湯泊の文化史跡・遺跡
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その他エリアの文化史跡・遺跡スポット
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※掲載されている目安距離は役所・役場からの距離になります。
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文化史跡・遺跡
だだっぴろい場所にぽつんとありました。近辺は利用者が少なくて静かだったので、ゆっくりと見て回る事が出...by ななさん
砂坂孫左衛門の碑は、官造牧から西の海岸に降りた高瀬原にあります。この高瀬原付近は断崖絶壁で通路がなく、干潮時は危険な磯つたいを、満潮時は山手の急な道を3倍近くも遠回りして...
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文化史跡・遺跡
建仁元(1201)年、当時の種子島の島主・平信基は、塩作りに適した場所として、西海岸・西海の下立石集落に塩焚きを命じました。これが“種子島の塩作りの始まり”で『鎌倉式製塩法』...
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文化史跡・遺跡
歴史の教科書に出てきたあの鉄砲伝来地がここかと 少し感動したものの、雰囲気がイマイチでした。 高台の...by かっちさん
種子島最南端・門倉岬に建つこの碑は“鉄砲伝来の地”の象徴として地元の人々に親しまれ、多くの観光客が訪れます。天文12年8月25日(1543年9月23日)に中国の商船が付近に漂着。乗船...
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文化史跡・遺跡
田代集落から本村に向かって約100mのところにあります。化石を含む岩石は、約500万年前(新第三紀鮮新世中頃)に、浅い海で堆積したと考えられる増田層(種子島の基盤を形成している...
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文化史跡・遺跡
応仁3(1476)年頃、種子島家十一代当主・時氏は当時の島の宗教を律宗から法華宗に変える命令を出しました。しかしこれに従わなかった島間の地頭・大塚様は竹鋸びきの刑により処刑さ...
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文化史跡・遺跡
島間向方の島間小学校から豊受神社一帯の地形を利用した標高約75〜110mに立地する山城です。現存するのは土塁(土塀)と堀切で、下城・内城・仮屋・水上などの地名が残っています。水...
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文化史跡・遺跡
663年、日本と百済の軍が唐と新羅の連合軍に大敗したことを受けて(白村江の戦い)、その襲撃に備えての通信ネットワークとして全国に狼煙(ノロシ)を設置しました。種子島も東シナ...
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文化史跡・遺跡
この門は、慶長2(1597)年の「豊臣秀吉朝鮮出兵」に際し、十六代島主種子島久時公率いる島津軍種子島勢の水手(船員)として従軍した網切吉右衛門の功績を立てたことにより作られま...
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文化史跡・遺跡
記念碑よりも高台からの海岸の眺望を見るために来てみて下さい。by みやっちんぐみやちこ先生さん
1894年イギリス帆船ドラメルタン号が前之浜に座礁した際,乗組員は,真所集落の厚いおもてなしを4ヶ月間受けたといいます。記念碑はこうした下中の人々の功績をたたえ,建立されたも...
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文化史跡・遺跡
銭亀遺跡は種子島の南端、門倉岬にほど近い南種子町西之銭亀で見つかった遺跡。この付近は海岸段丘が発達しており、遺跡は段丘上の緩やかに傾斜した標高約85メートルの台地にあります...
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文化史跡・遺跡
日悦上人は種子島十代目島主・幡時の弟で、出家して喜道を名のり仏門に入りました。その後十一代島主・時氏(日悦上人の甥)に代わると時氏自身が信仰していた律宗を法華宗に改宗して...
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文化史跡・遺跡
南種子町南部・中之下字一陣の太平洋に面した砂丘上にあります。昭和29年1月、土器片・骨片などが発見されたことにより、昭和31年8月、広田遺跡を発掘した盛園尚孝氏が中心となり、南...
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文化史跡・遺跡
安政4(1857)年、松寿院(第二十三代種子島家当主・久道の正室で江戸時代末期の種子島の事実上の島主)は大浦川の潮入による農作物の塩害を防ぐため川直しの工事に取りかかりました...
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文化史跡・遺跡
南種子町東部の平山豊受神社内の奥、忠霊碑や西南戦争の招魂碑などとともに菊池竹庵の墓が建てられています。竹庵は文政12(1829)年に平山の瑞堯(ずいぎょう。現在は水牛)に生まれ...
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文化史跡・遺跡
大浦塩田跡は大浦川の河口に広がる湿地帯にあり、種子島で初めて“塩田式の製塩”が始められたところです。それまでは“浜で海水を焚いて塩を取る方法”でしたが、量がたくさん取れな...
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文化史跡・遺跡
記念碑は、大正8年8月におきた遭難事故の悲惨さを伝え、沈没した志自岐乗組員の御霊を弔うため、平山の人々により大正10年9月1日に建立。 大正8年8月4日、重油を満載してボルネオ島...
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文化史跡・遺跡
かつて種子島氏の居城があったところで、一部石垣と土塁を見ることができます。 鉄砲館の前にあるので、い...by かっちさん
種子島島主の居館として第19代島主久基公が山鹿流によって築いたと伝えられる。 時代 1532
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文化史跡・遺跡
薩摩藩の家老であった比志島国隆は、島津家久の怒りをかって種子島の横山に流罪になった。妾であった千代女は国隆を追い渡島し再会したが、島津氏に知れ、国隆に切腹が命ぜられ、千代...
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文化史跡・遺跡
黒木御所は、硫黄島へ逃れてきた安徳天皇が居を構えた場所とされています。 周辺は従者達が居を構えたとされており、住居跡の石垣等が残されています。 復元された黒木御所は文化財...
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文化史跡・遺跡
薩摩硫黄島を訪れる前に俊寛の歴史を勉強していくと理解が深まる。by イタさん
【三島村指定文化財/史跡】(硫黄島地区) 治承元年(1117)平清盛は、鹿ケ谷荘(鹿の谷荘)での平氏打倒の陰謀を知り、平判官康頼、丹波少将成経、大僧都俊寛を鬼界ヶ島(今の硫黄...
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文化史跡・遺跡
「安徳帝」と漢風諡号がおくられた。当時他の天皇は院号だったが安徳のみは「安徳天皇」とされた。平安以後...by つよしさん
【三島村指定文化財/墓石群】(硫黄島地区) 文治元年(1185)3月25日、長門壇の浦における源平の一大決戦で平家は滅び去った。このとき、二位の尼に抱かれて入水したはずの安徳帝...