北方文化博物館
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北方文化博物館の口コミ一覧
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江戸時代中期の1756年に1.3町歩の田畑で分家した初代・文吉に始まる伊藤家は、7代・文吉の代の昭和初期には1市4郡64ヶ村に1,370町歩の田畑を所有し、文字通り新潟県随一の大地主となるまでに発展しました。ところが、太平洋戦争の敗戦後の農地解放政策により、これらの土地は僅か2.5haを残し、すべて伊藤家の所有から離れることとなりました。伊藤家の屋敷もアメリカ占領軍の軍用アパート建設のために接収される計画で、もし、これが実現していたら、屋敷は取り壊され、北方文化博物館は存在していなかったことでしょう。しかし、奇跡は起こりました。調査のために伊藤家を訪れたライト中尉という陸軍将校が当主と面談した際、当主の流暢な英語に驚き、その理由を問うと、当主がライト中尉の出身校であるペンシルバニア大学に長く留学していたことがわかりました。先輩後輩の関係の二人は交流を深めるにつれ、ライト中尉は当主が抱いていた伊藤家の屋敷などを博物館とすることにより保存して将来に残すという構想を支持するようになり、マッカーサー総司令長官の同意を得て設立されたのが戦後の私立博物館第1号である「北方文化博物館」です。その後、ライト中尉は帰国し、7代・文吉も1958年に亡くなりますが、8代目を継いだ長男が美術品所蔵倉庫からライト中尉の記念碑を建立する銅板を発見したことをきっかけに、音信不通となっていたライト中尉の捜索を始め、観光客として北方文化博物館を訪れたアメリカ人の尽力で、ミネソタ州ロチェスター市で高校の校長をしていたライト氏が見つかりました。1988年には、ライト夫妻と令嬢、ライト氏を探しだしたパリッシュ夫妻を米国から招いて記念碑の除幕式が盛大に挙行されたそうです。
「北方文化博物館」は、旧新津市街の北方、阿賀野川が蛇行や乱流する越後平野の真ん中の沢海(そうみ)の集落にあります。広大な8,800坪の敷地には、1882年から1889年まで、あしかけ8年の歳月をかけて建てられた建坪1,200坪、部屋数65を数える豪壮な伊藤家の本邸をはじめ、越後が生んだ庭匠・田中泰阿弥による池泉回遊式庭園があり、また、歴代当主が収集した器や書画など約6,000点の美術品の一部を主屋の二階や大広間などで展示しており、豪農らしい重厚な近代和風建築と貴重な美術コレクションを同時に楽しめます。- 行った時期:2023年11月16日
- 混雑具合:やや空いていた
- 滞在時間:1〜2時間
- 投稿日:2024年1月4日
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