加納城跡
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かのうさんの加納城跡のクチコミ - 加納城跡のクチコミ
かのうさん 男性/50代
城址公園で変わった初老の男性が子供とお母さんに「土手を登るな」と怒鳴っていました。不信に思いお母さん方に聞いたところ、管理者(自称)は市役所から鍵を持っているとの事で子供が土手を登ると怒るそうです。のちに警察まで来ていました。当時、土手には子供以外にも散歩している方が複数いましたが、土手に登ると森の林道のようで気持ちよいです。ここを登って駄目なら何も無い公園でした。気分も悪くなりました。
- 行った時期:2011年5月7日
- 投稿日:2011年5月8日
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加納城跡の新着クチコミ
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加納城址
加納城は二度築城されている。最初は、文安2年(1445年)美濃守護代斎藤利永によって、次いで家康が本多忠勝に命じて岐阜城を移した慶長6年(1601年)、奥平美作守信昌によるものである。本丸・外堀・石垣・土塁などが残る。『日本城郭大系 9』 かなり広い城址公園になっている。
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- 行った時期:2024年3月17日
- 投稿日:2024年3月26日
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閑静な住宅街の中に忽然とある
JR、名鉄の岐阜駅南加納地区にあり住宅街に囲まれた中にその城跡はあり、南と北側に入り口(門)があり北側入り口がメインのようだ、由来、歴史、等の説明立札や案内板があった、一見普通の広場のある緑豊かな公園の様だった、周りの多くの大木や堀端の石の城垣がかすかに城跡の面影を残す、丸の内、城南通り等お城の名残を残す地名も周りにはある、かの徳川家康が関ヶ原の戦いで石田三成側に着いた、岐阜城主織田秀信を追放、岐阜城が破却され、以前は廃城だった加納城が家康自ら設計再城され、家康の娘(亀姫)の夫奥平信昌が入城、当時は周りは堀と川に囲まれ水に浮かぶ城と呼ばれていた、築城に人力した奉行は本田忠勝であった、その後は従兄弟等幾度も城主は変わったが、いずれも死去、この地の斎藤道三、織田信長、奥平信昌、等この地の城主は必ず滅ぶと言われることとなり、ここ岐阜の道三の時代に築城の際に尽力した大工を城の秘密を守るため生き埋めにした祟りだと言い伝えられる、又当時は北部を【中仙道】が通りこの地に加納宿がもうかられ、岐阜と名古屋を結ぶ【尾張街道】が交差する交通の要所でもあった、1760年頃の藩主によって和傘製造が進められ今でも和傘生産ではここ加納地区の和傘つくりは有名である、
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- 行った時期:2019年4月27日
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2019年4月29日
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花見
桜の花が満開に近く、知人から誘われて花見に出かけました。
城址ですが、石垣が残っているだけで、建物はありません。
中は公園になっていて、何組か宴会をしていました。
城址で宴会の規制が無いのは珍しいかも?
途中で雨が降ってきて、お開きになりましたが、
良かったですよ。詳細情報をみる
- 行った時期:2019年3月31日
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1〜2時間
- 投稿日:2019年4月1日
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広い駐車場を利用できないのが残念。
ゴールデンウィークに近くを通ったので、寄ってみました。敷地の東西には、幼児や小学生が遊べる遊具があって、大勢の子が歓声をあげながら楽しそうに遊んでいました。本丸跡地には樹木が多く植えてあり、これから暑い季節になっても涼む場所が多くあって、特に高齢者向けの散歩コースに最適だと思いました。ただ、残念だったのは、遠い地域からも訪れる人が多いこの時期に、広い駐車場に輪留めがしてあって、車で来た人が駐車できずに困っていたことでした。誰もが、安心して駐車して、この城跡を見学したり、ここでゆっくり寛げるようにしてほしいものです。
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- 行った時期:2018年5月3日
- 混雑具合:普通
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2018年5月3日
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加納城跡
関ヶ原の合戦直後に徳川家康が築城を命じた城です。元々此の地には戦国時代から城があり、一時斉藤道三も居た(司馬遼太郎の国盗り物語に書かれていました)とされる所です。現在は石垣・土塁などが残るのみですが、公園として市民に親しまれているようです。
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- 行った時期:2017年11月
- 混雑具合:普通
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2017年11月3日