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吉田松陰(矩方)特集/坂本龍馬特集

吉田松陰(矩方)の人生

吉田松陰(矩方)の人生

1830年長州藩士の次男として生まれ、山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となる。大助が死去後は叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感し、西洋兵学を学ぶために九州へ遊学。また江戸に出て佐久間象山の師事を受けた。1853年にペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれる。その後1854年に再来航していたペリーの艦隊にアメリカ密航を望むが拒絶されて送還された。松陰は証拠が幕府にわたる前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。1855年に出獄を許されたが、杉家に幽閉の身分に処され1857年に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾。長州藩の下級武士である久坂玄瑞や伊藤博文などの面々を教育していった。1858年幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒した松陰は、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画するも、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。その後松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、野山獄に送られた。安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られ、井伊の命令により「死罪」となり、1859年に斬刑に処された。享年30。


吉田松陰(矩方)

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