二俣城跡
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戦国時代の家同士の結婚は二人の人生に残酷な結果を生みました!!おい家康離婚すべきだろ!! - 二俣城跡のクチコミ
歴史ツウ もとや-んさん 男性/60代
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二俣城案内板
by もとや-んさん(2016年11月撮影)
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二俣城天守跡上から
by もとや-んさん(2016年11月撮影)
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二俣城天守跡石垣
by もとや-んさん(2016年11月撮影)
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二俣城天守跡
by もとや-んさん(2016年11月撮影)
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二俣城南からの天守跡・石垣
by もとや-んさん(2016年11月撮影)
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天正7年(1579年)徳川家康の嫡男、徳川(松平・岡崎)信康は9月15日この二俣城で切腹した。理由には諸説ありますが、私は徳川家康と築山殿との不仲が一番の原因と思います。@今川の人質であった松平元康(徳川家康)は、今川義元の重臣関口親永(母は今川義元の妹)の娘瀬名姫(築山殿)と結婚したが、瀬名姫は人質の元康は格下で気の進まない婚姻と思っていた?!。A家康も、慶長3年(1598年)忠輝(六男)が7歳の時面会した家康が忠輝を見て「恐ろしき面魂かな、三郎(松平信康)が幼かりし時に違ふところなかりけり」更に他の文書にも同様の記述があり、子供を通して築山殿の性格・外見を恐れ遠ざけていたと思われる。B永禄3年(1560年)今川義元が織田信長によって桶狭間の戦いで討たれる。徳川家康(元康から改名)は岡崎に戻るが、その後、織田信長と清州同盟を結んだ事で今川氏真の怒りを買い、関口親永は切腹を命じられ正室と共に自害し築山殿は恨んでいた。C築山殿は人質交換によって、駿府の今川館から子供たちと共に岡崎に移ったが、築山殿を嫌う家康の生母・於大の方が岡崎城に入ることを許さず尼寺で、幽閉同然の生活を強いられる。D永禄10年(1567年)信康と織田信長の長女徳姫(五徳)が結婚する。築山殿としては、我が子信康の嫁が叔父今川義元を殺し、父母の死因の原因となった織田信長の娘を迎えることは絶対に歓迎しないもので、嫁姑の仲は当初から悪かったと思われる。E天正7年(1579年)徳姫は父信長に12ヶ条からなる訴状を徳川家の重臣酒井忠次に託した。手紙には『信康は気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多い・盆踊りにおいて、服装の貧相な者や踊りの下手な領民を面白半分に弓矢で射殺した・鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した・築山殿と唐人医師との密通があった・武田家との内通があった等』信長は忠次に詰問したところ、信康を全く庇わず全てを事実と認めた。信長が家康に信康の処刑を命じたとされるが「信康を殺せ」とは言わず「家康の思い通りにせよ」と答えたといわれる。家康の命令により、築山殿は天正7年(1579年)8月29日信康助命嘆願の途中小藪村で野中重政らによって殺害され、信康はこの二俣城で21歳で切腹した。築山殿の殺害と信康の切腹は、近年では信康を担いだ岡崎衆と家康の浜松衆の派閥抗争が原因とする説も出されている。
- 行った時期:2016年11月
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 家族の内訳:配偶者、その他
- 人数:3人〜5人
- 投稿日:2016年12月18日
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石垣が綺麗なお城
お城入口は狭い道になっています。すれ違い困難さが有るため、通行時は注意が必要です。お城の正面のスペースでゲートボールしていました。微笑ましく思えました。
詳細情報をみる
- 行った時期:2023年2月11日
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2023年2月11日
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天竜川を背に建つ要塞
天竜浜名湖鉄道 二俣本町駅 から徒歩約10分。
高台にあるため坂や階段を上ってくので少し大変です。
鳥羽山公園(鳥羽山城跡)を経由して行くのもアリ。
広場になってる本丸跡に天守台がありますし、
紅葉がとてもキレイで良い散策が出来ました。
すぐそばを天竜川が流れており、
天竜川へ降りれる道もあります。
河原から城跡を見上げると、まさに天然の要塞。
城が建てられたのも納得の立地ですね。詳細情報をみる
- 行った時期:2022年12月
- 混雑具合:やや空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2023年1月3日
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知る人ぞ知る難攻不落の城
この城跡を見たくて、二俣本町駅を下車。
二俣城は規模は小さいのですが、天険の要塞で、武田軍が徳川軍から奪う時も、逆に徳川軍が武田軍から奪う時も、正面から攻めてはなかなか落とせず、水を汲み上げる井戸などに攻撃を仕掛けたりして、物資を断つ方法でしか落とせなかった難攻不落の城です。しかも、家康の嫡男が自刃した城なんですね。この城には、歴史のロマンが詰まってますね。
土塁と石垣しか無い城跡なんですが、ここがあの二俣城ということで、めちゃくちゃ一人でテンション上がってました。土塁も結構跡が残っており、天守もその下の石垣が残っています。非常に大満足でしたね。
自分が歴史を知っているから大満足なんですが、見る人が見たらただの土と石が積まれた公園ですので、評価が変わると思います。こういう城跡は、いろんな情報を知って、当時の情景を思い浮かべられるかで評価が変わると思います。詳細情報をみる
- 行った時期:2022年2月
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2022年2月25日
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二俣城址
二俣城は天竜川と二俣川の合流地点に文亀年間(1501-1504年)二俣近江守昌長によって築かれたのではないかとされる。空堀・土塁・石塁・天守台が残る。『日本城郭大系 9』
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- 行った時期:2021年6月26日
- 投稿日:2021年6月28日
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二俣城址
天浜線の見所は天竜二俣駅の転車台見学、見学開始の10:50にはやや早いので手前の二俣本町駅で下車。駅近くの二俣城址を見てから隣の天竜二俣駅まで歩きます。
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- 行った時期:2020年12月27日
- 投稿日:2021年1月12日