満蒙開拓平和記念館
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長野県は最も多くの人が満州へ - 満蒙開拓平和記念館のクチコミ
神社ツウ zindenさん 男性/60代
- 一人
新天地開拓の名目で 満州に連れ出され、戦争が終わっているのに不可侵条約を破って侵攻してきたソ連のために多くの人が惨殺され、シベリアの強制収容所に連れていかれました。日本人を海外に追いやり、労働者として多くの朝鮮人を連れて来るという矛盾。大日本帝国は人命を軽く見過ぎています。命を軽んじる者は日本人でもソ連人でもアメリカ人でも許してはいけないと思います。自虐史観では平和は実現できません。
- 行った時期:2017年9月
- 混雑具合:やや混んでいた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2017年9月11日
- このクチコミは参考になりましたか?23はい
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満蒙開拓平和記念館の新着クチコミ
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収容所
三石忠勇作「難民収容所」(図録) 三石氏は昭和14年(1939年)渡満。ソ連侵攻により逃避行、収容所生活を体験している。この作品が館入口に掲げてある。
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- 行った時期:2023年7月16日
- 投稿日:2023年7月23日
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青少年義勇軍
国民学校生であった叔父が「満蒙開拓青少年義勇軍」(図録)に参加。ソ連侵攻を察知して、命からがら仲間たちと安東(丹東)にいた家族の許に帰ったと話してくれたことがある。
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- 行った時期:2023年7月16日
- 投稿日:2023年7月23日
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忘れてはならない事実
伊那の国道を走った折りに見かけた看板が気になって、いつかこようと思っていました。
満蒙開拓団という言葉が歴史の教科書に出ていた事は覚えていたのですが、実際にどのようなものだったのか知りませんでした。
日本と中国双方の人々に多くの犠牲をだした「満蒙開拓」とはどのようなものだったのか、
ソ連によるシベリア抑留や残留孤児も生み出すことになった国策の顛末が、多くの資料と証言映像で確認できます。
109分のリピート映像で証言されている13人は、開拓団員、教師、青少年義勇軍、義勇軍幹部、ハルピン医科大生、看護婦、関東軍総司令部勤務者、中国残留孤児、残留孤児を育てた養母、中国残留婦人です。
被害者にも加害者にもなってしまう戦争の現実に涙が流れておのずと頭を垂れます。詳細情報をみる
- 行った時期:2022年11月18日
- 混雑具合:やや空いていた
- 滞在時間:1〜2時間
- 投稿日:2022年11月23日
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リアル大地の子。泣きました。
長野県が満蒙開拓団の主力だということを知りました。展示もですが、戦後の引き揚げをされた方々の証言のフィルムを見入り、泣いてしまいました。昼神温泉からは車でないと行けないですが、あれだけのご苦労をされた方々がいることを知り、行ってよかったです。
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- 行った時期:2020年9月
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1〜2時間
- 人数:2人
- 投稿日:2020年11月21日
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勉強になりました
昼神温泉に泊まり、チェックインまで時間があったので、行きました。祖父母、母が満洲から引き上げてきたこともあり、一度行ってみたいと思っていました。あっという間の1時間でした。帰ったら、母から当時の話を聞いてみたいと思います。母を連れてまた行きたいと思います。
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- 行った時期:2020年8月
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1〜2時間
- 投稿日:2020年8月11日