勝海舟特集/坂本龍馬特集

勝海舟の人生とゆかりの地
勝海舟の人生
幕末期の開明的な幕臣。1823年1月30日、江戸本所亀沢町に生まれる。通称麟太郎(りんたろう)、名は義邦(よしくに)、のち安芳(やすよし)と改名。海舟と号し、安房守と名のった。剣は島田虎之助(直心影流)に学び、その代稽を勤めるほど上達したが、島田の勧めで西洋兵学を志す。勉強熱心な姿は有名で、入手しにくい蘭書を書写するためにその所有者の家に毎夜、半年間通ったという。1850年には自宅で蘭学塾を開くようになり、55年に大久保忠寛に推挙されて蕃書翻訳所に出仕する。同年さらに海軍伝習生頭役として長崎の海軍伝習所に赴き、オランダ士官より航海術の訓練を受けた。3年後江戸に帰り軍艦操練所教師方頭取となり、60年には日米修好通商条約批准使節の新見正興に随従して、咸臨丸で太平洋を横断することとなった。
日本人だけの太平洋横断を指揮し、アメリカで近代を見聞してきた海舟が、帰国後は倒れかかった幕府で近代海軍を建設する仕事にとりかかる。各職を歴任し、1862年軍艦奉行並として神戸に海軍操練所を設けた。幕臣だけでなく、坂本龍馬や龍馬に誘われた志士たちなどを広く人材を集めた。2年後、海舟は免職になり操練所は閉鎖されるが、この間に木戸孝允や西郷隆盛らと接触があり、彼らにも大きな影響を与えた。その後66年敗北した第二次幕長戦争(長州征伐)の後始末のために登用されるが、フランスと手を組む幕府中心の主戦的な流れから孤立していく。戊辰(ぼしん)戦争で江戸が新政府軍に囲まれたときは、主戦派の幕臣をなだめ、新政府側の西郷隆盛と会談して江戸の無血開城を実現した。
維新後は、しばらく新政府の誘いを断って静岡に退いていたが、1869年兵部大丞に就任して後は、海軍大輔、参議兼海軍卿を歴任。のち元老院議官、枢密院顧問官となり、伯爵になっている。明治32年1月75歳で死去。

