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こぼらさんの滋賀県の旅行記

西国三十三所めぐり 園城寺

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滋賀県大津市にある長等山園城寺を初めて参拝しました。通称の三井寺も広く知られており、西国三十三所の十四番霊場としても知られています。 平安時代の四大寺のひとつとして、とても広い境内を有し、見所が多いのが特徴です。また国宝や重要文化財の文物や塔堂を、これでもかという位に多く所蔵しています。

三重ツウ こぼらさん 男性 / 60代

1日目2020年3月6日(金)

三井寺(園城寺)

大津市

「三井寺(園城寺)」を   >

写真は観音堂です。園城寺の境内はとても広大で、数ある塔堂のうち、南院札所伽藍と呼ばれる寺域にある観音堂が西国三十三所の十四番霊場となっています。 中院伽藍に、国宝の金堂はじめ、重要文化財の塔堂がたくさんあります。全てを丁寧に見て回ると、4〜5時間は必要になるほどに見所が多いお寺です。 園城寺の伽藍は、中院と南院を合わせると非常に広いため、四大寺のひとつに数えられています。

大門の横にある受付で拝観料600円を納めて、拝観を始めました。頂いた栞に拝観順路が示されているので、それに従って境内めぐりをしていきます。 主立った見所だけでも13ヶ所あります。その大半が国宝または国の重要文化財です。

三井寺大門

大津市

「三井寺大門」を   >

最初に拝観するのが仁王門です。大門とも呼ばれるようです。 もともとは常楽寺(湖南三山のひとつ)に建立された(1452年)仁王門が、園城寺に移築された経緯があります。園城寺の雰囲気に溶け込んでいて、最初からここにあったように感じます。国の重要文化財で、安置されている金剛力士像は運慶の作と言われています。 豊臣秀吉によって常楽寺から伏見城へ移築されたものの、関ヶ原合戦の翌年に、徳川家康が園城寺に再度移築し寄進するという数奇な運命をたどってきました。 園城寺には、この門と同様に、他の寺院から移築・寄進された建築物がいくつかあります。

仁王門の金剛力士像の前には、目の細かい金網が張ってあり、全体像を撮影するのは難しいです。なんとか金剛力士像の表情だけ撮影してみました。運慶の作といわれるだけあって、迫力や凄味を感じます。

仁王門をくぐろうとする者を、無言で睨みつける吽形像。眼光が鋭いです。

三井寺釈迦堂

大津市

「三井寺釈迦堂」を   >

仁王門をくぐると、すぐ右手に見えてくる建物が釈迦堂です。釈迦如来を祀っているので釈迦堂と呼ばれますが、食堂(じきどう)と呼ぶのが正しいようです。 もともとは御所の清涼殿であったという伝承があるそうです。そう思わせる姿をしています。向拝が唐破風になっていますが、これは江戸時代に作り足されたものです。

仁王門と釈迦堂を過ぎ、奥に進むと大きな金堂の東側面が見えてきます。日本遺産【西国三十三所観音巡礼】の幟が立っていました。 金堂が西国三十三所の札所かと思いきや、違いました。金堂が立っている寺域は中院と呼ばれるのに対し、札所である観音堂がある寺域は南院と呼ばれ、ここから500mほど離れています。

どういう事情があるのでしょうか?手水場に水をもたらしている龍が、まるで動物園の猛獣のように、檻に閉じ込められていました。うかつに触ると、噛み付きでもするのでしょうか?

園城寺(三井寺)金堂

大津市

「園城寺(三井寺)金堂」を   >

園城寺の総本堂で、国宝です。 豊臣秀吉の正室・北政所によって再建(1599)されたものです。その時期は、秀吉の死後であり、関ヶ原の合戦の前年です。園城寺は、晩年の秀吉の逆鱗に触れて廃寺となり破脚されていました。秀吉の死の直前に許され、ただちに復興が進められたのです。 北政所は、夫・秀吉の過ちを埋め合わせつつ、豊臣の威光が衰えていないことを示すために、金堂はじめ園城寺を再興させようとしたのでしょう。

園城寺(三井寺)金堂

大津市

「園城寺(三井寺)金堂」を   >

金堂の大きさは、正面七間・側面七間もあります。とても大きいので、かなり離れないとカメラに収まり切りません。優美さと豪壮さを兼備した建物です。 内陣に安置されている本尊の弥勒菩薩像は、天智天皇が拝んでいた霊像とされる秘仏で、普段は拝観できません。

桃山時代を代表する建築物だけあって、組み物が力強く伸びやかに作られているように感じます。 堂内に入ることができます。外陣→脇陣→後陣の順にめぐりながら、内陣を囲むように配置された円空仏・尊星王・不動明王などの仏像を拝観できます。

三井の晩鐘

大津市

「三井の晩鐘」を   >

鐘楼には、1602年に鋳造されたと判明している「三井の晩鐘」が吊られています。鐘楼も「三井の晩鐘」と同時期に建立されたとみられ、重要文化財に指定されています。1598年から1602年の時期は、いったんは秀吉によって廃寺にされてしまった園城寺が、有力大名たちによって復興された時期でした。(慶長の再興) 一般的な鐘楼と違い、鐘の周囲は縦格子で囲まれています。

三井の晩鐘

大津市

「三井の晩鐘」を   >

金堂を背景にした「三井の晩鐘」。近江八景「三井の晩鐘」として知られる大鐘は、ことに音色が優れているとされます。日本三名鐘のひとつでもあります。 (音の三井寺、形の平等院、銘の神護寺) 鐘楼の中に入って鐘を撞くことができますが、一撞き300円を納めなくてはいけません。 園城寺には有名な鐘が二つあります。この晩鐘と「弁慶の引摺り鐘」です。この晩鐘は、「弁慶の引摺り鐘」を模して鋳造されたと伝わります。

園城寺 閼伽井屋

閼伽井屋は、仏前に供えるための水をくむ霊泉「閼伽井(あかい)」を覆う建物です。金堂のすぐ西隣に、それも軒下のような位置に立っています。 北政所が、金堂を建立した翌年(1600年)に閼伽井屋も建立しました。小さく見えても、桃山時代の様式や特色が随所に見られるので、重要文化財に指定されています。 ここの湧き水は、天智天皇はじめ天武天皇・持統天皇の三人の帝の産湯に用いられたといわれています。このため閼伽井は「御井(みい)」とも呼ばれ、三井寺という通称の由来となったとされます。

閼伽井屋の大きさは、正面三間・側面二間なので、決して小さいわけではありません。隣の金堂が非常に大きいので、どうしても小さく見えてしまいます。

閼伽井屋の正面上部には、かの有名な左甚五郎作と伝わる龍の彫刻があります。

閼伽井屋の中には、古来より湧き続ける泉『三井の霊泉』があります。温泉地の露天風呂・岩風呂のようだなと思いました。

霊鐘堂

大津市

「霊鐘堂」を   >

この建物は、それほど古い建物には見えません。重要文化財である「弁慶の引摺り鐘」と「弁慶の汁鍋」を収蔵展示している資料館といった感じです。

霊鐘堂

大津市

「霊鐘堂」を   >

これが「弁慶の引摺り鐘」で重要文化財です。奈良時代の梵鐘で、表面に傷がたくさん付いていますが、寺門(園城寺)と山門(延暦寺)との激しい抗争を象徴しています。 平安時代の末期、弁慶を含む延暦寺の僧兵たちが、園城寺を焼き払わんと攻め込み、奪った鐘を弁慶が比叡山へ引き摺っていった際に付いた傷だとされます。弁慶はさらに、比叡山に持ち込んだ鐘を撞いたところ音色が気にいらず、怒って鐘を谷底に投げ捨てるという乱行ぶりを発揮しています。弁慶一人でそこまで悪行ができたかどうかの真偽はともかく、山門寺門の抗争の激しさが伝わってくる言い伝えです。

確かに、何者かによって結構な距離を引き摺られたような傷や摩滅跡が見られます。

園城寺の鐘を奪い去った時に、武蔵坊弁慶が置いていったと伝わる大鍋。外口径が166センチ、重量は約450kgもあるそうです。 鐘の質草として置いていくほどに、延暦寺の僧兵たちが紳士的だったとは考えにくいです。どんな意味があったのでしょう? 攻めてきた延暦寺の僧兵たちが使っていた大鍋が、遠征先の園城寺で割れてしまい使い物にならなくなったので、捨てていったものと推察します。 それにしても、比叡山から大きくて重い大鍋を持ち込み、梵鐘を引き摺って持ち帰るとは、当時の僧兵たちの剛腕屈強ぶりに驚かされます。

三井寺一切経蔵

大津市

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一切経蔵は、金堂から唐院に向かう参道の途中にあり、金堂を見下ろせる場所に立っています。室町時代の建築で、国の重要文化財です。 この建物は、大内氏が国清寺(山口市)に建てたものを、毛利輝元が寄進して移築したものとされます。関ヶ原合戦で西軍の総大将をつとめた毛利輝元が、合戦に敗北した後の1602年に、はるばる山口から大津まで寺の移築をするとは不自然です。園城寺には、徳川家康が寄進・移築した仁王門や三重塔があるので、家康が輝元に半ば強制したのが実情でしょう。

三井寺一切経蔵

大津市

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一切経蔵の中には、大きな輪蔵が収まっています。八面の上部全てに、屋根のような千鳥破風飾りが付いているので、輪蔵が八角堂のように見えます。こんなに大きくて立派な輪蔵は見たことがありません。収納している教典も多く重そうで、輪蔵として回して使えるのかどうか疑問に思います。 一切経蔵と同時に、この輪蔵も山口から移築されたのでしょうか。そうならば、毛利藩は途方もない手間や経費を負わされたことでしょう。

一切経蔵の前から唐院を望んでいます。一切経蔵と三重塔は、それぞれ違う寺院から移築されてきたものですが、同時に新築されたのではないかと思える程に、趣が揃っています。 一切経蔵の前の参道を南に向かうと三重塔の傍に至ります。

三重塔の傍から、一切経蔵と参道を振り返っています。この角度から見る一切経蔵の姿も美しいです。 一切経蔵と唐院伽藍との間には堀があり、石橋を渡って行き来します。

園城寺塔婆三重塔

大津市

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三重塔は、仁王門と同じような経過を経て、1601年に徳川家康によって寄進・移築されたものです。室町時代初期の建築物で、重要文化財です。もともとは比蘇寺(奈良県大淀町・現在は世尊寺)にあった東塔でした。 1594年、豊臣秀吉によって比蘇寺から伏見城に移築されました。秀吉が廃寺にした園城寺を、秀吉亡き後に北政所や徳川家康が復興させるにあたり、伏見城から再び移築されたのです。 秀吉が壊した物の代わりに、秀吉が奪った別の物を充てるとは、家康らしいシニカルな流儀です。

三井寺唐院

大津市

「三井寺唐院」を   >

唐院は、園城寺の開祖である智証大師・円珍和尚の廟所を中心とする寺域で、灌頂堂・大師堂・三重塔で構成されます。いずれも重要文化財です。写真は灌頂堂と三重塔です。 唐院という名称は、智証大師が唐に渡って修行を積み、持ち帰った経典類を収めたことに由来しています。

唐院の灌頂堂(手前)と長日護摩堂。 唐院は、園城寺で最も神聖な場所とされています。灌頂堂と三重塔の手前に低い柵が設けられていて、一般来訪者はその先に進むことができません。 灌頂堂は密教の非常に大事な儀式・灌頂(かんじょう)を行う建物ですが、奥にある大師堂の拝殿でもあります。 長日護摩堂は唐院の建物の中では一番新しく、17世紀後半、後水尾天皇の寄進によって建立されたものです。

灌頂堂の奥にある大師堂には近づけませんので、柵の手前から見るだけです。灌頂堂と大師堂との間には、大師堂の正門である唐門が見えています。 大師堂には「智証大師坐像」(国宝)が2体安置されており、うち1体には園城寺の開祖である智証大師の遺骨が収められています。園城寺で最も神聖な場所ですので、慶長の再興にあたっては、最も早くに(1598年)再建されています。大師堂も唐門も、重要文化財です。

唐院の正門である四脚門。石段の下から仰ぎ見ると、灌頂堂と三重塔を背景にしていて、とても趣があり美しい。 慶長の復興期よりも少し遅れて、1624年に建立されています。重要文化財です。

表参道から見た唐院の四脚門。門の前に整然と並ぶ灯籠が見事です。 園城寺が示す参拝順路に従うと、一切経蔵と唐院を見てから四脚門をくぐり、表参道へ出ます。でも、唐院については逆行する形になります。 本来は、金堂の前の表参道をまっすぐ南に歩き、途中で右折して、この唐院参道を通って唐院に向かうべきなのでしょう。

唐院参道から表参道へ戻り、北側を見ると、あの大きな金堂が遠く小さく見えています。写真左手に見える石橋を渡ると、一切経蔵や唐院に向かう道に通じます。

表参道の南側を見ています。手前に見える石橋は村雲橋です。開祖智証大師が、かつて学んだ唐の青龍寺が火災に見舞われていると感じ、橋の上に閼伽井の水をまいて雨雲(村雲)を生じさせ青龍寺へ向かわせ、鎮火させたという言い伝えがあります。 突き当たりに見える堂は微妙寺の本堂です。

ながら茶房本寿院

大津市

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大門に始まり、金堂・一切経蔵・唐院を拝観して、微妙寺を目指して表参道を歩いていると、左手に「お休み処 ながら茶房 本寿院」の幟を見つけました。肌寒い日だったので、お茶で体を温めようと思ったのです。 かつては支院で本寿院と呼ばれた建物を改装し、休憩施設として提供しているようです。朱塗りの表門が美しいです。

表門をくぐると、かつては本寿院の庫裏や客殿だったと思われる建物が見えます。これが休憩所・カフェになっているのです。 靴を脱いで中に入ると、テーブル席が並ぶ部屋に通されます。私たち二人だけの貸切状態だったので、中庭の見えるテーブル席を選びました。

客間は畳張りで、2面が窓になっています。広々としています。庭園には桜や楓が植えられているので、花見や紅葉の時期に来れば更に楽しめそうです。 外は肌寒かったですが、暖房が効いた部屋は温かく、くつろぐことができました。

ながら茶房本寿院

大津市

「ながら茶房本寿院」を   >

「葛餅お飲み物セット」にしました。飲み物は、私はほうじ茶、家内は朝宮茶を選びました。どちらも自分で淹れます。朝宮茶の淹れ方は、説明書が用意されています。 まず鉄瓶から湯冷ましにお湯を注ぎ、少し冷まします。その間に急須に茶葉を入れ、湯冷ましから湯を注ぎ入れます。少し待ってから茶碗に注いで頂きます。 私も一杯賞味しましたが、やはり朝宮茶は格別ですね。まろやかで上品な味でした。茶葉は、かつて訪問したことがある山本園(甲賀市信楽・上朝宮)のものでした。

私の、ほうじ茶と葛餅のセット。茶葉は急須に入って出てきましたので、鉄瓶から好きなだけお湯を注いで頂きます。どこの茶葉かわかりませんが、これも美味しかった。 家内も、朝宮茶とほうじ茶を交互に味わっていましたが、甲乙つけがたいと言っていました。暖かい部屋でお茶を味わっていたら鉄瓶の湯がなくなってしまい、おかわりをした位に楽しめました。

客間から中庭と表門を見ています。とても静かで、くつろげる施設でした。広い園城寺を歩いてめぐる途中で、ぜひ一服に立ち寄りたい場所です。

微妙寺

大津市

「微妙寺」を   >

園城寺の五別所のひとつ。開基は10世紀末で、1000年以上の歴史があります。 園城寺の境内にあって、塀で仕切られてもいないので、園城寺のお堂の一つかと思えます。「微妙」とはビミョーな名前ですが、仏教界では「みみょう」と読み、「言葉では言い尽くせないくらい不思議で奥深く素晴らしいこと」を意味するそうです。 本尊は十一面観音で、病気・災難除け、減罪の御利益があるという。写真の本堂は1776年に再建されたもの。

微妙寺

大津市

「微妙寺」を   >

微妙寺本堂の脇には、赤塚不二夫がデザインした「レレレ千手観音」像が安置されていました。モチーフは、足をせわしなく動かし竹箒で庭そうじをする「レレレのおじさん」です。オリジナルでは、せわしなく動く足が千手ならぬ千足のように描かれますが、この観音像では逆になります。手のひとつがハタキを持っているのが面白い。 「レレレ千手観音」像は、微妙寺の本尊のように十一面を持っておられるので、ここに安置されたのでしょうか。

いがらしゆみこ氏が描いた如意輪観音。現代の絵師が描く仏画もいいですね。 如意輪観音は、西国三十三所の十四番札所としての園城寺・観音堂の本尊です。 2019年の春に三井寺では「漫画家による仏の世界展」が開催されました。著名な漫画家が描いた仏画70点余りが展示されたようです。その一部が、今でも微妙寺で展示されているのです。

園城寺文化財収蔵庫

大津市

「園城寺文化財収蔵庫」を   >

微妙寺の、参道をはさんで、向かいにあります。2014年10月に、開祖・智証大師生誕1200年慶讃記念事業としてオープンしました。建築物だけでも国宝や重要文化財が目白押しの園城寺ですが、収蔵の文物はなかなかお目にかかれません。重要文化財の収蔵文物は、ここで見る事ができます。 国宝・勧学院客殿の狩野光信筆の襖絵39面をはじめ、重要文化財の仏像・仏画・仏具など13件53点が収蔵展示されています。

園城寺 毘沙門堂

微妙寺や文化財収蔵庫のある場所から、観音堂に向けて参道を歩いて行くと、小さいながらも派手な装飾の堂が見えてきます。毘沙門堂という正面一間・側面二間の御堂です。 極彩色が施された宝形造・檜皮葺の建物は非常に目を惹きます。重要文化財です。 1616年、五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に建立されました。2回の修理と移築を経て、現在の場所に移ってきたのは昭和31年でした。

各部の装飾が金ピカ・極彩色です。豪華で派手さが好まれた桃山建築の雰囲気そのものです。木造毘沙門天像を安置するので、毘沙門堂の名があります。

三井寺十八明神社

大津市

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観音堂がある札所伽藍への上り口の手前に十八明神社の小さな社があります。この神社も、山門との激しい抗争の歴史を物語っています。別名「ねずみの宮」ですが、なぜそう呼ばれるかと言うと、次の経緯がありました。 11世紀後半、園城寺は戒壇道場建立を悲願として勅許を願い出ていました。しかし延暦寺の妨害により、なかなか成就しませんでした。これに怒った頼豪阿闍梨は、21日間の護摩を焚き、壇上の煙と果てました。「煙と果てた」の意味が怖そうですが、阿闍梨の強念が84,000匹のネズミとなって延暦寺に押し寄せ、塔堂や教典を食い荒らしたというものです。この社は、延暦寺の方を向いています。

西国三十三所の十四番札所・三井寺観音堂がある札所伽藍への上り口にやってきました。大門の前では「園城寺」と表示されていましたが、札所伽藍への上り口では「三井寺」という表示になっていました。どう使い分けるのが正しいのでしょうね? 広い境内を歩いて少々足が疲れてきましたが、もう一踏ん張りして石段を上がり札所伽藍を目指します。

石段を上って札所伽藍にたどりつくと、すぐ見えるのが鐘楼です。1814年に上棟された建物で、滋賀県指定有形文化財です。 ここに来るまでに、幾百段の石段を上がり下りし、たくさんの国宝や重要文化財の建築物を見てきましたので、どういう文化財なのか余り気にならなくなっていました。 「袴腰」と呼ばれる黒い腰板が張られた下層が特徴的です。

中に入って鐘を見上げています。鐘を撞くことができましたが、鐘撞き棒を手前に引くのが珍しかった。多くの場合は、棒を奥へ押して鐘を撞きます。

三井寺観音堂

大津市

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西国三十三所の十四番霊場は、園城寺の南院札所伽藍と呼ばれる場所にあり、その中心が観音堂です。南院札所伽藍は、園城寺の広大な寺域の中でも南端にあります。 観音堂は1689年に再建されたものといわれ、滋賀県の有形文化財に指定されています。

堂内に安置されている本尊「如意輪観世音菩薩」は平安時代の作とされ、三十三年毎に開扉される秘仏です。円珍(智証大師)が自ら刻んだとも伝わります。

観音堂前の広場まで、東(長等神社の方)から直接上がってくる長い石段があります。 1匹のネコが、その長い石段を1段1段ぴょんこぴょんこと跳びながら上がってきて、休息所にやってきました。昔、毎日お参りに来ていた人が、ネコの体を借りて参拝に来ているように見えました。 観音堂前広場には、屋根付きの休息所が設けられています。初詣など、大勢の参拝者でごった返す時には、休息所も賑わうことでしょう。

三井寺観音堂

大津市

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観音堂の南に小高い丘があり、展望台が設けられています。そこから南院札所伽藍を見下ろし、琵琶湖を眺めることができます。 展望台に行くには、手水場と休息所の間にある上り口から石段を上ります。また石段かと身構えてしまいますが、30mほどの距離です。

札所伽藍よりも高い場所に展望所が設けられていて、札所伽藍を見下ろすことができますし、琵琶湖の絶景も楽しむことができます。 写真中央左の大きな建物が観音堂で、右手前が手水舎です。広場の奥に見える2棟の右側が観月舞台、その左となりが百体堂です。観月舞台は改修工事中でした。

展望所から望む、大津の街並みと琵琶湖。晴れていたので、対岸の山々までよく見えました。中央付近に見えているのは八幡山でしょうか。

次の拝観先である水観寺に向かいます。札所伽藍への上り口や毘沙門堂がある場所から、けっこうな長さの石段を下りていきます。 石段の両脇は桜並木になっていますので、花見シーズンになると見物客で賑わいそうです。

水観寺

大津市

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水観寺は、1040年に明尊大僧正によって創建された、園城寺五別所のひとつです。 明尊大僧正は園城寺の長吏や天台座主を歴任し、宇治の平等院で知られる藤原頼通の帰依を受け平等院のトップも勤めたほどの高僧です。 本尊は薬師瑠璃光如来で、脇侍に日光・月光両菩薩像を配す薬師三尊になっています。注目すべきは、薬師三尊の脇侍として十二神将像も並んでいることです。15体の仏像が横一文字に並ぶ姿は壮観です。

本堂は1655年に再建されたものですが、1988年に解体修理のうえ現在の場所に移築されました。当初は中院の別所だったのですが、現在は南院の近くにあります。

園城寺 護法善神堂

広い境内を歩き回ってきましたが、いよいよ最後の拝観先となりました。智証大師の護法神・訶梨帝母(かりていも)を祀る護法善神堂です。 この場所には、最初の唐院がありました。17世紀初頭に唐院が移った後、金堂の東から移ってきました。18世紀はじめより、石橋がかかる放生池や唐門をともなう立派な境内に整備されました。 子供の守り神・訶梨帝母(鬼子母神)は、園城寺の守護神にもなっています。

護法善神堂は、智証大師の護法神が祀られている鎮守社だけあって、立派な神社です。左右に透かし塀が取り付く唐破風屋根の「護法社唐門」には、「寛政11年(1799)建立」と表示されていました。 これほどまでに立派な鎮守社となったのは、子供の健やかな成長や安産を祈る祭礼「千団子さん」が盛んになったので、享保10年(1725)から長期間にわたり大規模な整備が行われたからです。

現在の護法善神堂は、1727年に再建されたものです。本尊は平安時代作の訶梨帝母立像です。堂の左脇にも鎌倉時代作の訶梨帝母倚像が安置されていましたが、現在は文化財収蔵庫に移されています。どちらも国の重要文化財です。 訶梨帝母は、大師が子供の頃と入唐後に姿を現したことから、子供の守り神と見られるようになりました。護法善神堂は、園城寺の鎮守社であると同時に、子供の健やかな成長や安産を祈願する者が参拝する神社となったのです。

護法善神堂の境内の前には、立派な石橋が架かる、城の堀のような池があります。放生池とのことです。 毎年5月には、鬼子母神の千人の子供たちを供養するために千の団子を供える祭礼「千団子さん」が行われ、放生池に亀を放す放生会も開催されるそうです。

園城寺は、実に見所が多くて楽しめる寺院だと思いました。拝観を終えて駐車場に戻ったのですが、護法善神堂のすぐ隣でした。参拝順路通りに巡れば、無駄なく見て回る事ができます。駐車場傍の、みやげ物店「風月」で出来たての「ひきずり鐘」饅頭を買い、ほおばりながら帰りました。おいしかった!

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