社 (栃木県佐野市植野町)

「神社の森と戦車隊」という案内板が立っています。(以後、漢数字を算用数字に直しています)。案内板の内容です。「昭和20年(1945年)の夏、6月末から9月半ばまで、太平洋戦争のために戦車第1連隊が佐野に配備された。戦車77両、装甲車21両が神社の森や山麓に分散され、兵士約800人は市内の7つの国民学校(小学校)の校舎の一部を兵舎として駐屯していた。ここ赤城神社の森には、第5中隊の戦車12両、装甲車3両が隠蔽されていた。兵士たちは、すぐ近くの植野国民学校を兵舎としていたが、その中にいた第3小隊長の福田定一少尉が若き日の司馬遼太郎先生であった。司馬先生はその作家生活の中で佐野をたいへん懐かしがり、多くの著書に佐野についての記述がある。佐野は、司馬文学の出発点と思われている。 平成23年1月 吉日 司馬遼太郎文学碑建立委員会」とあります。

赤城神社 (栃木県佐野市植野町)

当時の植野国民学校正門。立派な校舎ですね。第1戦車連隊・第5中隊・第3小隊の小隊長である福田定一少尉は昭和20年6月から9月まで、ここに寝泊まりをしていました。6月の梅雨の季節から7月の梅雨明け、8月の暑い夏と、どんな気持ちで自分の出番を待ち続けていたのでしょうかね。

赤城神社 (栃木県佐野市植野町)

佐野市内に配備されていた装甲車、とあります。画像から判断して「一式半装軌装甲兵車」(秘匿名称・ホハ)と思われます。前輪がタイヤで、後輪の代わりにキャタピラーがある「半装軌車」ということですね。最高時速は時速50km、3名の乗員に兵員12名(もしくは2トンの貨物)を載せることができたそうです。本土決戦用の戦車第1連隊には、この装甲車の他に「一式装甲兵車」(秘匿名称・ホキ)も配備されていたようです。

赤城神社 (栃木県佐野市植野町)

こちらは佐野市内に配備撮れていた一式中戦車です。一式中戦車の秘匿名称は「チヘ」、当時の日本が実戦配備していた最新鋭の戦車とのこと。大戦中の日本の中戦車の変遷は、九七式中戦車→新砲塔換装九七式中戦車→一式中戦車ということのようですが、戦時中に実戦を経験した日本の主力戦車はこの一式ではなく九七式チハだったようです。福田定一少尉(司馬遼太郎)が、どの戦車に乗っていたのかは私はわかりません。彼のエッセイ(歴史と視点・私の雑記帖「戦車・この憂鬱な乗り物」)の中に私を戦慄させる話がありました。すなわち、「徹甲弾というのは、戦車の装甲を外から中へ貫いて中へ入りこむと、今度は中から外へ貫き出ることが出来ずに戦車の内部(乗員の居住空間)を跳弾となってぐるぐると旋回すると。跳弾は運動エネルギーがゼロになるまで、内部を跳ね回ることをやめない」という内容です。非常に恐ろしい話で、まあ、そういう話を司馬さんがしているので、この旅行記の靖国神社の遊就館の項で書いた「司馬さんは戦車に愛着がある」という見方に、とても驚きました。司馬さんは日本の戦車を時代遅れの頼りない兵器と感じてはいたが、青春の2年間を共に過ごした「乗り物」としての戦車には、それとは別の感情を持っていたのかも、しれませんねー。あくまで、私の想像です。

赤城神社 (栃木県佐野市植野町)

そしてこの集合写真。植野国民学校玄関前での第5中隊の記念写真です。前列右から6人目が司馬遼太郎さんということですが・・・

赤城神社 (栃木県佐野市植野町)

おお。いらっしゃいました。福田定一(ふくだていいち)少尉、後の司馬遼太郎です。彼は終戦時に受けた敗戦の衝撃から、日本史に関心を持つに至り、22歳(かぞえ23歳)の「福田定一」に手紙を書き送るように小説を書いたそうです。さて、敵と戦場で相まみえた場合に、自分の持つ兵器が「兵器」としての存在意義を持つのは、相手がその兵器を持っていない場合、もしくは最低でも同じ能力の兵器を持っている場合までに限ると思われます。兵器としてはまったく相手に歯が立たないような状況、あるいは「時と場合によっては何とか通用する」というような状況で、充分な養成・錬成を受けることなく相手に劣る機材に乗せられて戦場へ送られるなんてことは、もし自分だったら、勘弁してくれと思いますね。例えば「マリアナ沖海戦」ですが、まったく酷い話だと思います。アメリカ軍の兵士は、日本の飛行機があまりにも簡単に撃墜されるので、「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄したそうですが、そこに居たのは「七面鳥」ではなく、家族がいる445名の人間でした。知れば知るほど私は悔しく思いますが、戦死した彼らは私以上に悔しかったろうと思います。兵器としての存在意義があるか、という話は、乗り物や機械として愛着を感じるという話とは全く別の話で、相手に劣る機材を与えられて戦ってこいと言われた福田定一という若者の怒りは、彼の場合は戦車ですが、非常に大きかったに違いありません

赤城神社 (栃木県佐野市植野町)

「なんとくだらない戦争をする、そしてくだらないことを色々してきた国に生まれたんだろうと、一体こういう馬鹿なことをやる国というのは何だろうと、そういうことが、日本とは何かとか、日本人とは何だということの最初の疑問になった」と、司馬遼太郎氏はテレビカメラに向かってお話されているわけですけれども、同時にですね、「昔の日本人は、もう少しマシだったのではないか」ということもおっしゃっていますね。果たして、司馬遼太郎は「もう少しマシ」な日本人に出会えたのか。平成元年の小学6年生の教科書に載った「21世紀に生きるきみたちへ」という文章、これは東大阪の司馬遼太郎記念館にも掲示されていますが、その文章の中で「そこ(歴史のなか)には、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである」と記述されていますから、多分、司馬さんは出会えたのではないかと私は思っております。

赤城神社 (栃木県佐野市植野町)

おやおや。目をつぶって、関係ないよという風情ですが、明らかに私を待っている感じでもありますな。

赤城神社 (栃木県佐野市植野町)

はいはい、お待たせーという感じですか。しばし猫くんにご挨拶をします。

赤城神社 (栃木県佐野市植野町)

赤城神社におまいりをしました。植野小学校の方へ歩いていきます。

佐野市立植野小学校 (栃木県佐野市植野町)

赤城神社から北の方角へ少し歩くと、佐野市立植野小学校があります。広い校庭ですな。福田定一少尉が昭和20年6月から9月にかけて滞在した植野国民学校があった場所です。当時も、これだけ広い敷地だったのですかね? この日、校庭では運動会の全校練習が行われておりまして、随分と多くの小学生が校庭にでております。少子化の問題が顕在化してきているという話を聞きますが、いやいやどうして、これだけの小学生がそろっているとなかなか頼もしいではないか。この全体練習を眺めている父母の方にご挨拶をして少しお話をしていただきますと、どうやらこの週末の土曜日に運動会があるそうで、全校で750人くらいのお子さんがいるとのこと。ははぁ、全校で750人というのは、現在の小学校にすれば多い生徒数の方だろうなと思いました。私の小学生低学年のころは一学年8クラスくらいある学校もありまして、一学年320名くらいですか、そういう時代でした。その時と比べれば確かに子供は少なくなったが、ひょっとしたら、ちょうど良い頃合いなのは今の方かもしれませんな。御父母の方に挨拶をしてその場を離れ、小学校の周りをぐるりと歩いてみます。

植野町公民館 (栃木県佐野市植野町)

小学校の北西隣りに、植野町公民館があります。

植野町公民館 (栃木県佐野市植野町)

この公民館は島田さんという方の邸宅の跡に建てられているそうで、案内板がありました。「この地にあった島田邸は、広大な敷地に母屋のほかいくつかの蔵があった。太平洋戦争末期の昭和20年夏、本土防衛のため、佐野に駐屯していた戦車第5中隊中隊長、西野堯大尉の宿舎となっていた。近くの植野国民学校を宿舎としていた福田定一少尉(司馬遼太郎)は、小隊長として連日この屋敷を訪れていた。後年、作家となる司馬遼太郎にとってこの時期、この地のひとびととのふれあいは心安らぐものであった、と語っている。 平成23年8月吉日 司馬遼太郎文学碑建立委員会」とあります。なるほど、中隊長の宿舎でしたか。

植野町公民館 (栃木県佐野市植野町)

そしてこちらは、公民館の敷地にある文学碑です。「下野の佐野という町は機業地として知られている。いかにも富裕な町といった感じで、どんなに小さな家でもたたずまいが清潔であった。杉板の表面を炭化させた家々の側面がときどき露地をつくっていて、露地の向こうには軒瓦の列と格子戸が見え、その向こう通りをゆくひとの下駄の音がきこえるほど静かだった。私は兵隊にとられて山の中で最初の訓練を受けて以来、二年ぶりで日本の町というものの中を歩いていた。私自身、町育ちのせいか、佐野の露地から露地へ通りぬけるのが、たまらなく好きだった。 司馬遼太郎」とあります。

佐野市立植野小学校 (栃木県佐野市植野町)

もとの植野国民学校、現在の佐野市立植野小学校の正門です。

佐野市立植野小学校 (栃木県佐野市植野町)

学校の周りを少し歩いおります。静かですね。司馬さんは露地から露地へ通り抜けるのがたまらなく好きだったということですが、どこを歩かれたのかな。休みの時間を使って、現在の佐野市役所の方で足をのばしたのかもしれませんな。

佐野市立植野小学校 (栃木県佐野市植野町)

こちらは小学校東側の門です。広い敷地ですね。昨年の7月、東大阪の司馬遼太郎記念館へ行ったのですが、あの記念館でこの小学校の案内を見た記憶があります。

佐野市立植野小学校 (栃木県佐野市植野町)

2024年7月31日撮影の、司馬遼太郎記念館入口の廊下です。(こちらの記念館は建物の内部は撮影がいっさいできませんが、建物へ入るまでは撮影が可能です)画像左下に案内板があります。

佐野市立植野小学校 (栃木県佐野市植野町)

東大阪市の司馬遼太郎記念館の案内板です。栃木県佐野市立植野小学校から移殖された「スズカケ」の樹についてです。「司馬遼太郎は1943(昭和18)年、学徒出陣で中国東北部(旧満州)にある戦車学校に行きました。その後、1945(昭和20)年5月、本土防衛に備えて戦車隊の少尉として栃木県佐野市に戻ってきます。当時駐屯していた国民学校(現・植野小学校)の校庭にそびえるスズカケの木を見て、22歳の司馬遼太郎は心慰められたようです。当時のことを記憶されている佐野市のみなさんが、2011(平成23)年、小学校のシンボルツリーとして大切にされていたスズカケの木のタネとさし木から育てた2本の苗を送ってくださいました。この記念館で大きく育ってくれることを、私たちも願っています」とあります。

佐野市立植野小学校 (栃木県佐野市植野町)

東大阪市の司馬遼太郎記念館に生える佐野市立植野小学校から送られたスズカケの木です。画像中央の木ですかね、まだ細いが、しっかり根付いて大きく育ってほしいものです。

佐野市立植野小学校 (栃木県佐野市植野町)

こちらは現在の佐野市立植野小学校の校庭です。司馬遼太郎が心慰められたスズカケの木は、どれかな? フェンスの外からのぞくことしかできませんが、あの太い幹の木はスズカケの木ですかね。そしてこの旅行記を書いている今、ネットで調べてみましたら、なんと、2017年3月に伐採された模様です。伐採される前の樹の写真を見ますと、デカいですねー、高さ38mだったそうです。樹の下の小学生と比べるとその大きさが際立ちますな。樹に大きな空洞がみつかって危険なので、確かにあの大木が倒れたら危険ですね、残念だが伐採となったようです。実から採取した種が発芽して、苗が敷地内に植えられ後継木として育っているそうですよ。植野小学校を辞します。今度こちらへ来る時は、佐野駅近くの町並みを歩いてみたいなと思いました。佐野から秩父の三峯神社へ向かいます。

三峯神社

秩父市

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三峯神社へやってきました。ここに至るまでの道が、なかなか大変な道でございますな。交通量があるのに、バスも通るのに、離合が難しいような細い場所がところどころにあるという道です。秩父駅辺りまでは気分の良い、車で走りやすい道を走り、道の駅大滝温泉を過ぎてから、16kmのワインディングロードが続きます。画像は三峯神社の三ツ鳥居です。

三峯神社

秩父市

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三峯神社までの道を走っていると「上りの集団」と「下りの集団」のように、車が数台のグループで走るようになるのですが、グループの先頭の車は大変ですね。反対に、後からついていく2台目3台目あたりは、とても楽ちんです。行きは2台目あたりを、帰りはバスの後ろ3台目あたりで走って、楽に走ることができました。画像は三峯神社の随身門です。

三峯神社

秩父市

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14時をすぎていましたが駐車場は8割方、車が停まっていて、参拝者も少なからずいらっしゃいましたね。幸いなことに駐車場待ちの渋滞には巻き込まれませんでした。

三峯神社

秩父市

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拝殿にて二礼二拍手一礼のお参りをしまして、三峯神社を辞します。

大滝温泉 遊湯館

秩父市

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本日は秩父駅近くの宿に素泊まりで泊まります。途中、道の駅大滝温泉の立ち寄り湯によっていきます。料金は750円、タオルは持参です。

大滝温泉 遊湯館

秩父市

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15時ジャストの入館でしたが、混んでいなくてゆったりと温泉を楽しむことができました。男湯は、上階の「ひのき風呂」と下階の「岩風呂」とがあって、ヒノキぶろの方に何人かお客さんがいたので、先に岩風呂へ行きますと、私の他は誰も居なくて、窓を大きくあけ放っているので、解放感があり、気分が良かったですね。今日は運転に気が張りましたからね、のんびりとお湯に浸かり、山からの風も気持ちよく、はるか下に見える川も綺麗な流れですな。お湯はぬるぬるとして良い感じ。いやー、満足満足。宿へ向かいます。

ベーシックホテル秩父

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本日は秩父駅近くのベーシックホテル秩父に泊まります。今回は103号室に泊まり、これは1階のフロントの隣の部屋です。この建物の1階には、飲み屋が数件あって、夜遅くまで賑やかな感じでしたね。

ベーシックホテル秩父

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こちらが103号室。チェックアウトは「部屋をでるだけ」ですので、早朝の三峯神社へお参りに行きたい方などに良いかもしれません。

4日目2025年5月28日(水)

東郷公園

飯能市

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さて、本日は秩父を出発して神奈川へ帰るだけですが、飯能市の東郷公園へ立ち寄ります。新緑の季節ですな。この公園は山肌にあり、階段を昇りますので汗をかきます。

東郷公園

飯能市

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東郷公園という名前の通り、東郷平八郎元帥海軍大将にゆかりのある公園です。この公園の銅像は大正14年4月17日に建立されました。生前の銅像建立は断っていた東郷さんも鴨下清八さん(東郷公園のある秩父御嶽神社の創建者)の熱意に打たれて建立を承諾、除幕式に元帥自ら出席という画像です。

東郷公園

飯能市

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戦艦三笠の被弾甲板です。昨年の11月に私が訪れた時よりも、保存状態が良いように見えますが、これは多分、近々に錆止めの塗装をしたのでしょうな。リベットの状況や被弾の跡から、この画像の面が下側(あるいは内側)だと判断できます。

東郷公園

飯能市

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この貴重な三笠の甲板が記念館の三笠に置かれていなかったのは、三笠記念館の歴史を考えると良かったと私は思います。横須賀の記念館の方に飾られていたならば、おそらく、敗戦後の荒廃期に散逸してしまったに違いありませんから。

東郷公園

飯能市

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しかし、凄いささくれ立ちの様相です。この甲板は、今後もこの場所に野外展示され続けるのでしょうか。あくまでも私の印象ですが、鍵の付いた屋内に展示していただきたい、そういう遺構です。

東郷公園

飯能市

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東郷平八郎元帥海軍大将は、昭和9年(1934年)5月30日に86歳で亡くなられました。秋山真之が文章を書いて、東郷平八郎が明治38年12月21日の連合艦隊解散式で訓示した「連合艦隊解散ノ辞」がありますが、そのラストは「勝って兜の緒を締めよ」という諺で締めくくられていますね。歴史的にみれば、日本海海戦と連合艦隊の壊滅は一本の時間軸でつながっているわけですが、秋山さんも東郷さんも神ならぬ身ですから、ちょうど40年後の日本の敗戦など知る由もありません。東郷さんが昭和20年8月15日の敗戦を目の当たりにされていたら、いったい何と発言されたのかなと、どんなことを思われただろうかと、興味が湧きました。同じ「連合艦隊解散ノ辞」の中に、「百発百中の一砲よく百発一中の敵砲百門に対抗し得る」という文言が出てきますけれども、これもとても興味深い言葉です。「けんか」は「勢い」ですから、「理屈抜き」の場合もあると思います。だからそういう意味では、百発百中の砲が一門で「対抗し得る」というのは短期的には間違いでは無いでしょう。しかし、時間という要素(1門で100門を潰すのに100回撃つ時間)を考えていないとか、確率で考えればちょっとおかしいとかですね、反論することもできます。実際にはこのフレーズは「兵器の能力だけでなくそれを運用する能力の大切さ」に触れているわけですし、それは理解できますが、 (次へ続く →)

東郷公園

飯能市

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(→ 前から続く) 確かに訓練や心構えは大事だけれども、実際に日本の兵士達は、大戦末期には船も戦車も飛行機も、無線もレーダーも機銃も高角砲の弾にいたるまで、相手に劣る性能の機材を託されて、短期間の訓練を受けただけで、戦わざるを得なかったというのもまた事実です。例えば、ゼロ戦をはじめとする日本海軍の戦闘機は、I-15やI-16相手には無敵とされ、F4Fが登場して性能は互角でも搭乗員の練度はこちらが上手なので優位を保持しました。しかし、F6Fが登場して一撃離脱やサッチウィーブ戦法などの研究された戦法を取られたら、こちらの優位性は消えて、搭乗員の練度が下がって数で負ければ、徐々に歯が立たなくなってきます。末期にレシプロ最強機と言われるP-51が登場すると「対抗し得る」のは赤松貞明ぐらいの経験と抜群のセンスを持った少数の搭乗員のみとなって、若手が出撃すれば負ける確率は高くなるし、ここで「負ける」とは死を意味しますから次回の戦闘に役立つ戦訓を得ることができないので、戦闘未経験の出撃が増えます。百戦錬磨と未経験の戦い、しかも未経験者の方が性能に劣る機材を用いているので、勝つのはとても難しい、東郷さん、秋山さん、どうしたら良かったんでしょうかね? どうしてこうなってしまったのか。その転換点は、かならずしも明治期以降とはかぎらないのではないか。そんなことを考えつつ、今回の旅を終わります。

【筑波海軍航空隊】戦後80年、旧帝国陸海軍の残影。関東を巡るドライブ【2025年5月】

1日目の旅ルート

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