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こぼらさんの和歌山県の旅行記

和歌山の名刹 紀三井寺と長保寺

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2019年【1300年つづく日本の終活の旅】として日本遺産に認定された西国三十三所を、今年はできるだけ多く訪れたいと考えています。白浜に行く途中、第2番札所の紀三井寺(和歌山市)を参拝しました。その後、紀州徳川家の菩提寺で、国宝の大門・本堂・多宝塔を有する事で知られる名刹・長保寺(海南市)も参拝しました。長保寺も「絶景の宝庫 和歌の浦」を構成する文化財として、2017年に日本遺産認定を受けました。

三重ツウ こぼらさん 男性 / 60代

1日目2020年1月19日(日)

紀三井寺

和歌山市

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朱塗りが鮮やかな紀三井寺の楼門。室町時代(1509年)の建立で、重要文化財です。 紀三井寺は救世観音宗の総本山で、西国三十三ヶ所の第2番札所です。熊野参詣が盛んであった古代より多くの参拝者を集めています。 231段の石段を上る事で知られますが、この楼門前の石段の数は含まれていません。 楼門に向かって左手に、閻魔大王像が追加されました。西国三十三所開創伝説で閻魔大王は、病死して冥土の入口にやってきた徳道上人に対し、三十三所巡りを広めて地獄行きの民の罪を減じるように諭し、上人を現世に送り返しています。言い換えれば、西国三十三所の開創は、徳道上人と閻魔大王の共同作業だったのです。

櫓門前の拝観受付の正面に、閻魔大王様の石像がありました。閻魔大王は、西国三十三所開創に深く関わった存在です。 像は建立されてから歳月が経過していない雰囲気で、ピカピカしていました。横の解説碑には「令和元年12月吉日」と刻まれていましたので、完成直後に訪れることができたようです。

楼門をくぐってからの石段は「結縁(けちえん)坂」と呼ばれ、231段もの石段を上ります。「結縁坂」という名は、豪商・紀伊国屋文左衛門が若い頃に、母を背負って参拝していた孝行により良き縁を得て、大出世を果たしたことによります。 結縁坂は4つの石段で構成されていますが、石段と石段の間には平坦な踊り場が設けられており、そこで休憩が取れるようになっています。

紀三井寺の三井水

和歌山市

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紀三井寺の名前の由来となった三つの井戸。三つの井戸とは「吉祥水」「楊柳水」「清浄水(しょうじょうすい)」のことです。写真は「清浄水」。 結縁坂には途中3ヶ所の踊り場があり、休憩しながら上ることができます。踊り場は左右に広がっていて、そこに堂や「清浄水」「楊柳水」が設けられています。 「吉祥水」は境内から少々離れた場所にあります。

紀三井寺の三井水

和歌山市

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井戸とはいっても、石垣の間からにじみ出ている水と小さな池という感じです。 「吉祥水」「楊柳水」「清浄水」いずれの水も、「紀三井寺の三井水」として日本名水百選に選ばれています。

清浄水の近くに、芭蕉句碑が立っています。俳聖・松尾芭蕉も紀三井寺に詣で、一句詠んでいます。 「見あぐれば 桜しもうて 紀三井寺」 紀三井寺は、関西で最初に開花宣言が出される場所として知られています。芭蕉翁は、満開の桜を期待して紀三井寺を訪れたのですが、すでに散りかけていた石段脇の桜を見て、少々がっかりしたようです。

結縁坂の4つの石段のうち、2つを上がったところです。踊り場に幟が立っていて、今年は50年に1度の秘仏本尊ご開帳の年にあたるといいます。 令和2年は、紀三井寺が開創されて1250年の節目でもあり、特別な年のようです。

「楊柳水」。右上に見えるのは「身代り大師」。 「清浄水」よりも高い場所にあります。表立って水は流れていませんが、小屋の中を見ると、石碑のようなものが立っていました。かつては「清浄水」のように、石の上に水がしたたり落ちていたのでしょうか? 「楊柳水」は、ひと頃は枯れていましたが、近年改修されて小屋とコンクリート製水槽ができたそうです。湧き水は、小屋の前のコンクリート製水槽に貯えられているようです。

「結縁坂」の4つの石段のうち、最後の石段をこれから上がるところです。城のものとしか見えない石垣が見事です。境内の大クスの枝が見えています。

「結縁坂」を上り終えて、左を向いたところです。六角堂と朱塗りの鐘楼が見えます。六角堂は西国三十三所の写し霊場になっていて、それぞれの御本尊の姿絵が祀られています。ここに詣でると、西国三十三所全てを巡ったのと同じ功徳があるといいます。

重要文化財の鐘楼。安土桃山時代(1588年)の建立。黒い腰板張りの下層が特徴的で、「袴腰」と呼ぶそうです。そういわれれば、弓道などの黒い袴を着用した達人が立っているように見えなくもないですね。

「袴腰」のすぐ上の高欄(小さな手すり)と縁を支える組み物が凝っています。小さいですが三手先になっています。重い屋根と軒を支える組み物は、意外にも二手先です。ただし尾垂木は太いです。 高欄と縁、それを支える組み物は多分に装飾的に造られているところが、いかにも室町時代の建造物らしいです。

紀三井寺

和歌山市

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紀三井寺の本堂。江戸時代(1759年)の建立。正面から見ると、千鳥破風屋根の下から唐破風屋根の向拝が突き出ているのがユニークです。 本堂や結縁坂の周辺を含め、境内には約500本の桜の木があるそうで、満開時期には多くの人が境内に詰めかける桜の名所でもあります。「日本さくら名所百選」にも選ばれています。

紀三井寺の桜

和歌山市

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本堂のすぐ前にある「ソメイヨシノ標本木」。早咲き桜らしいですが、この桜が開花すると、和歌山地方気象台が開花宣言を出します。近畿地方で最も早い開花宣言となるため「近畿地方に春を呼ぶ寺」とも呼ばれています。例年3月25日前後が満開になるそうです。

唐破風の向拝の下から拝殿を見ています。木鼻に動物の彫り物がされているところは、江戸時代の造りの特徴です。扁額よりも高い場所に横一文字にずらりと並ぶ組物は、下に柱のない場所にも置かれた詰組になっています。尾垂木は三手先に入っているそうです。

本堂拝殿に向かって右の方に、多宝塔を仰ぎ見ることができます。冬枯れの木々の中で、鮮やかな朱塗りの多宝塔が浮き上がるように見えました。多宝塔には、本堂前から石段を上って行くことができます。

本堂前から多宝塔に向かう石段。「結縁坂」同様に、これもまた結構な坂道です。

紀三井寺

和歌山市

「紀三井寺」を   >

護国院紀三井寺の多宝塔。室町時代(1449年)に再建されたもので、重要文化財です。最近、朱塗り補修がなされたようで、現代の建築物かと思うほどに鮮やかです。火灯窓は緑色に塗られて目立ちますが、これによって多宝塔の建立時期が古代ではないとわかります。

紀三井寺

和歌山市

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解説パネルを読むと、上層では、なんと四手先に尾垂木を入れているといいます。二手先や三手先なら、各地でも見られるし、ここ紀三井寺でも楼門や鐘楼で見ることができました。四手先とは、とても凝った造りです。 室町時代の神社仏閣には、マニアックと呼べるほどに精緻で技巧的な造りが多く見られるので大好きです。

多宝塔から本堂の屋根を見下ろしています。千鳥破風の間から、唐破風の向拝屋根が突き出ている構造がよく見えます。

本堂前は広場になっていて、本堂と多宝塔を遠望できます。また、広場から和歌の浦を眺めることができます。

和歌の浦海岸

和歌山市

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紀三井寺の境内から望む和歌の浦の美しさは有名です。写真は、本堂前の広場から見た和歌の浦です。桜の木が少し視界を遮ります。 境内で最も高い場所にあるビュースポットは、高さ25mの仏殿の展望台です。この展望台からだと、視界を遮るものが皆無です。また仏殿の内側を見ると、安置されている高さ12mの木造千手観音立像のお顔を間近に見る事もできます。

本堂前広場から、大きなクスノキと鐘楼・六角堂を見ています。枝に遮られて見えませんが、クスノキの向こうには仏殿がそびえ立っています。 このクスノキですが、見た目よりも枝が横に大きく伸びていて、結縁坂を上っていると高石垣の上に見える位です。

本堂前の広場で、冬でも青々とした枝葉をたたえるクスノキには、どこか不思議な魅力を感じます。何百年もの間、結縁坂を上って紀三井寺にやってきた参拝者を見守り、和歌の浦を遠望してきたのです。

2002年に竣工した、高さ25mの仏殿。中には高さ12mの木造千手観音立像を安置しており、無料で拝観できます。 千手観音立像は寄木造で、仏師の工房で作られたものを仏殿に運び込み、組み上げたものだと係員さんから聞きました。

紀三井寺

和歌山市

「紀三井寺」を   >

全身が漆金箔の千手観音立像。木造仏の立像としては日本最大です。ありがたい事に、無料で参拝できますし、フラッシュを用いなければ撮影も認められています。こんなに大きくて美しい仏像を真正面から拝み撮影するのは初めてで、緊張しました。 観音様の手と、拝壇に置かれた三鈷杵とは糸でつながっており(御手糸)、参拝者は五鈷杵に手を置き観音様と縁を結びます。

参拝者は、結縁の五色線で観音像の掌と結ばれた五鈷杵に手を置き、千手観音様と縁を結びます。日本一大きくて美しい千手観音様を拝んだ記念に、希望者には結縁の五色線と五鈷杵のミニチュア版が付いたストラップを500円で授けてもらえます。普段お目にかかる事が少なく、まして触れる機会がない五鈷杵を手にすると、たとえミニチュア版であっても嬉しいものです。

参拝を終えて結縁坂を下ります。下りる時の方が、上る時よりも石段脇の桜の存在を感じます。 下り口からは、楼門の姿はほとんど見えません。231段もの、まっすぐな石段の手強さを感じます。

はやしドライブイン

和歌山市

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紀三井寺参拝を終えて駐車場に戻りました。近くに、屋上に多宝塔を2つも備える目立った「はやし」の建物がありました。駐車場は「はやし」が運営していて、「はやし」で飲食や買い物をすれば駐車料金を返金する(代金から差し引く)という仕組みでした。 土産物売り場で、南高梅の梅干しを買いました。 紀三井寺には無料駐車場はなく、有料駐車場を使用するしかないので、返金される「はやし」駐車場はお勧めです。 紀三井寺門前では「はやし」の存在感は抜群のようで、ホテルや温泉施設、食事処に土産物売り場など「はやし」の名が付いた施設が立ち並んでいます。

長保寺大門

海南市

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国宝の大門です。長保寺の境内は広く、広場の中に大門がぽつんと立っているように見えます。 真冬なので、門前の桜の木には葉っぱ1枚すら着いていませんでしたが、花や新緑の時期には大門の上部が隠れてしまう位に美しさを発揮することでしょう。

南北朝時代(1388年)の建築。軒を支える構造は、木造建築の芸術と言って差し支えないほどに技巧的です。たくさんの垂木を複数の軒桁で受け、それらを組み物で支えています。 組み物は、「三手先(みてさき)」と呼ばれる、三段に積み重なって外へ張り出し、複数の軒桁を支える構造になっています。三段目の組み物は、壁から外に突き出ている二つの尾垂木のうち、長い方に乗っていて、軒桁を支えるという複雑な構造です。 扁額が掲げられていますが、これもまた大門に付属して国宝に指定されています。

大門の中から天井を仰ぎ見ています。建物の中での組み物の様子がわかります。

大門の金剛力士像(阿形)。かなり傷んでいます。左胸の修理跡が目立ち、痛々しくもあります。金剛力士像は国宝ではないため、これまで本格的な調査や修理はなされてこなかったそうです。 平成以降ようやく調査が入りはじめ、像内納入文書や修理記録などから、金剛力士像造立の年代は鎌倉時代(1286年)との見方が強まったそうです。大門よりも100年以上前に製作されたことになります。2回目の元寇(弘安の役)直後の時代でもあり、仁王像の製作背景が気になります。

大門の金剛力士像(吽形)。阿形像ほどではないにせよ、かなり傷んでいます。 鎌倉時代(1286年)に製作されたのが事実なら、これよりも古い金剛力士像は東大寺南大門の金剛力士像はじめ3組しかないそうで、国宝級の文化財になります。 長保寺全体が日本遺産になったことですから、修理がなされるものと期待したいです。

大門前には、境内の見取り図が掲示されています。大門から、本堂や多宝塔のある伽藍までは、けっこう長い参道になっています。伽藍右手の山腹には、紀州徳川家の墓所があります。

参道は、途中から石段になります。左手の建物は参拝受付ですが、普段は無人のようで、箱の中に参拝料300円を納めます。国宝や重要文化財の建物をいくつも有する立派な寺院ですが、参拝者の良心が信用されているのです。

長保寺

海南市

「長保寺」を   >

天台宗の寺院である慶徳山長保寺。本堂は鎌倉時代末期(1311年)の建立で、国宝です。長保寺によれば、「本堂・塔・大門とそろって国宝である寺は奈良の法隆寺と長保寺だけ」とのこと。 長保寺は長保2年(1000年)に一条天皇の勅願によって創建され、鎌倉時代に場所を変えて改築され現在の伽藍の姿が整ったとされます。寺の名前は、創建時の年号によります。一条天皇の御代といえば、枕草子の清少納言や、源氏物語の紫式部が、皇后や中宮の女房として活躍していた時代です。当時の伽藍は、朱塗りが鮮やかな塔堂が立ち並んでいたことでしょう。 また長保寺は、「絶景の宝庫 和歌の浦」を構成する文化財として日本遺産に登録されました。

長保寺本堂

海南市

「長保寺本堂」を   >

多宝塔付近から望む本堂。本堂の向こうに見えるのは護摩堂です。 紀州徳川家の菩提寺であったせいか、質実剛健で凛とした雰囲気が漂っています。 床下の亀腹が引き立たせているのか、なんとも精悍で格好よく感じるのです。

長保寺多宝塔

海南市

「長保寺多宝塔」を   >

国宝の長保寺多宝塔。二重塔とも言えるのでしょうが、上の階の断面が円形になっているものを多宝塔と呼ぶようです。コンパクトですが、均整が取れて美しい塔です。 囲いがないので間近まで寄ることができ、詳細を見る事ができます。 国宝の多宝塔は、石山寺や根来寺など国内に6か所しかないそうで、とても貴重なものを見ている気分になります。 後ろの方に、紀州徳川家廟所に進む道があるのですが、バリケードが置かれていて進入禁止になっていました。最近の台風被害で、路面が崩れている場所があるようです。

南北朝時代(1357年)の建築。この時期の建築らしく、組み物が大胆にして精緻です。大工たちが、腕の見せ所とばかりに張り切っていた様子が想像できます。 力強い組み物に、美しい蛙腹及び折上小組格天井の雄健な手法など外観、内部ともに多宝塔中の傑作の一つとされます。

多宝塔付近から見た大門。大門から本堂までの参道と石段が長く、本堂や多宝塔のある伽藍が高い場所にあることがわかります。

紀州徳川家廟所

海南市

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多宝塔の前から、紀州徳川家廟所(御霊屋、客殿)を見ています。写真左手の山林の中に、初代・徳川頼宣はじめ歴代藩主の墓所があります。墓所には、本堂・多宝塔の裏手から、あるいは御霊屋から入るようになっていますが、訪問した時はどちらも進入禁止になっていました。

御霊屋には、本堂や多宝塔のある伽藍から石段を下り、拝観受付前から歩いて行けます。

紀州徳川家廟所

海南市

「紀州徳川家廟所」を   >

御霊屋の脇にある御成門。紀州徳川家の藩主が墓参りをする時は、大門をくぐった後、御成門を通じて御霊屋に入りました。今はお迎えする殿様は絶えてないので、通路は苔むしています。 藩主は、手前の御霊屋で先祖の位牌を拝んだ後に、墓所に向かいました。 最近の台風により通路が崩れたのか、御霊屋から紀州徳川家廟所に進む通路は閉ざされていて、墓所を見る事はできませんでした。

和歌山の名刹 紀三井寺と長保寺

1日目の旅ルート

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