さとけんさんの岩手県〜福島県の旅行記
【福島から三陸へ】福島・松島から大籠キリシタン殉教公園、羅賀荘へ【2024年9月】
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福島県の富岡・双葉・浪江・相馬の海岸沿いから宮城県の閖上・松島・石巻と北上し震災及び原子力災害の伝承館を訪ね、私自身のルーツに関係があるらしい一関の大籠の地と大籠キリシタン殉教公園を訪ねてから三陸海岸へ出て岩井崎の民宿・崎野屋さんで美味しい食事を食べ、田野畑村の羅賀荘には17年ぶりに宿泊し、遠野を通って水沢、中尊寺、鳴子温泉と周りました。原子力災害や地震津波災害について考え、同時に自分のルーツを感じる旅にもなりました。
神奈川ツウ さとけんさん 男性 / 50代
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- 1日目2024年9月7日(土)
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さて、今回の旅は金曜日の夜に神奈川から一般道を北上し、まずは福島県の四倉を目指します。さすがに金曜日の夜ですね、国道246号線の渋谷、その先の六本木・南麻布を通過するころは午前1時ごろですが、宴もたけなわ・まだ宵の口という感じで酔客がタクシーを求めて次から次へと車道へ出てまいりますので、なかなか気の抜けないドライブとなります。言問橋を渡って午前2時を過ぎてくると車の交通量は極端に減って、信号も少なく快適なドライブとなりました。福島県いわき市の四倉には5時30分に到着し、車を道の駅に停めて海岸まで歩きますと、おお、既にサーファーが波にもまれていますな。遠浅の綺麗な砂浜が広がっていました。朝から海鮮丼が食べられる「くさの根」という食堂が、土日は7時に開店するので開店を待って入店、酢飯の美味しい海鮮丼を朝ごはんでいただきます。朝海鮮丼・800円でございます。海鮮丼以外にも好きなおかずの皿をお盆に乗せて行って、合計金額を精算するという形で朝ごはんを食べられるお店で、開店から間もなく、かなりのお客さんが入店する人気店でした。この後は道の駅で50分ほど時間調整をして、9時開館の「とみおかアーカイブ・ミュージアム」へ向かいます。
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とみおかアーカイブ・ミュージアム
とみおかアーカイブ・ミュージアムは、地域に受け継がれてきた歴史や文化を伝える郷土資料館的な側面と、東日本大震災とその後の原子力災害による「複合災害」に対応せざるを得なかった富岡町民の経験を伝える伝承館的な側面があります。まずは震災の動画を閲覧しました。地震と津波から避難したのに、続けて起った原子力災害から更に避難をしなくてはならない人々の時系列をたどることによって、私も複合災害を追体験しました。「国からも東京電力からも何の連絡も届かなかった、テレビから原子力発電所の事故と避難が必要とされていることを知った」というくだりでは、今後の日本人が直面するであろう大災害において、こういうことは、ほぼ確実に起こるだろうと、何にも頼ることが出来ない局面で己の生死を分けるような判断をしなければならない場面がきっとあるに違いない、そんなことを考えて寒気がしました。とみおかアーカイブ・ミュージアムを辞します。
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とみおかアーカイブ・ミュージアムから車で20分ほどの原子力災害伝承館へやってきました。富岡町から双葉町まで国道6号線を進みますと、福島第一原子力発電所の真横(真西)あたりでは、国道沿いの建物が壊されることもなくそのまま放置されています。回転ずしのチェーン店の看板や牛丼屋のチェーン店の看板などもそのままの姿で、遠目でパッと見た感じでは営業しているのかな?という自然な感じなのですが、近づくと明らかに放置されているのが判ります。お屋敷のような個人の住宅も少しよく見ると、窓枠が外れていたり雨戸が外れていたりと、13年前の震災の日から時が止まっているかのような錯覚を覚えました。原子力災害は、災害後にすぐには復興作業に取り掛かれないのだ、という現実を目の当たりにします。この原子力災害伝承館の周りも、いままさに「福島県復興祈念公園」が造られている最中であり、ようやく復興が始まっているのだということを実感しました。
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この施設はその名の通り、原子力災害についての説明が詳しい施設です。震災直後の原子力災害の時系列から、除染の方法、廃炉の説明に至るまで、一貫して原子力についての説明がなされていて、それらの情報を消化するための「放射能・放射線の基礎知識」についても、とても詳しい説明がなされています。単位一つとっても、それを理解していないと、受け取った情報を理解して判断し行動するということができないわけですので、この「基礎知識」が展示された部屋は、原子力災害を理解するには避けて通れない学習の場になっています。
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展示の中には「霧箱」の展示があります。霧箱は放射線が飛んだ場所に飛行機雲のような白い線が出来る装置で、直接見ることが出来ない放射線を、その飛跡で捉えることが出来る装置です。この伝承館の霧箱は、待つことなく白い筋が次々と現れますのでよく観察できます。世界でも例の無い、複合災害としての原子力事故が起きた現場に、より近い所にあるこの施設で原子力の基礎知識に触れることは、とても意味があると思いました。原子力災害伝承館を辞します。
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原子力災害伝承館から車で10分ほどの請戸小学校へやってきました。駐車場に車を停めた時に、ちょうど団体のバスも到着して、これは施設の中でかち合うなと思いましたので、小学校の周りをぐるっと回りながら少し時間をずらします。以前、宮城県の大川小学校を訪れた際にも感じたのですが、この小学校も2階建ての小学校ですね。
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ここ請戸小学校は、2011年3月11日の地震発生当時、82人の児童が学校に残っていたそうです。教職員に引率されてすぐに避難を開始し、約1.5キロメートル離れた避難場所である大平山を目指したとのこと。結果的に児童と教員の全員が無事に避難をすることが出来ました。
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14時46分・地震発生、14時54分・震度5の余震の中を大平山へ向けて避難を開始、15時14分・津波の予測高さが3mから6mへ修正されます。教頭先生は学校に残り、児童を迎えに来た保護者へ「児童は全員大平山へ避難していること・児童との合流は大平山の上であること」を話して、親御さんも直ちに避難するようにと呼び掛けたと。15時15分ごろに保護者の来校が停まり、最後まで残っていた教頭先生は校舎に誰も残っていないことを確認して15時25分に車で大平山へ向けて避難を開始、15時30分に津波の予測高さが6mから10m以上に再修正され、15時33分・沿岸部に津波の第一波が襲来。このような時系列が現地に展示してあります。また、請戸小学校(震災遺構)の公式ウェブサイトによれば、「教頭先生が最後に校舎内外を確認していると大津波が押し寄せてくるのが見え、地震発生から約40分後に請戸小学校は津波の被害に遭いました」とあり、かなりの間一髪・薄氷を踏むような避難とも言えるし、整然と出来ることをすぐにやった結果の必然的な全員無事とも言えると私は思いました。同時に、この避難ルート・避難方法に危うい箇所があるとすれば、「大平山までの1.5km」、これは子供の足で20分から25分くらいですかね、その20分間程は田んぼの平地を歩いているわけですから、津波の襲来が地震発生の40分後ではなく例えば10分後であったなら(次へ)
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(前からの続き)津波の襲来が地震発生の10分後であったなら、これは避難している全員が非常なる危険に晒されていた可能性があるわけだと、そう私は思います。これはこの請戸小学校の後に訪れた中浜小学校(こちらも2階建て)のケースなのですが、「津波の襲来が10分後という情報に接して避難方法を変更した(徒歩で20分ほどの避難場所へ避難せず学校の高い所・3階に当たる屋上相当部分へ避難した)」というケースもあって、中浜小学校の場合も「先生の判断の的確さ・以前からの災害対策の的確さ・それと幸運」が重なって児童・先生とも全員が無事だったのですが、請戸・中浜いずれの小学校にも「幸運」という要因が介在するということで、出来るだけ綱渡りをしない防災計画をたてるならば、やはり「4階以上(か5階以上かは、その土地の特性や標高にもよると思いますが)の堅牢な校舎・防災拠点としての校舎」があればいいのにと、私は思うに至りました。(翌日に訪れた荒浜小学校は4階建、数日後に訪れた向洋高校も4階建、どちらも学校の屋上に避難して全員無事でした)生徒数が少ないから教室が余ってしまうので2階建ての校舎にしたのかな、それとも別の理由があるのかもしれないが、迷うことなく避難する場所があることで、将来において確実に危険に晒される命の安全を担保出来るならば、普段使わない建物は決して無駄ではないはずです。請戸小学校を辞します。
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お食事処 旭亭
続いて相馬へ向かいました。相馬港の近くでホッキ飯を食べたいと思い、時刻は13時45分、通りかかった旭亭に入りますと、これが素晴らしく美味しい。店も綺麗で接客もとても感じが良く、ホッキも飯も美味いし潮汁もこれまた美味しい。炊き込みご飯は私にとっては郷愁を誘う食べものでもあり、ちょっと幸せな時間を過ごすことが出来ました。御馳走様でした。
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続いて相馬市伝承鎮魂祈念館へやって参りました。こちらは追悼施設としての意味合いが強い施設で、震災翌日の新聞などを興味深く観てから、受付に頼んで見せていただいた津波の映像がかなり強烈な印象を残しました。この施設を取り巻く日常の姿とはあまりにも違う津波の映像に心を動かされました。
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山元町震災遺構 中浜小学校
時刻は15時、山元町の中浜小学校へやってきました。この小学校も2階建ての校舎ですが、将来の災害に備えて土地を2m程度かさあげしていたということ、校庭に続く外階段と屋上部分へ通じる内階段がそれぞれあったということ、これらが見事に作用して、また、校長先生をはじめとする先生たちの防災意識も高く、その結果、児童・教職員・保護者合計90人が全員無事に助かった学校です。
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山元町震災遺構 中浜小学校
この画像の中央上側の壁に「2011・3・11 東日本大震災 津波浸水深ここまで」と書かれた青い看板があります。あそこまで水が来たのか、これは教室に避難していてはまず助からない水深です。かつて音楽室であった場所で拝見した映像によれば、3月11日の2日前の3月9日に地震があった際に、「津波から避難する場合には、津波の到達時間を一つの目安(どこへ避難するかの)にする」と教職員の意思統一がなされたとのこと。計画されていた避難所である近くの中学校は歩いて20分ほどの距離がありました。
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山元町震災遺構 中浜小学校
そして3月11日の地震の際には、地震直後にはテレビが映っていて、津波の到達予想時間が10分という情報が流れました。これは20分の距離にある中学校へ避難していたら危ない、学校に留まろうという校長先生の判断のもと、児童・教職員・保護者の90名は、学校内に設置されていたこの階段を昇り屋上部分へ避難しました。
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山元町震災遺構 中浜小学校
これがその屋上部分、画像右下のピンク色の壁、これは2枚前の画像(青い看板が写っている)のピンク色の壁と同じ高さです。つまりこの画像右下の壁まで津波が浸水したということで、土地のかさあげが為されていなければ、屋上も無事では無かったということになります。15時45分津波第1波・第2波が到達、更に15時50分、第3波と第4波の大津波が、これらは校舎の高さよりも高い津波だったそうですが、これが引き波とぶつかって高さが崩れたという幸運もあり、まずはなんとか津波をやり過ごしたと。16時7分には引き波も収まり屋上泊を決定、仮設トイレを設置、続く困難は、この屋上でいつ救助されるかもわからない寒い夜を過ごすことでした。雪がふる寒い夜を90人の皆さんは、よく頑張られたと私は思います。翌朝6時ごろ、自衛隊の大型ヘリコプターにより発見され救助されました。
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山元町震災遺構 中浜小学校
「結果は良かった、しかし最善の話では無い、本当にこれでよかったのかと自問自答する毎日である」 これは、2011年の8月ごろに中浜小学校がまとめた「震災を乗り越えて」という資料に書かれた文言です。徒歩20分ほどの高台にある避難所、10mの津波が10分後に到達予想、その中での垂直避難の決定、その結果、判断通りギリギリのところで津波を回避(1階4m×2階プラス、かさあげの2m)という、判断はバッチリの最適解の一つであったと私は思います。当事者が語る「最善の話ではない、本当にこれでよかったのか」という問いかけは、おそらく、私の考えでは、この避難にはマージン(余裕部分)が全く存在していないという奇跡であったから、そこに当事者は不安を感じていらっしゃるのだろうと思います。これが例えば「避難場所への移動は0分、垂直避難は4m×2階プラス4m×2階」(4階建ての防災校舎の屋上に避難を想定しています)ならば、幸運に左右される部分が減るという点(不確実性を排除するという点)で、よりマージンの大きい防災準備ができるのではないかと、私はそう思っています。
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山元町震災遺構 中浜小学校
90人の人々が助かって本当に良かった。時刻は16時20分、中浜小学校を辞します。
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さて本日は、国道6号沿いにある「ビジネスホテル レスト・パル」に泊まります。もともと旅行第1日目の今日は車中泊をして翌日の朝に宮城県の閖上海岸へ到着する予定でいたのですが、このお宿はなんと、1泊2食付きで3,300円、じゃらんのクーポンを使うと1,300円になるというお値段。これは車中泊は止めてこの興味深いお宿に泊まってみるかとやってきました。おお、なるほど、外観はプレハブそのものですな。各部屋にユニットバスもエアコンも付いている。学生時代の合宿所より条件は良さそうですよ。夕食は17時30分からですので到着と同時に食事を済ませてしまいましょう。
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おおお。夕飯は食堂へ行くと、係りの方が席を指定してくれて、食事内容はご覧のとおり、とても2食付き3,300円の食事とは思えません、予想よりもはるかに良かったですな。ドリンクバーにスープバーですから、飲み放題ですよ。土曜日に泊まったのですが、学生さんが多かったかな、彼らは翌朝も早く出ていかれましたから運動部の学生が遠征の前のりで泊まっている、そんな感じの宿泊者が多かったです。私も学生のころは運動部でしたけれどね、この食事の内容・この宿泊所の値段は、学生の合宿という点ではかなりの高級感があります。手のひらを返すような評価ですみませんが。私の合宿所は、確か1日1人500円、布団はレンタルでこれも300円+200円みたいな感じ、食事は1年生が部員50人分くらいを作る自炊で、先輩たちは飯の内容にうるさかったなぁ、まあ、こっちもニンジンの皮なんかムかないでそのまんま料理に使っていたなぁ、などと当時を思いだしてほんわかといたします。
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こちらが部屋ですね。個室です。ただ一点、このお宿に合わない人があるとすれば、それは衛生面・清掃面を重視する人といったところで、これは値段なりという感じですので割り切って利用した方がいいかなと思いました。私はもともと車中泊の予定でしたし、じゃらんのクーポンも使って格安ですので、文句を感じることも無く就寝です。
- 2日目2024年9月8日(日)
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このお宿の朝ごはんは4時30分から食べることが出来ます。4時30分に食堂へ行ってみますと、意外と利用者が多い、みんな朝が早いんだな、そんな感想を持ちます。朝ごはんはバイキングで小皿の総菜も多くて、これは良かったですね。6時にチェックアウトをして、閖上海岸へ向かいます。
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閖上水門
さて、6時5分に福島県の南相馬を出発しますと宮城県の閖上には7時20分ごろに到着します。閖上は私にとっては震災の記憶で一番強烈なビジュアルの記憶がある場所でして、今回、是非とも訪れてみたかった場所なのですが、仙台空港の脇を通って閖上に近づきますと、凄い車の数、ずぅーと向こうまで続く車の列が、大渋滞を各所に作っているのですな。いったいこれはなんなのかと。日曜日の朝早くの静かな閖上を想像していた私は困惑しました。結果から言えば、この日は「ゆりあげサンマ祭り」の当日でして、朝は6時前から宮城県の皆さんが閖上でサンマを召し上がっておられるニュース映像を、私は夜になってからテレビで見ました。すごい車の数だったな。
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閖上水門
名取市震災復興伝承館の広い駐車場に車を停めて名取川沿いの堤防を歩きます。私がなぜ閖上に来てみたかったのかと言えば、大津波の映像を震災当時にリアルタイムでみたのがこの名取川の津波だったからです。震災当日は金曜日で、私は半日有給を取って午後をお休みにして、当時一人暮らしをしていた母を連れ出してお昼に美味しいものを食べてもらい、帰り際に買い物をしている最中に地震が始まりました。母を家に送り届けるまで大渋滞の中を1時間くらいでしょうか、実家に上がり込んでテレビを見ますと、だいたい時刻は15時50分くらいでしたね、最初は川(いまから思えばあれが名取川)を逆流する海水をカメラが捉えています。それだけでも充分に驚く映像だったのですが、ヘリからのカメラがずぅーっと向きを変えて川の河口方向を映した時に、一瞬、何が何だか、スケール感を正しく感じられない、何か白い木の枝が流れているのかなと思ったら、それは津波に流されて行くビニールハウスでした。私の脳の焦点が合うと、車や家がまるでミニチュアのように波にのって滑るように移動していく、その先にはブレーキランプが点いたり消えたりしている長い車列。それがこの閖上と対岸の藤塚地区の津波の光景でした。
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避難の丘 (藤塚地区)
閖上の対岸にある藤塚地区・避難の丘にやってきました。ここが、こんなに静かな場所があの映像の現場かと。自分の中の記憶と目の前の光景とでスケールを一致させる作業をします。私の住む神奈川で言うならば、ここは相模川の河口、平塚と茅ケ崎に実によく似ています。相模湾で地震があれば、2011年の名取川の津波と同じようなスケールの津波が相模川へ来るのかもしれない、そんなことを考えました。震災当日に名取川河口付近の津波の映像を捉えたカメラマンとヘリコプターのパイロットの体験談が現場の迫真と彼らの真摯な苦悩を伝えて秀逸です。その体験談はどの伝承館でも目にしませんでしたが、「救助のヘリじゃなくてごめんない」でネット検索しますと、該当のウェブサイトにたどり着きますので是非ご覧ください。
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荒浜小学校にやってきました。おお、ここは4階建ての校舎ですね。私も子供のころはこういう校舎でしたよ。荒浜小学校の開門時間は9時30分から、開門まで40分くらいありますので、荒浜海岸へ足をのばします。
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荒浜小から荒浜海岸にかけての道路沿いに、このような写真が展示されています。荒浜海岸、この「音」も強烈な印象が私には残っています。今では「あのニュース(荒浜海岸に200人から300人の人がうちあげられているというニュース)は誤報だった」という事実がわかっていますが、震災当日の22時くらいですかね、荒浜海岸についてのニュースが流れて、あれだけの津波の映像を見ながらも人的被害については何も情報が入ってこなかったそれまでの状況にひょっとしたら人的被害は軽微なのではないかという私の一縷の望みを完全に断つ、そんなニュースでした。
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9時半になりましたので、荒浜小学校の校舎の中へ入っていきます。画像のここは荒浜小学校の中で一番最初に津波が押し寄せてきた場所で、2階・廊下の一番海よりのガラス戸になります。ぶちあたった津波の力でベランダのコンクリの壁と鉄柵は倒壊しました。荒浜に到達した津波の高さは9m、校舎の2階の床があっという間に浸水したそうです。
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こちらは校舎2階で撮影した画像です。左手のパネルの画像は震災の翌日に撮られた2階の廊下の様子です。以下は2011年3月11日の荒浜小学校の時系列です。14時46分に地震発生、地震が収まった後は、(あらかじめ決められていた)校庭での整列をすることなく児童・教職員を4階へ避難させ、15時10分ごろに避難完了。そのころ地域の人々も学校へ避難をしてきて3階や4階への避難を呼びかけている15時55分ごろに校舎に津波が到達し、屋上へ避難して16時10分ごろには校舎の屋上は避難者で一杯な状況であったと。荒浜小学校への避難者数は、児童71人・地域住民233人、教職員16人の計320人だったそうです。
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そしてこちらがその屋上ですね。一枚後の画像の左下あたりから右斜め上の方向に撮った画像です。そして17時30分ごろに救助のヘリが来て、ホバリングしながらの救助を開始、年齢の小さな子供達から一度に数人ずつの救助であったため、夜を徹しての救助活動となり、翌朝5時ごろに6年生の救助が完了、続いて中高生の救助の後にヘリが来なくなってしまったと。昼の12時ごろに消防団が歩いて救助に来て、その消防団とともに50人ほどが膝や腰まで水に浸かりながら歩いて避難、午後には水が引いてヘリが地上に着陸できるようになり、15時ごろからは1度に10人ずつの救助が続き、18時30分ごろにヘリコプターによる救助が完了、19時には避難した児童71人全員の無事を確認したということです。
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こちらの画像は、荒浜小学校の後に訪れた「みやぎ東日本大震災津波伝承館」に掲示してある画像です。学校に掲示してある時系列によれば、当日は吹雪でしたので、津波が落ち着いてから浸水の無かった3階や4階へ移動して休んでもらっていたということで、この画像にも4階と屋上に避難している方が見えますね。この画像が撮られた時点では、学校に避難している方はいつまでに救助されるのかということは判っていない段階ですから、自分はこの先、助かるのか、家族は無事か、知人は無事か、などなど、不安でいっぱいであったに違いない。とにかく、助かって良かった。荒浜小学校を辞します。
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みやぎ東日本大震災津波伝承館
荒浜小学校から2時間ばかり車で走って、石巻市のみやぎ東日本大震災津波伝承館へやってきました。みやぎ東日本大震災津波伝承館は石巻南浜津波復興祈念公園という大きな公園の中にあります。石巻市は約4,000人の犠牲者が集中した国内最大の被災市町村とのこと、特にこの公園がある場所全体にかつて存在した南浜地区(南浜町・門脇町・雲雀野町)は、津波の襲来とその後の火災の延焼で500人以上の方が亡くなった場所です。この公園はその被災地の跡に造られました。広くて道路からも離れているため、とても静かですね。公園内の丘の上から海の方向を眺めます。
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みやぎ東日本大震災津波伝承館
あの建物が「みやぎ東日本大震災津波伝承館」です。この伝承館はその名の通り、津波の解説がとても詳しいと私は思います。入館して最初に観るビデオ映像も、かなり強い印象を受ける津波の映像でした。この施設が(思い起こせばすべての伝承館も)一貫して主張されている内容は、「とにかくすぐに逃げる」「より高い所へ逃げる」「決して戻らない」とという点ですね。後片付けをしていて逃げ遅れたとか、以前のチリ地震では津波がここまで来なかったからここには津波は来ないんだと思い込んでいて逃げなかったとか、みんなが逃げていないから逃げなくても大丈夫だと思ったとか、一度は逃げたがしばらく待っても津波が来ないので戻ったとか、逃げ遅れた方の行動パターンはかなり似ていると思います。ここで特に感じたことは、津波は自然現象・物理現象なのだということです。地震で隆起したり陥没したりという海底の地形変化に伴って発生する自然現象であって、来てから逃げていたのでは遅いので、来るものとして逃げるしかない。津波の場合は「地震」が予兆だと思いますので、あとはタイミングを外さずに「すぐに逃げる・より高い所へ逃げる・決して戻らない」。海に近いところに生活拠点を置いている以上は、逃げる以外の選択肢は無いのだと私は思いました。
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みやぎ東日本大震災津波伝承館
こちらは「伝承ロード」の説明パネルです。震災伝承施設について詳しく説明してあります。震災伝承施設については「東日本大震災から得られた実情と教訓を伝承する施設で、次のいずれかの項目に該当する施設」と定義しています。1、災害の教訓が理解できるもの 2、災害時の防災に貢献できるもの 3、災害の恐怖や自然の畏怖を理解できるもの 4、災害における歴史的・学術的価値があるもの 5、その他(災害の実情や教訓の伝承と認められるもの)。そして、「第1分類」の伝承館とは、上記1から5の項目のいずれか1つ以上に該当する施設、「第2分類」の伝承館は第1分類の条件を満たし、かつ公共交通機関等の利便性が高い、近隣に有料または無料の駐車場があるなど、来訪者が訪問しやすい施設、「第3分類」の伝承館は、第2分類の条件を満たし、かつ案内員の配置や語り部活動等、来訪者の理解のしやすさに配慮している施設、とのことです。そしてこの「みやぎ東日本大震災津波伝承館」には福島・宮城・岩手・青森の伝承ロードの持ち帰り用のマップがそれぞれあって、どこにどのような施設があるか、分かりやすく記載されているので、各地の伝承館を訪れる計画を立てる際にはとても便利だろうと思いました。みやぎ東日本大震災津波伝承館を辞します。
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東松島市東日本大震災復興祈念公園
東松山市東日本大震災復興祈念公園へやってきました。こちらはかつてのJR仙石線・野蒜駅(のびるえき)の駅舎です。1階まで浸水した駅舎は震災遺構として遺され、東松山市震災復興伝承館となっています。
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東松島市東日本大震災復興祈念公園
そしてこちらは旧・野蒜駅のプラットフォームですね。ホームには立ち入ることはできませんが、その周囲をぐるっと見て周ることができます。曲がりくねったレールがそのまま遺されていました。さて、時刻は16時前、本日の宿へ向かいますか。
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塩釜のスマイルホテル塩釜に到着、今日は疲れました。シャワーを浴びて早めに就寝です。明日は朝早く起きて、散策をしようと思います。
- 3日目2024年9月9日(月)
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4時起床、シャワーを浴びて5時に外出、車で5分ほどの塩釜神社へやってきました。駐車場に停まっている車はありませんでしたが、歩いている人・走っている人など、塩釜の朝は早いようです。ひと気のない境内で柏手を叩くと音がピーンと響いて気分が良いです。
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そしてこれが「文治の燈籠」です。元禄2年5月9日(1689年6月25日)、松尾芭蕉は塩釜神社に詣で、この燈籠を観て、その感想を奥の細道に記しています。燈籠には扉が付いていて、扉の碑文には「文治三年七月十日 和泉三郎忠衡敬白」と記されているのですが、文治三年七月十日は西暦に直すと1187年8月15日だと思います、そして和泉三郎忠衡とは、奥州藤原氏・藤原秀衡の三男である藤原忠衡のことです。で、父親の秀衡さんは源義経をかくまった人なのですが、文治三年十月二十九日(1187年11月30日)に亡くなってしまうわけです。そして遺言で義経さんをお守りするようにと息子たちに託すわけですが、秀衡さんの跡を継いだ泰衡さんは源頼朝からの義経を引き渡すようにという圧力に耐えきれず、義経さんを攻めて自害に追い込んでしまいます。この時に「和泉三郎忠衡」さんは義経さんをかばって(あるいは兄・泰衡の義経謀殺に反対し義経保護を主張して)、その結果、義経さんの死後50日ほどで、23歳の若さで亡くなります。そういう歴史をふまえた上で、芭蕉さんは奥の細道に、「神前に古き宝燈あり。かねの戸びらの面に、文治三年和泉三郎奇進 とあり。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そぞろ珍し。かれは勇義忠孝の士なり」と記しています。 (次へ続く)
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(前から続く) 記述の後半を意訳も含めて現代語に訳すと「今から約500年前に亡くなった人がまるで目の前にいるようで、ただひたすらに敬愛の念を禁じ得ない。彼は勇ましく義に篤く主君に対する忠にも親に対する孝にも篤い、漢の中の漢である」ぐらいの意味でしょうか。芭蕉さんは源義経も木曽義仲も、そしてこの和泉三郎忠衡もお気に入り、大好きみたいですね。芭蕉さんは「やむに已まれぬ、負ける可能性が大きいけれども一縷の望みに懸ける、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」、そういう生き方に魅力を感じる御人だったのかもしれません。それと昭和のキャッチコピーで「負けて絵になる男が憎い」という、これも素敵なキャッチコビーですけれども、そういう感性もあったのかなと、私は勝手に思っております。あっぱれということですね。500年前の勇義忠孝の士を想う芭蕉さんを、その335年後の世界から想う私がいると、そんな空想をしながら燈籠の扉の銘文をじっくりと見ます。いや、凄いなー、837年前の燈籠か、そして芭蕉さんもこれを観たのだなと不思議な時間を楽しみました。塩釜神社を辞します。
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時刻は5時45分、馬の背にやってきました。実際に来てみて思ったのは、結構細いってことです。この目の前の道が細くて、おっかなびっくりで歩きました。朝早くに一人で来て道を踏み外したらなんて、あまり考えたくないですな。先端近くまで行き朝焼けの松島の島々を観てから早々にひきあげます。
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松島公園第5駐車場に車を停めて雄島に渡ります。早朝ですので1時間100円で停めることが出来ます。おお、松島じゃな。松島じゃ。馬の背では頼りない足場にソワソワとして落ち着いて観ることかできなかった松島の景観を、ここ雄島ではゆっくりと観ることができました。本日は雲が垂れ込めて朝日は観ることができないが、水平線までくっきりとして視程が良いので、島がポツリポツリと浮かんでいる奥行きのある景色を楽しみます。日中は混雑している松島ですが、早朝の静かな時間を過ごすことができたのも良かったです。このあとホテルに戻ってシャワーを浴びてチェックアウト、松島に戻って瑞巌寺の開門時間・8時30分になるのを待ちます。
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時刻は8時10分、五大堂にやってきました。五大堂は五大明王が祀られている堂宇で、島全体が聖域とされています。この橋は足下の板と板との間を意図的に開けていて「すかし橋」と呼ばれています。案内板によれば「五大堂への参詣には身も心も乱れのないように、脚下(あしもと)をよく照顧(みつめる)して気を引き締めさせるための配慮」とあります。すき間から海がみえるのですが、けっこう高いのぅ。
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瑞巌寺へやってきました。まだ参詣者がほとんどいない静かな境内です。いい雰囲気の参道ですね。さて、こちらのお寺は東日本大震災では地元の人や観光客など、約300人の避難者を受け入れたそうです。これは瑞巌寺があらかじめ避難所として計画されていたわけではなく、海岸から逃げてきた観光客などを即時に受け入れたということです。お寺では避難者を、まずは裏山に誘導し、午後6時に修行道場(普段は一般の人が立ち入れない)へ案内、午後8時からおにぎりを作って、これはご飯を何度も炊いて皆に行き渡るまでおにぎりを作ったそうです。
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こちらは国宝の本堂です。堂内には法要が執り行われる部屋があって、部屋は立ち入り禁止ですが、見事な襖絵と天井の造りを見学することが出来ます。私は江戸時代あたりに意識を飛ばして、伊達家の法要が行われている様を想像してみます。さぞかし厳かであったろう、限られた人たちしかこの場所には立ち入れなかったろうなどと勝手に想像をして楽しみました。とても静かで厳かな気分になれたのが良かったです。瑞巌寺を辞します。
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観瀾亭
瑞巌寺から歩いて5分くらいの観瀾亭へやってきました。この建物はもともとは伏見桃山城の一棟で、伊達政宗が豊臣秀吉から譲り受けた建物です。伊達家の江戸の藩邸に移築していたものを、二代目藩主・伊達忠宗がこの地に移したものと伝えられています。あまり風が通らないのですが、時より吹く風が本当に気持ち良い。眺めもいいですね。こちらではお茶を飲むことが出来ます。入り口で料金を払って座って待ちます。
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観瀾亭
ああ、いい眺めだな。観光船の発着場も近く、観光船の姿も見えます。こちらの建物は納涼・観月としての「月見御殿」であり、また、藩主・姫君・側室等の松島遊覧の際の宿泊所となる「御仮屋」でもありました。ゴロンと横になって肘枕で居られたら、気分いいだろうなぁ。
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観瀾亭
おお、お抹茶の到着です。景色をみつつお茶を喫しながら、先ほど観てきた瑞巌寺の本堂を思い出します。本堂の片隅には島崎藤村さんが葡萄と鼠が題材の瑞巌寺本堂の透かし彫りに心を動かされて詩を書いたとあり、その透かし彫りと詩が紹介されていました。日本の各地を旅していますと、日本の至る所で、西行法師・松尾芭蕉・正岡子規・島崎藤村及びスナフキンなどの名前を目にし、あるいは思い出したりします。他にも若山牧水や斎藤茂吉など、みなさん、本当にいろんなところを訪問されているのですね。現代の旅行では「移動」の時間をできるだけ短くして「観光」の時間を増やしたいという傾向があると思いますが、昔の人にとっては(もちろん、現代の一部の人にとっても) 移動こそが旅、旅は移動そのものだったのだなと、そんなことを考えました。歩き、自転車、バス、列車、新幹線、自家用車に航空機と船、現代でも移動の手段はいろいろありますけれど、歩きは歩きの、飛行機は飛行機の、それぞれ良さがあって、決して同時には(歩きの良さは飛行機の旅では味わえない、逆もまたしかり)両方のメリットを享受できないものだななどと、和菓子を切りながら考えました。自家用車でも運転しているのか助手席にいるのかでも、旅の印象はかなり変わるものですね。一関市藤沢町大籠へ向かいます。
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松島から登米市方面へ、国道346号線で向かいます。この346号線はドライブしやすい良い道でした。道の駅に寄って「マイタケらーめん」を食べます。美味しいですな。個人的にはもう少しマイタケが入っていると嬉しいのですが。この道の駅では、乾燥シイタケと油麩の切り落としを自分用のお土産で購入します。
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そして大籠へやってきました。私のルーツを調べると、どうやら父方の先祖はこの大籠に関係があるらしいということで、これはもう随分と前から私は知っていたのですが、とうとう本日、自分のルーツに関係のある大籠の地を訪れることになりました。そして同時に、ここ大籠は、キリシタン殉教の地であるという歴史上の事実があります。案内板によれば「この公園は、大籠の人々によって代々語り継がれてきた尊いキリシタン殉教の歴史を、ひろく後世の人たちに伝えるために設置したものです。公園は「歴史の庭」「歴史の道」「歴史の丘」の3つのゾーンからなっています」とあります。歴史の庭にはキリシタン資料館があり、歴史の道には309段(これはこの地で殉教した309名と同数)の階段があって、歴史の庭と歴史の丘をつないでいます。そして歴史の丘にはカリヨンゲートと大籠クルス館があります。
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この日は月曜日でしたので大籠キリシタン資料館はお休みでございます。これはプランニングの段階から押さえていた情報でして、明日、再び資料館にやってくる予定ですが、本日はこの大籠という自分にとっては特別な土地を少し感じてみたいと思います。画像の地図は大籠のキリシタンに関する史跡の案内です。来てみて分かったのは、かなりの広範囲に史跡が点在しているということですね。
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ここが歴史の庭ゾーンにあたる場所で、左奥にキリシタン資料館があり、手前には母子像と聖なる泉があります。今日は資料館がお休みで、私の他には人の気配がなく、とても静かです。ここ大籠は「たたら製鉄」の歴史もあって、その案内板もあります。この地においてキリスト教の教えが広がったこととこの地が「たたら製鉄」の地であったことは、どうやら無縁ではないようですね。
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これが「歴史の道」の309段の階段です。奥の方の階段が壁のように見えます。今日は9月だというのにとても暑い日ではありますが、この階段を昇ってみます。この地において、キリシタンの殉教は1640年前後の数年間の出来事です。少し時系列をおさらいすると、フランシスコ・ザビエルの来日が1549年、豊臣秀吉の禁教令は1587年と1596年、徳川家康の禁教令は1612年と1613年、伊達政宗はキリシタンの禁止には比較的柔軟であったが1620年ごろから徐々に弾圧を強化する姿勢をみせ、それでも政宗の時代はまだ良かったが、伊達政宗が1636年に亡くなって、1637年には島原の乱が起り、ここ大籠では1639年に地蔵の辻で84名、1640年に地蔵の辻と上野刑場で各94名、その他合計で300名以上の殉教があったということです。
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ここからは更に傾斜がきつくなりますね。直行の階段の他に「十字架の道行」という九十九折りの脇道があります。この地方は大籠だけでなく、大籠に隣接する米川(宮城県登米市東和町米川)や馬籠(宮城県気仙沼市本吉町馬籠)でもキリシタン殉教の歴史があります。馬籠では大籠に先立つこと8年ほどの1631年にキリシタン信徒の大検挙があり、米川では大籠の殉教から80年ばかり後の1716年から1735年にかけてキリシタン信徒の処刑が行われていたという記録が残るそうです。
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歴史の道の途中(十字架の道行の途中)に遠藤周作氏の碑文がありました。碑には2つの文章が書かれています。「切支丹最後の地として わたしは夕暮れ近く大籠の街道を歩いたのだが、点々と残っている首塚や処刑場の跡に寒気さえおぼえたのだった。九州の切支丹遺跡を訪ねても こんな陰惨な感じをあたえる場所はなかった。ここは文字どおり東北切支丹の最後の聖地であろうと思えた(切支丹時代より)」という文章と、「こういう公園が出来て本当に良かった。 多くの人々の目にふれて殉教という史実は現代人に何を感じさせるだろう」とい文章です。日付は「平成七年十月、ポウル フランソワ 遠藤周作」とあります。遠藤周作さんは平成8年9月29日に亡くなっていらっしゃいますので、亡くなる1年前の碑ということになります。ポウル(ポールもしくはパウロ)は遠藤周作氏の洗礼名です。この地でキリシタンの殉教があったのは1640年ごろ、それから400年近くの歳月が経過してもなお、痛ましい・なまなましい殉教の跡が埋もれることなく遺っていることの意味を考えてみます。なぜ、この地に住んでいた人々は、その遺跡や事実を埋めてしまうことなく脈々と引き継いできたのであろうかという想像と追体験です。
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カリヨンゲートが現れます。あの下まで行けば上りの階段は終わりです。かなりきつめの階段で汗びっしょりとなりました。
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大籠クルス館です。今日は休館で開いてはいませんが、中にはキリスト像など3体の彫刻が安置されています。定められ時間になったようで、カリヨンが音楽を奏で始めました。鐘の音が大籠の空に吸い込まれていきます。その音を聴きながら私は、静かだなぁ、そして不思議だなぁと思います。
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ああ、広くて静かだな。いい風が吹いております。私のご先祖様はどんな生活を送っていたのでしょうかね。どんな景色を見ていたのでしょうか。
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私のご先祖様とキリスト教とはどんな関係だったのかな。キリスト教やキリシタンに対してポジティブだったのか、ニュートラルだったのか、ネガティブだったのか。尋ねるべき人は私の生前に亡くなっているし、父も私の若いころに亡くなっていますので、具体的なことはわからないのですが、階段を昇りながら考えたテーマ、「なぜこの地には時間に埋もれることなくキリシタン殉教の歴史が住民の生活の表層に溶け込みつつ脈々と伝承されてきたのか」という史実を想う時、この地の人々が亡くなった人に対して抱いていた気持ちの方向性をうかがい知ることが出来るのではないか、つまり、人々は亡くなった人を大切に想っていたのだろうと、そんなことを私は考えました。私自身、幼稚園はキリスト教の幼稚園で日曜学校へ通っていたし聖書も読んだし讃美歌も歌ったけれど、単純に家に近い幼稚園だったという感じで、父の葬儀も母の葬儀も仏教でしたし、代々受け継ぐキリシタンの家系という雰囲気はありませんでした。丘を下りて、大籠の道を歩いてみます。
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地蔵の辻(大籠キリシタン殉教公園)
こちらは大籠キリシタン殉教公園に近い場所にある地蔵の辻、別名を無情の辻と呼ばれます。1639年から1640年にかけて、信徒178名が殉教した場所です。いくつかの古い石塔が樹の根元に並んでおります。私は想像を働かせながら過去にさかのぼってその土地の記憶にアクセスする手法が好きで、歴史上の寺院や有名な故事があった場所で自分の意識を過去へ飛ばすことをよくするのですが、この場所ではさすがにそれが出来ません。ただ静かに過去を想ってシンとしました。
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大籠の長徳寺へやって参りました。地元のお寺がこの地に住んでいた人々の菩提寺になっているのだろうと思ってお参りをします。
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境内にはこのような案内板がありました。「切支丹宗門改帳」とは、これに名前が記載されると、寺の檀家であるという証明になり、寺の檀家だからキリシタンではないという証明になる、そういう帳面だそうです。長徳寺は潜伏していたキリシタンを檀家に組み込み、切支丹宗門改帳に名前を載せることで仏教徒だと偽装しかくまっていたということがわかってきたそうです。
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架場首塚(大籠キリシタン殉教公園)
長徳寺を辞し本日のお宿のある気仙沼の岩井崎へ向かいます。画像は大籠の架場首塚です。案内板のよると「ハシバ首塚 ハシバは架場(はせば)の意かと思われる。処刑場の首を架掛(はせが)けにして曝(さらし)首にした場所。その傍らに穴を掘り、斬首(ざんしゅ)の理由書とともに埋めた」とあります。なぜそこまでするのか。キリスト教の禁教というのは、当時の支配者階層からすれば国と国との戦争に等しい重要な施策だったことは想像に難くありませんが、実際に亡くなった人々、その人々を見守った人々を想う時、過酷な時代を生きていたかつての命の存在を想うほかは、今を生きる私には何もできないのだと思いました。
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大籠から車で15分ほどで海岸近くまで達し、そこからさらに15分ほど北上すると本日のお宿である岩井崎の崎野屋に到着です。崎野屋へ近づいたときに気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館である「宮城県気仙沼向洋高等学校旧校舎」が現れました。こちらの施設は、今日・月曜日は休館日ですので、明日の朝に訪問する予定です。
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崎野屋にチェックインです。崎野屋は岩井崎の高台にあったために、津波の被害を受けなかったお宿です。お風呂に入ってさっぱりとしてお夕飯を待ちます。
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そしてお夕飯です。凄いなー。左上から釜飯、お刺身盛合せ、メカジキのカマ煮付け、ホヤのお造り、三陸わかめのオクラ和えです。そしてこれだけでなく、海タナゴの塩焼き、カフライ、吸い物、果物と登場いたします。
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一人分のお刺身です。エビの身が厚いですなぁ。美味であります、美味。
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カキフラーイ。これは美味かったですねー。ジューシーで旨みがあって、ホクホクといただきます。お吸い物のつみれ汁も美味しかった。釜飯はアサリ・シャケ・シイタケ・ニンジン・油揚げ・タケノコの釜めしです。量が多くて、釜飯を3分の1ほど、そしてカジキマグロのカマの煮付けを少し、残してしまいまして、私は食事を残すってことがほとんどないので、食べきれずに残してしまったのが残念でした。夜はぐっすりと眠れました。
- 4日目2024年9月10日(火)
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崎野屋さんの朝ごはんです。この朝ごはんもおいしかったなぁ。塩じゃけも美味しかったし、味噌汁が美味しかったなぁ。私も自宅で味噌汁は作るのですが、それも、ウマいみそ汁をつくろうといろいろとやるのですが、海沿いの民宿の味噌汁の美味さには、この崎野屋さんの味噌汁の美味さには到達できないですねー。御馳走様でした。
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崎野屋さんをチェックアウトをした後、「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」の開館時間まで岩井崎園地を散策します。漁から帰ってくる船が見えますな。
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そしてこちらが岩井崎にある「流の松」です。東日本大震災の津波によって、幹や枝などが被害をうけたものの、一部が残ったことにより、奇跡的に龍の姿が現れました。
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こちらは岩井埼灯台。昭和4年(1929年)初点灯の灯台です。詳しい説明は現地に無かったとおもうのですが、この灯台は津波の被害(倒壊や破損)を受けなかったのですかね。岩井崎周辺では、崎野屋さんのある高台(海抜11.5m)は津波被害を受けなかったのだが、岩井崎から直線距離で1.2kmほど離れた「杉ノ下地区」では高台(海抜11mもしくは13m・明治三陸大津波の時に津波 が来なかった)に避難していたのに、その高台を上回る津波(18m)に襲われて、その場では60名ほどの方が(杉ノ下地区全体では住民312名中93名)亡くなられたそうです。気象庁のウェブサイトによれば「津波の高さは海岸付近の地形によって大きく変化します。さらに、津波が陸地を駆け上がる(遡上する)こともあります。 岬の先端やV字型の湾の奥などの特殊な地形の場所では、波が集中するので、特に注意が必要です。 津波は反射を繰り返すことで何回も押し寄せたり、複数の波が重なって著しく高い波となることもあります」という記述があります。波と波が同期すればブランコの揺れが大きくなるように大きな波が発生する、そしてそれはその時の波の伝わり方によって、どこで発生するかはその時でないとわからない、そんな怖さがあります。
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気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館へやってきました。この施設は見学の導線がしっかりとされていて、まずはビデオを観るところから始まります。このビデオは気仙沼の津波と火災についての映像でして、家や船やタンクが目の前で流されて行く様子など、私にとっては初見の物も多くて、かなり強烈な印象が残りました。そのあとは「宮城県気仙沼向洋高等学校旧校舎の南校舎」へ見学の導線はつながります。この画像は津波によって校舎内に運ばれてきた車の画像ですが、このフロアは3階です。津波は4階まで到達したそうです。
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気仙沼向洋高等学校では地震が発生した時、学校に170名ほどの生徒が残っていたが、この生徒全員は海から離れた避難所へ向かい無事でした。教職員20名は重要書類などを保護するため南校舎に残り、北校舎の大規模改修工事を行っていた工事関係者25名とともに最終的に南校舎の屋上へ避難、津波は校舎手前の冷凍工場などにぶつかり勢いが抑えられたことが幸いし、南校舎の4階の床から25センチの所までの浸水にとどまったと。この写真は南校舎と北校舎をつなぐ渡り廊下と中庭に津波が押し寄せている画像です。この画像が撮られた後、画像中央の渡り廊下も水没しました。校舎の向こう側から山までの間の津波の様子など、平野部の津波とは様子が違う(浸水深がより深い)ように見えます。これはリアス式海岸の特徴なのかなと私は思いました。
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上の画像が展示されている南校舎の屋上から、画像と今の姿を見比べると津波の波の勢い・深さ・不気味さなどが伝わってきます。校舎に当たる波の勢いを減じた冷凍工場が流されて、この校舎に衝突しましたが、校舎の角にぶつかって直撃しなかったことも不幸中の幸いで(校舎の倒壊を免れたという意味だと思います)、校舎屋上に避難した人々は、夜は浸水の無かった北校舎の4階で寒さをしのぎ、翌朝流れついたボートを引き寄せて全員が無事に脱出したということです。見学導線の最後の方に、地震が起きた後の人々の行動パターンが3つに分けられるいう展示が興味深かったです。「すぐに逃げた人」「海に近づいた人」「何かをするために逃げなかった人(自宅にとどまった人)」の3パターンに分類すると、すぐに逃げた人は3割、すなわち約7割はすぐに逃げなかったということです。ちなみに「海に近づいた人」とは消防団などの理由で近づかざるを得なかった人々です。ここでも「すぐに逃げる」「逃げる以外の行動を始めない(片付など)」「決して戻らない」という鉄則が示されていました。すぐに逃げると渋滞に遭わないのですぐに移動できるという証言もありました。
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気仙沼向洋高等学校の旧南校舎の屋上から見た杉ノ下地区の高台です。(4つ前の画像で詳細を記述した悲劇の場所です)。この画像の中央に見える高台に津波からの避難台が新たに設けられていますね。すぐに逃げたはずなのに、より高い場所へ逃げて戻らなかったのに助けられなかった命もあるという現実です。平野部よりもリアス式海岸ではより即応的な行動とともに、事前の対策もより重要度を増すようです。杉ノ下地区の一部は現在は「災害危険区域」に指定されているようですね。住居の用に供する建築が禁止された(要するに住むことが出来ない)土地になっています。なお、杉ノ下地区の悲劇については「杉ノ下高台の戒め」というワードで検索すると、詳しく閲覧出来るウェブサイトがあります。伝承館を辞します。
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大籠キリシタン殉教公園の資料館へやってきました。まずはビデオを観ます。このビデオは観るか観ないかを資料館の方に聞かれますが、私は観て良かったと思います。資料館の展示物の意味やつながりがよく理解できるからです。ただし内容はかなりキツイ内容・容赦の無い表現ですので(これは地蔵の辻や架場首塚の案内板を読んだ時にも感じましたが)、心を揺さぶられるというか心がざわつくというか、心身が繊細なタイミングでは具体的な内容にはあまり近づかない方が良いかなとも思いました。だから資料館の方が観るかどうかを訪ねられたのかな?と、今この旅行記を書いていて私は思いました。
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藤沢町に関する資料を3冊購入しました。
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史跡の詳細を記したガイドマップがとてもよくできています。資料館でいただいたものですが、訪問の前にあらかじめ入手出来たら、プランニングに役立つなと思いました。
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ガイドの裏は地図になっています。大籠キリシタン殉教公園を辞します。大籠にはまた行きたいですね。
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一関の藤沢町大籠から車で2時間40分ほどで、岩手県の田野畑村にあるホテル羅賀荘へやってきました。田野畑村の景勝地・北山崎まで車で12分ほどの海岸沿いに建つホテルです。私は2007年の9月以来17年ぶりの宿泊になります。外観は変っていないなぁ。
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大震災では3階の大浴場まで津波が達したということで、営業を再開するのは大変だったに違いありませんが、被災から1年8ヶ月後の2012年11月には営業を再開されています。前回私が宿泊した時は、高齢者を2人連れた計4人での旅行で、従業員の方々に親切にしていただいたなぁなどと思いだします。
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部屋は9階です。いい眺めですねー。まずはお風呂に入り、前回も散策した堤防の遊歩道を散歩しました。かつて展示してあった船のイカリなどは津波に流されてしまったようですが、堤防の遊歩道はところどころ改修されて今もゆったりとした時間が流れておりました。
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食事も美味しかったです。アワビに焼肉、カニに船盛のお刺身と、美味しいものをたらふくいただきました。ごちそうさまでした。
- 5日目2024年9月11日(水)
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朝、浴場からみた日の出がとても綺麗でしたね。水平線から赤い太陽が少しずつ昇ってくる様をお湯に浸かりながら観ました。画像は朝風呂を出て部屋に戻ってから撮ったものです。建物や設備は古くとも丁寧にメンテナンスされていて快適に過ごすことができました。
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さらば羅賀荘、また来る日まで!
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羅賀荘から車ですぐの明戸海岸にやってきました。この画像は震災遺構明戸海岸防潮堤の案内板に掲載されている画像で、右手中央にある建物が、今、私がチェックアウトしてきた羅賀荘です。第二波の津波が第一波の津波の引き波とぶつかって海岸線へ不気味な高い波が迫っています。そして引き波の過ぎた場所はこれまた不気味な海底をみせています。第二波と第一波の引き波との衝突地点の波は高いけれども、直で第二波の津波が海岸線に到達するよりも、引き波にぶつかって第二波の勢い(エネルギー)が減衰されると、第二波の津波が海岸沿いを破壊する力は弱まることもあるかもしれません。今まで、「津波は必ず来る、防御する方法はない」という前提で私は考えていますが、いつの日か、遠い遠い将来、地球上で、あるいは人類が進出に成功した別の惑星で、津波を防ぐ(被害を少なくする)巨大なシステムや方法が実現するかもしれませんね。
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こちらは明戸海岸の旧防潮堤です。明戸海岸に到達した第一波の津波(17.1m)は簡単に防潮堤を乗り越え、その後に引き波となってこの防潮堤を破壊していったそうです。押し波も怖いが、引き波はもっと怖い。そうはわかっていても、引き波が破壊するという事実を目の当たりにして、あらためて驚きます。
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明戸海岸から車で20分ほどの北山崎へやってきました。切り立った急峻な崖と穏やかでキラキラと輝く海との対比が実に美しい景色です。2007年に訪れた際にも、今日と同じ景色をみたよなぁと思いだし、ほんわかとした気分になります。
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今年は7月とこの9月の旅行で、福島から三陸そして下北へと様々な震災遺構や伝承館を見て周りまして、いろいろ気が付くことも多かったですね。私の住む神奈川でも近いうちの地震・津波災害が予測されていますし、多分、私が生きてる間には大きな災害に遭うことになるでしょう。そしてその災害によって自分の命が尽きる可能性はあるだろうと、ある程度の覚悟は決めてはいるけれど、噴火災害や原子力災害や戦争災害も含めて、無ければ無いに越したことがないのになぁ、などと思ってしまいますね。北山崎を辞します。
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岩手の海岸から内陸に入って田野畑から1時間20分ほどで遠野に到着です。遠野はとっても静かで、そしてこの日はとっても暑かったのです。駐車場に車を停めて静かな田園風景をカッパふちまで歩くわずかな間に、遠野を散策するという当初の計画を変更して屋内で過ごすことが出来る博物館へ行こうと決めます。遠野では座敷わらしが居るといわれるお宿に泊まりたかったのですが、予約がとれなかったですね。
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そして遠野市立博物館へやってきました。図書館の近くにあります。この博物館は私はかなり気に入りました。やはり遠野の魅力の一つは「私たちが生活している時間や空間とは異なる世界」との境界を感じられる場所として人々に認知されていることだと私は思います。同時に、私がその境界を感じるために大事な要素は、おそらく、音と明るさ、そして人の少なさだと考えています。私が訪れた時間は13時過ぎでしたが見学者がほとんどいなくて、動画を観るスペースの薄暗さとカッパや神隠しといった動画の内容など、不気味さや怖さにドキドキとして良い時間でした。展示もいろいろとあって、私が退館するくらいになると見学者も増えていましたが、文字で埋まったパネルの展示も、なかなかに読ませる文章と内容で、それは「異界と他界」」とか「最後の審判が下される地下世界・地獄」とか「川と異界・三途の河」など、読みながらツバをゴクリと飲み込むような、引き込まれるような読み物でとても良かったです。(「遠野物語と異界」という期間限定の特別展でした) 「黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあう(遠野物語8話)」解説『昼と夜が移り変わる薄暮のころは異界と現実世界を繋ぐ時間の境目とされ、魔物や妖怪がうごめき災いが起きると考えられている』という展示の前で、しばらく想像の世界に没頭しました。遠野を出て水沢へ向かいます。
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今回の旅のラストの宿であるプラザイン水沢にチェックインをします。遠野から水沢へは道路の快適さも含めて随分と楽なドライブでした。明日は長めのドライブになりますのでぐっすりと寝ます。
- 6日目2024年9月12日(木)
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プラザイン水沢は朝食が美味しい、特に画像手前のヨーグルトが美味しい。今回は2回目の利用でしたので迷わず朝食付きプランを選択、朝のチェックアウトも8時で良いのでゆっくりと朝食を楽しみました。
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さて本日は中尊寺にやってきました。今日も暑いのです。月見坂を登るだけで汗をかきます。まずは坂を登った右手にある本堂へお参りします。おやおや、門前に何かいますね。そっぽを向いているのに耳がこちらを向いておるようですぞ。
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うへへ。ほら、人通りも少なくなったしシャッターチャンスだぞ、はよ撮れという感じでポーズを決めてますな。微妙に視線をズラしてますな、フハハ。本堂にて新しい御本尊に合掌一礼のお参りをします。
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そして国宝・金色堂です。覆屋の中は撮影が禁止です。装飾の見事さ、輝く金や螺鈿の華やかさは日本の寺院の中でも特異で珍しい存在です。皆金色の極楽浄土を表現しているとのこと。あさイチで参詣者の少ない金色堂の前でしばらく想像の世界に意識を飛ばします。
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経蔵です。中尊寺創建時の古材を用いて再建されたもので、堂内には平安時代の彩色文様が確認できるとあります。お参りをして中を観ますと、文様とはどれだろう?という感じで木材の地が出ている堂内ですが、右手後方の壁・少し上側に何か文様があります。平安時代の文様か、凄いなと思いました。
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そしてこちらは覆堂(おおいどう)です。案内板によりますと「金色堂建立後五十年ほどで簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て室町時代中期(16世紀)に現在の形になったものとみなされる。昭和38年(1963年)、新覆堂の建築にともないこの場所に移築された」とあります。松尾芭蕉が中尊寺を訪れたのは元禄2年5月13日(1689年6月29日)、この覆堂の中で「朽ち果てた金色堂はかろうじて光を投げかけます」(中尊寺本堂内の案内パネルより) そして次の歌を詠むのです。「さみだれの ふりのこしてや ひかりどう」
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中尊寺の月見坂下から歩いて10分ほどの高館義経堂(たかだちぎけいどう)へやってきました。義経さんが亡くなって500年、ここへ来た芭蕉さんは何を想ったのだろう。そして彼は素晴らしい句を詠みました。「なつくさや つわものどもが ゆめのあと」 この句は本当に良いですね。わずか17文字で、草をなぶる風の様子や奥行きのある景色の中、シンと鎮まる芭蕉さんの気持ちが335年後の私にシンシンと伝わってきますな。高館を辞し鳴子温泉へ向かいます。
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今回もシメは鳴子温泉、7月の前回は滝の湯でしたので、もう1つの共同浴場である鳴子早稲田桟敷湯へ行こうと思っていたのですが、早稲田桟敷湯は9月に改修工事を行うために臨時休業とのことで、前回と同じ滝の湯でぬる湯と熱湯を楽しみました。そして前回はこの鳴子を発つときに自動車が故障し、いくつもの幸運の連鎖で帰りは1日延びましたが無事に帰宅できたと。今回は前回の元々の予定を踏んで、会津西街道を通って栃木・佐野の道の駅を目指しました。暗くなるころですね、会津から鬼怒川へ抜ける山の中を走っている時に土砂降りの雨が降りまして、暗いし土砂崩れは心配だしとなかなか緊張するドライブになりました。前回に車が故障したのが鳴子温泉を出てすぐだったことの幸運をあらためて感じましたね。こんな暗い山奥で土砂降りの時に故障したらどんなに大変だったかと思います。さて、今回も震災の追体験と我がルーツを深く感じる旅となり、満足度の高い旅行になりました。大籠や遠野など個別に再訪したい場所もありますし、今回の7月も9月にも行かれなかった浄土ヶ浜へも、2007年以来の再訪をいずれ果たしたいと思っています。
- 7日目2024年9月13日(金)
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