壬申の乱跡
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疲れが和らぐ - 壬申の乱跡のクチコミ
グルメツウ すけーんさん 女性/20代
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壬申の乱跡を見に行きました。芋峠越えで5時間かかって歩きました。雨の中でしたがここの景色を見ながらあるくと疲れが和らぎました。
- 行った時期:2018年4月
- 人数:2人
- 投稿日:2018年5月26日
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古代の日本を二分した大合戦の跡
関ヶ原といえば、1600年の大合戦を想像しますよね。歴史好きな人なら、もう一つの大合戦が関ヶ原で繰り広げられた事をご存じでしょう。672年の壬申の乱ですね。これも7世紀の日本を二分して戦われています。
「不破関資料館」のある松尾地区から西へ歩くと、藤古川を渡って藤下地区に差しかかります。その辺りが壬申の乱の戦場だった場所です。歩く道も旧中山道です。それだけに、二つの大合戦はじめ歴史にちなんだ案内板をあちこちに見ることができて、歴史好きにはたまらないエリアだと思います。
藤古川の左岸(東)は急な崖になっており、この上に大海人皇子軍は城砦を築いて待ち構え、西から攻めてきた大友皇子軍を撃退したのです。この後、大友軍は大海人軍に追われるように西へ撤退し、「瀬田の合戦」(大津)にも敗北した大友皇子が自害する形で乱は終息。大友皇子の御首は、首実検のために不破関に持ち帰られ、その後は地元の人たちによって小高い丘に葬られたとのことです。この場所は、目印に植えられた杉により「自害峯の三本杉」と呼ばれています。藤古川右岸(西)で、合戦前に大友軍が布陣していた辺りです。乱直後の混沌に、誰がここを選んで埋葬したのだろうと考えてしまいます。詳細情報をみる
- 行った時期:2017年12月18日
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1〜2時間
- 家族の内訳:お子様
- 子どもの年齢:13歳以上
- 人数:2人
- 投稿日:2017年12月19日
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