天保山町(鹿児島県)の文化史跡・遺跡
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1 天保山砲台跡
文化史跡・遺跡
鹿児島の天文館から10分くらいのところにあります。砲台はないですが、ここにあったのかなというくらいな...by ダイスケさん
嘉永3(1850)年に作られた砲台で、文久3(1863)年の薩英戦争時に活躍した。 時代 1853
- (1)鹿児島中央駅 車 10分
その他エリアの文化史跡・遺跡スポット
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※掲載されている目安距離は役所・役場からの距離になります。
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文化史跡・遺跡
標高約225mの山頂部に築かれた山城跡。 重富小学校の西側にある岩剣城跡は、享禄2年(1529)頃に蒲生氏により築城された天然の要害に設けられた難攻不落の城です。天文年間に行われた...
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文化史跡・遺跡
島津氏が統治していた平松城の跡地です。当時ゆかりの門があり、当時がしのばれました。城の跡地は、小学校...by sapy1971さん
島津義弘公が慶長年間に居館とした平松城。元文2年(1737年)、再興された越前(重富)島津家の居館となり、周辺には麓集落が形成されました。
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文化史跡・遺跡
島津家初代忠久の二男忠綱からはじまる、越前島津家。 天文年間に途絶えましたが、江戸時代になり島津継豊の弟・忠紀によって再興。 現在は島津忠紀以下の歴代当主とその家族が葬ら...
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文化史跡・遺跡
姶良市にあるかつてあったお城の跡です。解説の案内板がとても詳しくて当時の歴史がよくわかります。姶良市...by akubi123さん
室町時代に瓜生野城として築城された城で戦国時代末期に大規模に拡張され、後に建昌城と呼ばれました。島津家久により鹿児島の本城候補に挙げられました。現在では、通称馬乗り馬場が...
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文化史跡・遺跡
小さな川を渡って辿り着いたとても静かな場所です。今は柵がしてあって洞穴の中には入れません。縄文時代前...by すみっこさん
縄文時代から平安時代にいたるまでの長期間使用された巨大な洞穴。黒川式と名づけられた土器や石器等の道具類、大量の貝殻、動物の骨が発見された。また、約3000年前とされる埋葬され...
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文化史跡・遺跡
毎年11月に祭りがあります!たくさんの出店があり、とても楽しいです!またその中でもしんこだんごがすごく...by ダイスケさん
開山は薩藩禅宗の開祖石屋真梁和尚である。石屋は元中3年(1386)に深固岳の北麓に草庵を結び深固院と名付けて布教を始めた。寺はその後なくなったが貞享3年(1686)吉利領主21代清雄の時...
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文化史跡・遺跡
竜ヶ城(蒲生城)の岩壁約120mにわたって梵字が刻まれています。その数は約1、700字にも及び、1ヶ所にまとめられたものとしては、日本最多の磨崖梵字群であるといわれます。
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文化史跡・遺跡
日本最多の1700の磨崖梵字が岸壁に書かれた場所でもあり、歴史的にも貴重な場所。 かなり近くで見ることが...by めいぷちゃんさん
本城とも呼ばれる。保安年間(1120-24)に蒲生舜清によって築かれた平山城で、郭、空堀、土塁、門などが残されている。城跡は標高160mの龍ケ山にあり、周囲8kmの城郭で...
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文化史跡・遺跡
島津義弘の住んでいた住居の跡です。今は神社の鳥居もあり、歴史を感じるたたずまいでした。解説も参考にな...by akubi123さん
島津義弘は文禄4年(1595)に栗野から帖佐へ移り住みます。家老の新納旅庵が工事の監督をし、館の石垣は加治木の湯湾岳から運んだといわれています。この時、館周辺の町割りも整備され...
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文化史跡・遺跡
天福寺跡の西側岩壁に彫られた23体の磨崖仏です。天福寺は創建時期など分かりませんが、島津義弘の娘お下が亡夫伊集院忠真の菩堤を弔うために再興した可能性があります。
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文化史跡・遺跡
休みの日にうちのファミリーでお邪魔しました。 ここはマニアのおすすめです。 土塁が良く残っています。by えがんだんべーさん
弘安年間京都石清水善法寺から帖佐に入部した平山了清が築いた山城。 時代 平安
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文化史跡・遺跡
島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工金海(和名:星山仲次)は、義弘居館の北西に宇都窯を築き、義弘好みの茶陶を焼いたといわれます。これらの作品は加治木の御里窯の製品とともに「古帖...
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文化史跡・遺跡
垂水出身の画家さんの記念碑らしいのですが 垂水市で活躍をされたわけではないので、あまり有名な方ではあ...by アナログさん
明治7年に垂水市に生まれ、洋画家として活躍。富士とばらの画家として有名で、「海辺の早春」「渡頭の夕暮」「思郷」等の作品を遺されました。 昭和36年に東京芸術学校の教授となる...
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文化史跡・遺跡
垂水市で生まれ育った有名な作曲家さんの記念碑で 鹿児島神社という神社の境内、鳥居の奥の社殿の傍らにひ...by アナログさん
明治元年に垂水市に生まれ、軍楽の道を選び、明治30年海軍軍楽隊に入り、「軍艦マーチ」を世に送り出しました。垂水市では平成11年から「瀬戸口藤吉翁記念行進曲コンクール」が行われ...
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文化史跡・遺跡
蒲生にある、県指定の史跡です。蒲生には武家屋敷の名残の住宅が多数見られ、こちらはその風格ある門構えで...by akubi123さん
蒲生地頭仮屋の正門で、文政9年(1826)3月に再建されたという旨が、地頭仮屋棟礼に記されています。平成11年3月に大規模な改修工事を経て現在地に移設されました。蒲生地頭仮屋の正門...
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文化史跡・遺跡
有名な人物の与謝野晶子の歌碑です!誰しもが一度は聞いたことがある名前だと思います!霧島に来た時はぜひ...by ダイスケさん
鉄幹の父は僧侶で明治14年加治木の説教所(性応寺)へ転居。9歳の鉄幹も父に従い1年余りを過ごした。その頃、鉄幹が黒川の山から、たぶの木をとって植えたのが現在では巨木となって...
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文化史跡・遺跡
元和5年(1619)7月21日、島津義弘が死去し、8月16日には遺骸を鹿児島の福昌寺に送りました。実窓寺は義弘の妻の菩提寺で、この日かねて約束の7人の武士が出発の時刻を期して割腹殉死し...
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文化史跡・遺跡
市の指定にもなっています。灯籠のような形のお墓が多数あり、圧巻の風景でした。境内も荘厳な雰囲気でした...by akubi123さん
中世豪族の蒲生氏8代から13代までの当主一族の墓地で31基がまとめられています。慶応3年(1867)の洪水で埋没しましたが、昭和13年、有志により現在地に復元されました。
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文化史跡・遺跡
歴代の島津公の御屋敷跡地です。敷地の大半は学校になっています。その他に護国神社、市立図書館と郷土資料...by のりゆきさん
慶長12年(1607)、島津義弘は帖佐平松からこの地へ移りました。はじめ加治木城に入る予定でしたが、幕府に禁じられたために易学者江夏友賢に命じて新しい屋形を定めました。 「東の丸...
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文化史跡・遺跡
海音寺潮五郎文学碑では立派な石碑を見ることができます。素敵な文章が書かれており感動しました。観光にお...by みほさんさん
NHKドラマ「天と地と」の著者で文学碑には「私の人間美学はここで形成された。当時の校風が男はいかにあるべきか私に教えた・・・(後略)」
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文化史跡・遺跡
2基の宝塔は、ほぼ同一の規模・規格で、金剛界と胎蔵界の四仏が梵字で刻まれています。欠損している相輪部分を復元すると約3mになる大規模な宝塔です。南塔に「仁治参年」(1242)、北...
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文化史跡・遺跡
南浦文之墓では歴史を感じる史跡を見ることができます。 国指定史跡に指定されており、趣があります。 歴...by みほさんさん
文之和尚は、弘治元年(1555)日向国南郷外浦に生まれ、島津義久・義弘・家久に仕えて島津家の政治・外交に活躍した人物です。 鹿児島の大竜寺の開基や鎌倉の建長寺の住職も勤めまし...
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文化史跡・遺跡
文之和尚は禅僧で名は玄昌、日向国南郷外浦に住んでいたので南浦と号した。島津義久・義弘・家久に仕えて島津家の政治・外交に活躍。朱子学に秀で、漢籍の訓点を施し後世まで「文之点...
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文化史跡・遺跡
運転しながら探すときは気をつけて見ていないと、通りすぎてしまいそうな所にあります。そこだけ別世界とい...by せっちゃんさん
この凱旋門は明治37・38年の日露戦争に、当時の山田村から従軍した人たちの無事な帰還を記念して建造されました。明治39年(1906)3月に 『山田村郷土誌』には、山田村からの従軍者は、...
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文化史跡・遺跡
島津豊久の墓です!この島津豊久は関ヶ原の戦いで敗れたそうです!島津家は今西郷どんでかなり人気ですので...by ダイスケさん
元中2(1385)年に石屋禅師が建立した。日向佐土原城主島津豊久は、関ヶ原の戦いで伯父の島津義弘を守って戦死した。豊久の遺臣は永吉に移住、豊久の墓をここに建てた。以後は永吉島...
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文化史跡・遺跡
高城にある勝軍地蔵は1506年高城城主肥後文次郎盛明が太守島津忠昌を施主として子孫繁栄、武運長久、領...by タカさん
永正3年(1506年)、当時高城城主肥後文次郎盛明が、大守島津忠昌を施主として『子孫繁栄』『武運長久』『領内安穏』を祈願して建立したもので、中央に地蔵菩薩、左に毘沙門天(びし...